第6話 奈落へ

「はぁー、アンタとユウタ君がデキてたなんてさー。マジで意外なんだけど」

「・・・・」

「どうやってオトシたわけ?」


 夕闇ゆうやみに沈む廊下の中で、河上 美淮キチガイの質問攻めにいながらも足早に自分の靴箱を目指す。


「・・・向こうから言い寄って来ただけ・・」

「うっそ・・・。本当なの?」


 今更いまさら、あれが嘘だったなどと言えるはずがない。ましてその理由が、この距離感、情緒じょうちょ、理性のすべてがバグっている狂人女と、配慮やいつくしみの欠片かけらもない優男やさおの二人に吠え面をかかせるためだったのだからなおの事。


「アタシの何がダメだったんだろ・・・?これでもガンバッたつもりなんだけどなー」

「・・・・・」


 普段ではまず感じないであろう、靴箱との距離がやたら長く感じる。


「でさー」


 この女は、まだ退屈を極める話をするつもりでいるらしかった。わたしの前におどり出てくると、潰したいくらいに大きい目を夕日に輝かせて愚問ぐもんを投げかけようとしてくる。


「・・・なんであの時、のんきに水なんか飲んでたわけ?急ごうとか思わなかったの?」


 足を止めた。いや止まったと言うべきか、無意識に足は動くことを拒絶した。加速度的だった自身の足取りは、これ以上コイツと同じ空間に居たくない気持ちと、この僅かな罪悪感を刺激する言葉を聞きたくなかった二つの理由からきていたのだろう。


 しかしその意図いとしていない願いは、河上の愚問に紛れた鋭い刃によって刺し貫かれてしまったようだ。


「・・急いでるつもりだったし・・・ちゃんと保健室に向かってた」


 愚問によって間延まのびしていた空気が張り詰めていく。


「ふーん・・・。てかさ、なんでもっと心配してくれなかったの?怪我けがしたんだけど?それに歩いてたってことは、アタシのことどうでもいいと思ってたわけ?」


 やはりこの女はイカレている。人を殺すと脅迫きょうはくしておきながら、優しくしてもらえると思っている方がどうかしている。それにコイツが生きているなんて、今までの経験上これっぽっちも想定してなかった。


 死人相手に逃走することも、急を要することのいずれも無駄なこと。ただ黙って、大人しく眠っておけばいい存在に気兼きがねする理由がどこにあるというのか教えてもらいたいものだ。


 そのうえ、こうして元気そうにわたしをわずらわせている余裕があるのなら、さっさと帰ればいいものをネチネチ、ネチネチと鬱陶うっとうしい。どうせ怪我などと、デカいケツに青痣あおあざ一つできたくらいだろうに、やかましいったらない。


「・・・・」


 その黒く色めき立つ思いの叫びは依然いぜん、腹の奥底に圧縮されたまま沈黙がこの場を支配していた。実のところ内心の威勢いせいとは裏腹に、わたしは奴の顔を見れないでいて、見てしまえばトイレで出会った殺人鬼と再び目が合ってしまう・・・そんな気がしたのだ。


 その鮮度の良い恐怖が、わたしの口元を監視することで不適切なワードを添削てんさくして、ただでさえ長い沈黙を助長じょちょうしている。もし、この監視役がいなかったなら、不快な怪物がくたばって凱旋がいせん気分だったとでも言ってやったというのに。


「・・・疲れてたから」


 そんな苦悩という濾紙ろしを通って唯一絞り出てきたのは、その一言だけだった。自慢じゃないが我ながら配慮に溢れ、清流以上にみきったセリフだと思う。


「・・・・ふぅん」


 呆れたようで、不満そうでもある声色が風に乗ってやってくる。


「まあいいや。アタシもう先いくから・・・じゃあね」


 すると納得したのか180度クルリとまわり、歩き去って行くかかとが見える。全身を覆う緊張が、遠のく足音と比例して薄れていく・・・というのに汗だけが尾を引いて緊張の証を残した。


 そしておのずとその背中を目で追ったとき、奴は示し合わせたように振り向いて不敵に笑った。


「あぁそうだ・・・アンタに一つ言っとくけど・・」


 わたしには、河上が何を言おうとしているのか分からなかった。けれども、その表情や立ち振る舞いが、女子ランキング3位のモノになったことだけは確かだった。


「アタシさぁ・・・え!?」


 しかしそのせきを切る寸前の悪意は床から響く崩落音によって断ち切られ、そしてまたたくまに音源が目に見える形で、二人を闇に引きずり込もうと廊下に大口を開けた。


「キャッ!」


 突如として床に現れた巨大な穴は夏の暑さをものともせず、わたしの全身をてつかせた。この穴はどこへ通じているのか、わたしは死んでしまうのか、そもそも頑丈そうな学校の床が崩れるなんて前代未聞ぜんだいみもんだし、これでは災害時に避難所ひなんじょとして機能しないではないか。


 そんな色とりどりの思考は床に穴が開き、世界がわたしから去っていこうとし始める瞬間に消えた。なぜならフリーズした体に反して頭はえていたけれど、いまさらどうすることもできないからだ。


 そこでわたしは落ちながら、過去のモノになりつつあるり所たちに思いをせた。


 わたしが生まれた世界、わたしをここまで育ててくれた父、家でいつもそばにいてくれた布団。それらすべてを置き去りにしていく。


 布団が恋しい。父に会いたい。


 そのはかない少女の思いは、無残にも崩れゆく床と共に漆黒の奈落へと葬られていった。

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