第15話 くたびれた願い

 独特の生臭い臭気を放つ朱色の暖簾のれんを押しのける。押した手をベットリと受け止める暖簾のれんは私の背丈を優に超えており、はたから見ればその大きな膜にヒトが取り込まれていると思われるかもしれない。


 そして膜の切れ目に自らを押し入らせた先には、私の背後に揺れる朱色と同様のモノが待ち構えていた。表面には隈なくしもの網が浮かび、朱色との色合いが電球の明かりによって際立っている。


 するとその膜のまた向こうにも、別の網目が垂れ下がっているのが透けて見えてしまった。


 私は辟易する暖簾を仮面の額で割き、肩で切っていく。


 そして十数枚以上は過ぎた所で現れたのは個室であった。寝台が3つ横並び、その上を横断するレーンには吊り革のように十人十色の腕が流れている。


「おっと」

「ギャッ」


 部屋に備わる3つの寝台のうち、中央の一つに拘束されていた全裸の肥満男がビクンと跳ねた。その傍らでは目的の人物が悠々と、剃刀かみそりをハンカチで拭っている。


「入って来るならもう少し静かにしてください。びっくりして手元が狂っちゃいますから・・・」

「すいません」


 鮮血の付着したハンカチに剃刀の刃を隠したまま、エプロン姿の男が向き直る。男は武骨で無機質な仮面に表情が覆われているものの、その声色はどこか不服そうで粛然とした空気がにじみ出ていた。


「それで用件は?回収は先日、あなたとは別の方が済ませたはずですが?」

「・・・・・・」


 この場に来て私は迷っていた。すると彼はそんな様子から、なぜ私が黙しているのか合点がいったようだった。


「あぁ、そういうことですか。なら、ちょっと待ってもらっていいですかね」


 そう言う彼はそそくさと、剃刀を肥満男の顔に添えてシュッと動かす。


「イギィッ!」


 顔面からめくり上がる薄い膜が男の悲鳴でブリンと揺れた。


「せめてココだけでも済ませておきたいので・・・」


 それからおよそ一時間後に、肥満男の顔面は紅から白へ様変わりしていた。まだ光沢感のある白い顔の横には、鉄製の注射器と生ハムをよそった銀のトレイが置かれている。


「ふぅ。こんなところでしょうかね・・・ご苦労様でした」


 慎重にトレイを別の場所に移すと、仮面の男は寝台から伸びている棒状のレバーを上げた。すると、太った足が天をあおぎ、ズルズルと寝台から奥の方へと下っていく。


 そして握るレバーに軽く身をゆだねながらぼんやりと仮面は言う。出会った初めの気迫はもうそこにはなかった。


「なんというか・・・こんな作業でも途中で投げ出すのは、やはり抵抗がありますね」


 レバーが戻され、肩を並べる血の滲んだ寝台に仮面の男は腰掛けた。


「お待たせしました。さぁどうぞ」

「その前に一つ質問させてください。あなたはこれで良かったんですか?」


 この問いかけに意味はない。しかし聞かずにはいられなかった。


「言っている意味が分かりませんね」

「ほんとうに今更で言いにくいんですが、こんな事をしてもあなたの息子さんは浮かばれませんよ」

「・・・・・」


 間断かんだんなく回っていた換気扇の三枚羽が事の行く末を眺めている。


「ふう・・・。これはただのワガママですよ。あの子が生まれたのも、その後を追うのもね。親としてではなく、一人の人間として自分はを通したい。ただそれだけです。あなたにもわかるでしょう?」


 仮面の男は両手の半端に乾いた血を擦り落としながら、その手と私を見比べていた。


「それにこの仕事にも嫌気が差してたんです。廊下からうつされて以前より楽になったとはいえ、連中の悲鳴や命乞いは寝ても覚めても頭の中で延々と聞こえる・・・。その都度、息子の顔が頭をよぎるんです・・・。まぁ、なんていうか・・・ぶっちゃけ、もう限界ってことです。なんで早いとこ済ませちゃってください」


 その時の彼の願いはどうしようもなく、くたびれてみえた。


「・・・・・」


 すると彼は一向に動かない私にしびれを切らしたのか、のっそりと寝台から立ち上がり、ギラつく剃刀を片手に近づいて来る。


「それとも、あなたがここに来た理由・・・また知りたいんですか?」


 私は肩を落とし、ゆっくりとシャツに隠れたナイフのつかを握った。


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