第10話 

 とある集合住宅の一階エントランスに二人の影があった。それらは互いのすれ違い様に、軽く会釈を交わす。


 挨拶を終えた女性はエレベーターへそそくさと立ち入り、迷わず5階のボタンを押した。ボタンは建設された当時のつややかさを失って、すっかり色褪いろあせている。


 女性はそれを特に気にとめる事もなく、緩くなったボタンを深々と押し込んだ。


 ガコン


 両開きの扉がゆっくりと閉じる。目的の階層までほんの10秒程度。けれど余程退屈が嫌いなのか、あるいは大事な用事でもあるのだろうか。女性はすぐさま、カバンからスマートフォンを取り出して画面上を指で撫でた。


「電池きれてる・・・」


 執拗しつように黒い画面をこすっている女性の注意は手元のスマートフォンに送られているが、ふと正面の方に気配を感じた。


「ヒッ!」


 男が立っていた。扉のガラス越しにうつむいて佇んでいる。大柄で、けれども顔色をうかがわせないくらい帽子を目深まぶかに被り、何をするでもなくただそこにいた。


 女性は取り落としたスマートフォンのことすら忘れ、その男に釘付けになっている。するとエレベーターの動きに合わせて、大柄な男は徐々にその背を小さくしていく。


「はぁ・・・」


 女性は背を小さくしていく男に多少の安心感を覚えながら、完全にその姿が消えるまでを見届けようと足を踏み出した。片や上昇中の身である女性は、容易たやくその全体像を見下ろすことができる。


 ゆえに見てしまった。これでもかと力強く握り込まれた金槌を。


 すると次の瞬間、男はわきの方向へと走った。女性はこの集合住宅の住人であり当然、男が走った方向にある設備も知っている。


それは階段だ。


 わずかに得られた安心感がその一瞬で崩れ去った。そして身体の奥底からは、なんとも形容しがたい肌寒さが女性を襲った。


「ハァ・・・ハァッ」


呼吸が浅くなる。


バン!…バン!…バン!


 深夜の住宅に、コンクリート上を一段飛ばしに踏みしめる規則的な破裂音が響いた。その音は昇るエレベーターを追っているらしい。


 そしてエレベーター内にいる女性は震えながら、ただ祈るような気持ちでモニターに表示されている階層を見つめた。


▲2…エレベーターが加速していき、身にかかる重力が恐怖をあおる。


▲3…外の足音が警鐘けいしょうのように耳朶じだを打つ。


▲4………モニターは押した 5 よりも下の階層を表示したままになっている。


そして・・・


チーン


足音はもう聞こえなかった。


===================


 ガコン…ガコン…ガコン…


 閑静かんせいな深夜の集合住宅に、ぎこちない咀嚼そしゃく音が奏でられている。リズミカルで継続的にループしていたそれは、空がしらみ始める頃になると、けたたましいサイレンの音へと変化していくのだった。

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