第2話 8:00

 安心感をもたらす布団から飛び起き、朝の身支度みじたくを終わらせて中途半端に焼けたパンを頬張りながら自転車にまたがり学校へと出発する。


 という一連の流れは今までの経験上、15分、遅くとも20分以内には完了する。そこから更に、二輪の足を10分ほど走らせてやれば、目的の学校にはたどり着く。


 しかし、わたしの体はそれらの計画にひどく否定的である。そのため一連の動作に入る前には必ず胴、足、頭の説得をしておかなければならない。それには10分で済むこともあれば、1時間要することもあった。 


つまりは学校の門限に、なかば間に合わないことが今ここで約束されたわけだ。


「さいあく・・・・・」


 ぽつりと一言、愛しき布団に愚痴ぐちをこぼした。そして3週間近くは敷きっぱなしの献身的けんしんてき生地きじは、日課と化した愚痴を拒むことなく吸い込んで忠義を尽くす。その頼しさたるや、いつも暗くしっけたわたしの気持ちをなぐさめてくれる。努力することの無意味さを悟らせ、恐怖に立ち向かうことの愚かさを再認識させてくれるのだ。これほど心強い味方は、せいぜい我が父ぐらいのものだろう。


チロリン♪


 布団と肉体が同化していく途中で、さきほど枕元に打ち捨てた板状の目覚まし時計が鳴った。ちょうど片手サイズのそれは、時間を確認する以外にどこかの誰かと連絡できるスマートな機能が備わっているらしく、メッセージの受信時には決まってこうした間抜けな音が出る。


怜香れいか、学校には行けた?】


 手中の画面にそんなメッセージが表示されている。送信元は我が父。わたしにとって布団の次くらいに必要な存在だ。


【のーぷろぐれむ】


 問題など、とっくに解決している。


 怠惰たいだな指が予測変換のわくを通り過ぎて、生えた駄文だぶんが父の名前を押し上げる。そして手中の時計は駄文の重さでグラリと傾き、わたしにならってうつぶせた。枕に顔をうずめ、眼球を焼き続ける現実から目を背ける。


 今のわたしにできること。それは全ての責務を意識の外へと放り投げ、この身を包む布地と共に恍惚こうこつな夢へと旅立つことだけだった。


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 暗闇くらやみに塗りつぶされたコンクリート製の廊下。上部の虚空こくうから等間隔に吊られた電球の明かりが、チラチラと点滅しては風もないのに揺れている。

  

 この廊下を訪れるのは何年ぶりだろうか。旧友を出迎えるように立ち込める、ほこりと鉄の臭いを嗅いでいると昔の私を思い出してしまう。とうの昔に捨てたはずの感情、どうやらそれはこの廊下にあったらしい。


 そして私はうずきだす郷愁きょうしゅうを振り切るように、点滅する明かりを背にして次の明かりへと歩を進めようとした。


「おぉ!お久しぶりです」


 声のした方へ振り返ってみると人の頭ほどある眼球が、私と同じ目線で立っていた。


「はい、お久しぶりです」


 彼はここへきた当初、道案内をしてくれたイサキさんだった。非常に目が良く、この暗い廊下でも夜目よめが利くのが彼らしい長所だ。


 床から伸びた触手のような肉に繋がり、先端の眼球だけが鎌首をもたげて私を覗いている。その姿は、遠目で巨大な肉鈴蘭すずらんと人が会話している異様な光景に映るのかもしれない。


「こんな所で珍しいですね。なぜ廊下にこられたのですか?」


 質問する彼の細い血管に覆われた白身が、ツヤツヤと照明の光を反射している。


 そういえば道案内をしてくれたときも、初対面でありながら今みたく無邪気に目を輝かせて、根掘り葉掘り聞いてきた好奇心旺盛おうせいな人だったことを思い出す。


「ちょっと用があるんですよ」

「ほほぉ、面白そうですね。ついて行っても構いませんか?」


 案のじょうといったところで彼は好奇心に従い、ぐにゃりとを描いて言い寄ってくる。


「それはやめといた方がいいかと思います」

「理由をお聞きしても?」

「・・・実は会長から口止めされているんですよ。だからすみません」


 さすがの彼も会長という言葉には弱かったようで、すんなりと引き下がった。


「それならますます気になるところですが・・・やめておきましょうか。それにしても会長から直接仕事を頂けるなんて、偉くなられましたね」

「いえ自分なんて、あなたよりも経験の浅い若輩じゃくはい者です。・・・今回はたまたまですよ」

「そう謙遜けんそんしないでください。こう見えても、あなたのことを誇らしく思っているんですよ?後続の成長を見ていると教師としての血が騒ぎます」


 高鳴る感情を表すようにブルブルと眼球は体を震わせる。


「ありがとうございます。・・・少し早いですが、これで失礼します。すみません。今度はお互いに暇があるときにでもゆっくりと話しましょう」


 そう別れを告げるも、眼球は行く手をさえぎってくる。


「あぁ。それはそうと、この辺りで女の子を見かけませんでした?」

「・・・女の子ですか?見てませんよ」

「あまり見かけない年頃の人間なので目につくとは思うのですが、逃げ足のもう速いこと、速いこと・・・」

「そうですか・・・」

「もし先に見つけたら、取らずに教えてくださいね?」

「・・・そんなことしませんよ。管轄かんかつ外なので」

「なら良かった!ではまた今度!」


 そう言って、先陣をきるように眼球は廊下の暗がりへと姿を消した。


「女の子・・・」


 去っていく眼球を見届けると、私はその場で立ち止まって得られた情報を玩味がんみする。


 万が一それが知り合いであったなら私はどうしたらいいのか。それを確かめたい衝動にかられるが、知りたくない気持ちもある。しばしその思考の間で揺れていると、左腕に何かが勢いよくからまったのを感じ取る。


 見るとそれは少女で、おびえたように私の腕にしがみついていた。


「た、助けて下さい!!変な怪物におそわれてるんです!」


 私はひどく驚いたと同時に安堵あんどした。見たこともない顔、聞いた事もない声。これが知り合いであるはずが無く、当然身内であるはずも無い。


 少女は前と後ろの暗がりへ繰り返し牽制けんせいするようににらんでおり、私はただその動向をジッと眺めている。


 すると、反応がない自分を見下ろしている存在に違和感を感じ取ったのか、そこで少女は初めて私の顔を見た。


「・・・ヒッ!」


 仮面越しに映る少女の顔が恐怖によって彩られる。


 そして彼女はすぐさま逃げようとしたが、足がもつれたために尻もちをついてしまった。


「いや・・・やめて・・・」


 それでも後ずさる少女は後ろの壁に両手をついて、動くはずのない堅牢けんろうなコンクリートごと押し下げようとしている。


 私はその憐れな子どもに近づきながら、ゆっくりとシャツに隠れたナイフのつかを握った。

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