第5話 迷妄

 放課後の廊下は昼間の活気を失い、夕日に照らされた渡り廊下を窓枠からのびた影が格子こうしのように囲っている。影と夕焼け、通過するたび交互に染まる視界へ苛立ちながらも保健室にひた走る。


 明滅する視界と痛むわき腹。その痛みに負けてうずくまっても、わたしに寄り添ってくれるのは反響する自分のたてた足音だけ。


 なぜ嫌いな奴の自滅に巻き込まれ、その尻拭いをしなければならないのか疑問に思う。そもそもわたしは、階段から落ちたアイツの状態を確認していない。ならいっそのこと、アレが気絶しているだけという事にけて帰ってしまおうか・・・。


(めんどくさいな・・・)


 仮にアイツの状態がかんばしくないものであっても、のちに悲しむのは奴と周りの連中に限ってのことで、わたしからしてみれば放置して痛むのは学校の評判くらいのものだ。なんなら、ほっといた方が自身のわき腹にも優しいだろう。


 しかしそう思う一方で、あれの生死にかかわらず、逃げれば自分の立場が悪くなるという現実的な可能性が頭をよぎる。


(まぁ、急がなくてもいいか・・・どうせ意味ないし・・・)


 どんなに急いでも、奴が兄や祖父母たちのようになる気がしてはやる気持ちが鈍っていく。今までもずっとこうだった。だから今回もきっとそうなる。


今更あわてても間に合わない。


 わたしは、くすぶる罪悪感をその経験にもとづく事実で黙殺して歩きだす。慣れない走りを披露するのは保健室が見えてからでいいだろう。


(走ったせいで喉乾いた・・・水飲もっと)


 廊下の中腹に設けられた手洗い場にもたれて蛇口をひねり、手皿に水を受けて喉の奥へと流し込む。喉から胃へと水が落ちたことを感じて深く息を吐きながら、排水口に飲まれる水たちを見送ってはせわしい鼓動こどうを慰めた。


(だいじょうぶ・・・)


 うるおう銀色のシンクには、なびくわたしだけが映っている。


 ふと頭を起こしてみると、前方の窓に映る校庭では、もはや人らしい影すらないままに、校舎のシルエットだけがグングンと背を伸ばして人の世界を覆い隠そうとしていた。


 きっと帰る頃には、すっかり日も暮れているのだろう。 


「なに水なんか飲んでんの?」


 ドンッ


 ・・・と、くぐもった心音がそれに相槌あいづちを打つ。


「こっち見なよ」


 わたしは糸のついた操り人形かのように、ぎこちなく顔だけを声に方にやった。


「・・・・なんか喋ったら?」


 背中から全身にかけて波及する寒気に満ちた音波にあおられ、すっかりなごんでいた身体が総毛そうけ立つ。


 あの女だ。追いかけてくるような気配なんて全く無かったのに。


「なん・・で・・いるの・・・!?」


 階段上で感じた本能的恐怖がまた呼び起される。逃げるためにある足が無駄に震えはするくせに、打ち込まれたくいのようになって動けない。やっと閑散期かんさんきに入った鼓動が、またも繁忙期はんぼうきに入りこんで騒がしく、流れる水の音すらき消えた。


 そしてついには目を開けているはずなのに何も見えず、徐々に視界が暗がりだしてひざをついてしまう。


「ちょっと、アンタ具合悪いの?大丈夫?」


 倒れそうになるところを恐怖の存在に支えられる。


「はっ・・・ははっ・・・殺したいんでしょ?すきにすれば・・・」


 逃げ場などもうない。ただ屠殺とさつされるのを待つ家畜と意志を同じくして、これから待ち受ける死に伴う苦痛を覚悟する。


「まだそんなこと言ってんの?もういいってば。それは気にしてないから」

「・・・え?」

「アンタのバカみたいな顔みてたらどうでもよくなっちゃったの」


 なんだコイツは。鬼の形相で殺害予告をしてきた殺人鬼に追い詰められて、死を悟っていたわたしが馬鹿だと?


「・・・言ってたじゃん・・・・殺すって・・・」


 そのぼやきはむなしくも対象に届くことなく、背後の水音と共に流されていった。

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