百年異世界交流(短編)

雨傘ヒョウゴ

百年異世界交流



 それは、小さなコインだった。


 小学一年生の夏、みんみんと大きな蝉の音を聞きながら田舎の曾祖父ちゃんの家で私は畳の部屋にいた。

 そこでこっそり開けたタンスの引き出しの奥底に、大切にハンカチに包まれながら眠っていたものだ。

 なんだろう、と不思議に思ってゆっくりと開いて見てしまった。


 大きさは五百円玉くらい。まるでついさっき出来上がったばかりというように傷一つなくぴかぴかで、真ん中には見たこともない男の人の横顔が描かれていた。刻まれた文字は、もちろん読めない。どこか外国のものだろうか。

 そっと指ではさみながら持ち上げて、まるで何かを覗くように片目を細めた。すると障子紙から通り抜けた光と合わさり、きらきらと輝きが降ってきた。


「……きれい」

「美樹。なんだ、気に入ったのか」

「……うひっ!」


 唐突に背中からかけられた声に驚いて体ごと跳ね上がってしまった。

 振り返ったら、曾祖父ちゃんだ。勝手なことをしてしまったという自覚はあったから、慌ててコインを隠そうとした。


「別に、隠さんでいい。あるのも、それ一枚でもねぇしな」


 曾祖父ちゃんは年のわりにしゃんとしていて、動きがしっかりしている。どっかりと膝を立てて座って、「ほしいならやる」とまっすぐに私の手の中のコインを見ている。


「い、いいの……?」

「お前にゃもう会わんかもしれんからな。後悔する前に渡しとく」

「会うよ!? 来年も来ますけど!?」


 勝手に来ないことにしないでよ、照れ隠しに叫ぶとそっぽを向かれたけれど、教えてくれたこともある。これは曾祖父ちゃんのお姉さん――私が会ったこともない人がどこかから持ち帰ってきたものなのだと。


 さて、どこかって一体どこなのか。多分曾祖父ちゃんは知っていた。でも教えてくれなかった。

 持ち帰った金貨は大変な価値があるものに違いなかったけれど、一度にお金に変えて目立ちたいわけでもなかったから、お姉さんと曾祖父ちゃんは互いに分けて、ちょっとずつ使っていくことにした。


 どうやらこの金貨のことはお母さんも、お父さんも知っているようで、これからも先祖代々引き継いでいくのだろう。けれど、不思議な金貨は一体どこから来たのだろう。


 私が曾祖父ちゃんに会ったのはそれが最後だ。夏を越える前に、曾祖父ちゃんはいなくなった。とっくに九十を越えていたから大往生だ。でもやっぱり寂しかった。

 曾祖父ちゃんは、私に一枚の金貨と一緒に、いくつかの言葉を残した。金貨は机の引き出しの中に入れて片付けていたけれど、ときどきこっそり取り出して、光にかざした。


 ――後悔する前に渡しとく。


 なぜだろう、曾祖父ちゃんの声が聞こえるような気がした。

 キラキラとした輝きは、まるで私に何かを語りかけてくるみたいだった。でも多分、気の所為だろうなとも思っている。




 ***




「……は」


 口からものすごく間抜けな声が出た。なぜって、一面の花畑の中にいたから。


 たしかに私はいつも通り学校から帰ってきてランドセルを机の横にひっかけて、道着を別の鞄にいれて準備をしつつ、ついでに引き出しの中から金貨を取り出したはずだった。金貨を見るのはただの日課だ。あいかわらずぴかぴかしていて綺麗だなあ、とぼんやり考えていたはずなのに、周囲は真っ白な花畑だ。


「……え?」


 足元にわさわさと生えているのは色のないチューリップのように見えたけれど、どこか違う。花びらの枚数が多いような気がする。でもじっくり花壇を見たことなんて数えるくらいだから、やっぱり自信がない。なんだか違和感がある、という言い方がしっくりくる。


 わけもわからず下を見てから顔をゆっくりと上げると、青い空が広がっていた。家の中にいたはずなのに、どう考えても外だった。外だった! 手の中の金貨を握りしめたまま、反対の手では口を押さえていた。もう口どころか頭を抱えそうだった。目の前がくらくらする。絶対おかしい。息ができなくて視界が揺れた。


 このときの私は、今なぜこんなことになっているのかなんてわかるわけがなかったし、『異世界』なんて言葉すらも知らなかった。なんせ小学二年生だ。混乱なのか、恐怖なのか、心臓がばくばくとおかしいほどに音を立てた。そんな私を、『彼』はじっと私を見ていた。


 遠くに、男の子がぽつりと一人立っている。チューリップもどき達がざわざわと風で揺れて音をたてた。


 男の子は何かを叫んだけれど、よく聞き取れなかった。そして慌てつつも足元の花を踏まないように気をつけて、ゆっくりと私のもとにやってくる。「お、お前! お前!」 よくよく聞いたらなんか同じことを連呼していた。いきなり知らない子にお前と言われる筋合いはどこにもない。


 近づくにつれて彼の表情がよくわかる。大きな目を目一杯に開いて、大声を出しながら必死に近づいてくる。私と同じ背丈くらいで年頃だって同じだろう。着ている服は真っ黒でずるずるとした布の変な服だ。服と同じ色合いの髪は腰まで長い。段々来るスピードが速くなってくる。ばたばたと髪の毛が暴れていた。綺麗な顔をしているから、近づくにつれて女の子のように思えた。でもやっぱり男の子だ。


 私は眉間に力を入れて身構えるように正面を向いていた。少年はやっと私の前にやってきたと思ったら、はあはあと息を荒らげて、おえっと咳き込んだ。急ぎ過ぎか。そして何か必死に声を出そうとして、体をくの字にさせてぷるぷるしている。「せっ」 繰り返して失敗し、「せっせっせっ」 やっと感情を吐き出すことに成功したときには、両手をぐっと握って空に向かって吠えていた。


「成功っしたっっっっ!!!!!」


 いや、何が。

 と思いつつもこいつが現在私をこんなところに連れてきた元凶であることは理解した。

 なので静かに息を吸い込んだ。


「ああ、成功しちまったよ、うわどうしよどうしよ、困った、教会にばれたらやばい、でもさすが俺だ、超天才だ!!!! うひっ、うへへっ、うへへへへっ。しかしまてまて、まずは確認することが大切じゃないか、その通りだ! なあ、お前! 『ニホン』から来たんだよな、とりあえず名前を教えろ、まずはそこから、んぶべぼふっ!?」


 そして少年の腹に力強く叩き込んだ。えぐりこむように打つべし。



 ***



『美樹、もし自分の意思と関係なしに知らねぇ場所についちまったらな、最後にものを言うのは自分の拳だ』


 私の頭の中では、ときどき曾祖父ちゃんの声が聞こえる。

 これは小さな部屋の中で、金貨を譲り受けた、最後に曾祖父ちゃんと会ったときのことだろう。


『この金貨は誰にでも見せていいわけじゃない。いざってときまで、大切に持っておけ。人生、何があるかわからんからな』


 そして金貨が私を助けないときは拳でもなんでも使って後悔しないように生き延びろ。とのことだった。

 生き延びろ、という言葉はそのときはどういう意味かわからなかったから家に帰って辞書を引いた。死ぬはずのところを生きて、命が続く、という説明の言葉を見て、結局またよくわからくなったけど、なんだか大げさなことを言われたような気がするなぁ、と笑ってしまった。でも、曾祖父ちゃんはその言葉通りに私や、孫であるお母さんや自分の子供達を育てた。


 私は物心ついたときからちょっとした武術を嗜んでいる。これも曾祖父ちゃんの言う“生き延びろ”の一つらしい。手段はたくさんあるに越したことはない。


 曾祖父ちゃんが言うことを今も私はちっとも理解ができていないけれど、体を動かすことはなんだかしっくりきた。今日も学校が終わってから道場に向かおうとして部屋で準備をしている最中での事件だったのだ。


 ちなみにしっくりきすぎて、考えるよりも先に手が出ることもしばしばある。

 曾祖父ちゃんの『最後にものを言うのは自分の拳だ』のセリフの後には『でも美樹、お前はさすがにもうちょっと頭で考えるようにしろ、脳みそもちっとは動かせ……まじで拳は最後だからな?』と別の言葉もくっついていた。脳みそが筋肉というのはよく言われる。




 でも曾祖父ちゃん。私の拳はとにかく役に立っているよ。まあ拳今は関係ないけど逆エビ固め。


「あだだだだだだだ」

「それで異世界って? あんたが私をここに喚んだって? ふざけんなコブラツイスト」

「まじなにまじなになんの呪文なのまじでなんなの!?」


 謎の美少年、しかしもしかすると悪の手先とも思しきそいつにプロレス技をかけ続けた結果、私はだいたいの事情を理解した。男の子の名前はカナン。このフロレルジュ国という見たことも聞いたこともない国の神官見習いであるという。そもそも神官見習いって一体なんぞ。ふざけてんのかこの野郎。


「ふざけてねぇし大真面目だよ! 言っとくけどな、神官ってのは誰でもなれるもんじゃねぇんだぞ……! 選ばれし者の中のさらに才能を持つものだけが学校を卒業して王に仕えることができる中で俺は飛び級しまくりの天才児だぞ、ウルトラスーパー天才神官見習い様と呼べ!!!」

「はいコブラツイストスタートします」

「ほごごごご」


 レッツサブミッション。


「うーん。だいたいわかったような、わからなかったような……」

「わかったならこの関節技を外してくれ、そろそろ死にそう……」


 ただでさえ伸びない背が縮むかもしれない、とカナンが顔をくしゃくしゃにさせたので仕方ないなと開放することにした。逃げても捕まえることができそうだし多分カナンよりも私の方が具体的には五倍くらい強い。曾祖父ちゃん、こんなときのために私は道場に通っていたんだねとお星さまになった曾祖父ちゃんに心の中で問いかけてみると、いや拳は最終手段だかんなまずは話し合いからスタートしろと諭してくる声が聞こえるような気がした。難しいことを考えるのは苦手である。



 いつまでも二人で花畑の中にいるわけにもいかないから、私達はカナンの家に移動することにした。びっくりするほど広い家には天井まで本棚があって、ぎゅうぎゅうに本が収納されている。紙の匂いがあふれてくらくらしそうな家だったけれど、本以外には生活感のないテーブルと椅子がぽつんと真ん中にあるだけだ。


 カナンはやっぱり同じ私よりも一つ下の七歳だった。でもこの広い家に一人で住んで、ちゃんと学校に通っているという。そんなこと、私の中の常識では考えられない。

 ご飯とかどうしてるの? なんて疑問はなんとなく恥ずかしくて聞けなかった。


 カナンが出した紅茶はおいしかった。こんなところでさっき会ったばかりの人が出した飲み物を飲むだなんて自分でもどうかと思うけど、カナンが私と同じ年頃で、ついでに紅茶を出したときの彼はトレーを両手で持ちながら顔をぐしゅぐしゅにさせて鼻水をすすっていたので警戒する気も失せてしまったということもある。

 自分を天才と叫んでいたくせに、気が強いのか弱いのかわからない。


 私ははちみつがいっぱい入った、ほっとするような温かさを胸の中に飲み込んで、机を挟みながら少しずつカナンと話をした。


「だから、お前……名前、美樹だっけ。美樹は聖女として俺に召喚されたってことになるんだけど……」

「アアアアン??」

「あ、顎を! しゃくれて主張するなぁ! 昔は珍しかったけど、今じゃそんなに珍しくないんだよ! 数年に一回くらいだけど、この国じゃ聖女が召喚されることがあるんだぁ!」

「いきなり移動してイセカイ……? とかマジふざけんなだし、他にもこんな馬鹿なことしてるってか!」

「待って! 話をきいて! お願い俺の話を聞いてー!!」


 私に腕ひしぎ十字固めをかけられながら、カナンは語った。


 ――昔、フロレルジュ国では聖女召喚はただの伝説として扱われていた。

 国に瘴気が溢れどうしようもなくなったとき、藁にもすがる思いでニホンという異世界の国から聖女を二人、召喚した。一人はもとの国に帰り、もう一人はフロレルジュ国に残った。


 なぜなら、召喚された聖女は、一人しかもとの世界に帰ることができなかったから。


「……本当なら二人とも、もとの世界に帰りたかったはずなんだ」


 カナンが見せたのは一冊の神話の本だ。長い脚立に上って、本棚の中からこれだと取り出して見せてくれた。もちろん日本語ではないから何が書かれているかなんてわからないけれど、女の人が悲しみに涙を濡らしている絵を見るところ、きっと悲しいページなんだろう。


「フロレルジュ国とニホンを繋ぐ“道”は、とても、とても狭かった。人一人がやっと通れるくらいの細さで、その上当時は道が巡り合う時間も短かった……。一人の聖女が国に残るしかなかったとき、当時の王は聖女が帰還する方法を探した。でもやっぱり無理だとわかったとき、今度は新たな悲劇が起きないように方法を模索した」


 ぴらり、とカナンはページをめくった。挿絵はチューリップだ。さっき見た花畑にいっぱいにしきつめられていた白い花だろうか。


「この花はニホンとフロレルジュ国をつなげる道なんだ。花を一本残らず刈り取ってしまえば、聖女召喚は封印されるんじゃないかと考えた。でも気づいたんだ。歴史を消して解決することなんて何もない。現に、過去のフロレルジュ国では聖女はこの国に召喚されることを幸福に感じると伝わっていた」

「……いやそんなわけなくない? 見たことも聞いたこともない国だよ? とりあえず私は今来てふざけんなとしか思ってないけど」

「そりゃ、その通りだよ。でも歴史は、聞く人間にとって心地が良いものが残されていくんだ。召喚された当初は誰も聖女がもとの世界に戻りたがっているなんて思わなかった」


 そんなもんだろうか。そんなもんかもしれない。

 学校でうまくいかなかったことは、私はなるべく早く忘れたいタイプだ。嫌なことは人に話したくなんてない。だから人に話すときは、いいことばかりになってしまうかもしれない。


「そもそも花を一本も残さず全てを刈り取るということは現実的に難しいし、万一新しい聖女が召喚されたとき、道がないんだからもっと帰還が困難になってしまう。扉を狭めるということは、帰り道がなくなってしまうことと同じなんだ」


 だから、とカナンは力強く本のページを叩いた。


「俺達神官は、あえて召喚の技術を残していくことにした。今よりも、もっと “道”を広げることにしたんだ。聖女が召喚される自体を完璧に止めることができないのなら、ニホンとフロレルジュ国を通じる穴をもっともっと、大きく広げたらいい。一人しか通ることができなかった道を、いつでも通れるようにしたんだよ!」

「つまりホースをめちゃくちゃぎゅっと握ったら通る水の量は減るけどもとには戻らない、自由にさせといたら水は行ったり来たりし通り放題ということ……!?」

「なんか例えがよくわからんけどそんな感じかな?」


 なんにせよいつでも通れるということはすぐに家に帰ることができそうだ。

 さっさと準備しないと稽古に遅れてしまう。早く早く、と逸るような気持ちになったとき、ふとテーブルの上にある本が目に入った。さっきカナンが出してくれた神話の物語だ。まったく読めない、と思った文字のはずが、よくよく見ると見覚えがあるような気がする。ポケットに移動していた金貨を取り出し、ころんと転がす。なんとそこには同じ文字が刻まれている。まさか、と気が付いた。


 カナンは金貨に触ることもできず、ぎょっとしたような声を出して人差し指を震わせている。


「こ、これ、五代目の皇帝時代の金貨じゃねえか……! なんでこんなもん持ってんだよ! 五百年前の……この本の著者だぞ! 保存状態良すぎだろ!」

「えっ!? いや、いやいや! 五百年前って! 知らない知らない、たしかにどこからかもらったって言ってたけど詳しくは聞いてないし……!」

「この国から、ニホンに伝わった金貨か……。そうか、時間なんて簡単にねじれるからな。俺達にとっては五百年前でも、そっちにとっちゃ違う、かもしれない……」


 カナンは口元を押さえてぶつぶつと考えて検証している。

 もしやニホンに戻った聖女というのが曾祖父ちゃんのお姉さんで、こっちにとっては五百年前でも向こうにとったら百年もないのかもしれない。そして曾祖父ちゃんは異世界というものを知っていたのならば。


 どこに行っても、なんでも使って生き延びろと言っていた言葉の意味が少しずつ分かってくる。

 ……何か、不思議な感覚が胸の中にあった。曾祖父ちゃんの姉ちゃんは日本に帰った。そして私の手の中にあるこの金貨は、五百年の時を越えてもとの世界に戻ってきたのだ。


 それって、絶対、すごいことだ。

 どくん、と心臓がなった。けれども、熱くなるような胸の内と反対に、冷え冷えとするものもある。


「残った聖女の人は、どうなったの……?」


 曾祖父ちゃんはお姉さんが戻ってきて、とても喜んだんだろう。でも、喜んだということはその反対だってあるに決まっている。


「……帰ることができなかった聖女は王の妻になったと聞くよ。お二人は最後まで仲睦まじく、聖女と国のあり方を探し続けたそうだ」

「ふーん……。でもさぁ、歴史は都合よく変わるものなんでしょ? 案外元気なカップルだったかもしれないよ」

「元気なカップルってなんのことだ?」

「わかんないよ。想像と違うかもよって言いたかっただけだし。でも、こうして本になって、時間を越えて、大事に伝わっているんだね……」


 それはとても、とても大変なことだったに違いない。クラスでした伝言ゲームは正確に伝えようと頑張るチームがいれば、面白がってわざと内容を変える人もいた。五百年だなんて長すぎてもう何年なのかもわからない。きっと私なんかでは想像もできないくらいに色んなことがあったはずだ。


 それでも伝えようとしたんだろう、と考えたところでやっぱり難しいことを考えるのは嫌いなので、頭が痛くなってきた。代わりに、そっと本を閉じて表紙をなでた。重たく、しっとりとしている。どきどきして、ぞくぞくして、少しだけ怖くなった。ぎゅっと胸を掴まれたみたいな、そんな感覚だった。


「あの、さ。カナン。こんなところにいきなり来てびっくりしたし意味わかんないし最悪じゃんって思ったけど、ありがとう。曾祖父ちゃんのお姉ちゃんのこと、こんな形で教えられるなんて思わなかった。でも、知ることができてよかった」


 結局、曾祖父ちゃんは異世界なんて言葉は何も言わずに死んでしまった。もしかしたら、私のお母さんや曾祖父ちゃんの娘であるおばあちゃんなら知っているのかもしれないけど。

 でもお姉さんが消えてしまった後の世界が、こんなふうに変わっているだなんて絶対誰も知らない。


 これは、誰も知らなかった続きの物語だ。

 とても大切に、知らない誰かが大事に守ってくれたものだ。そのことを、知ることができてとてもよかった。


 カナンはしんとしていた。さっきまでのうるさいくらいだったのに、神妙な顔をしている。


「改めて、ありがと。というわけでさっさと家に帰してくれる? この後用事があるんだよね。先生にどやされちゃうし」

「美樹、あの……」


 その、とカナンはもごもごしていた。なんだかおかしい、そもそもなんだかさっきから静か過ぎたような気がする。嫌な予感が重なっていく。


「え? なに、どうしたの」

「いや、なんていうか……こ、拳を、拳を見せるなァ! その、うう、さっき、たまにニホンから網を通り抜けて召喚される人がいるって言ったじゃん」

「うん?……うん」

「でも実は、美樹は、違うんだよね。俺が無理矢理通したんだ」


 そういえば成功した、と出会い頭に言われたような。


「これは召喚って技術で、帰還の技術を覚えるためにはまず喚ぶことを知らなきゃだめなんだよな。俺は、見習いなんかじゃなくて、早く神官になりたくって、自分ができるってことを証明したくて、その、勝手にしてしまったというか」

「ん? はあ、ううん?」


 つまり、ということは。


「待って、もしかして私、帰れないの!?」


 ぎょっとして叫んだ。どうしよう、とさっきまでとは違う意味で心臓が痛い。どくどくする。カナンは両手で頭を抱えながら顔を伏せた。そして暗い声を出した。


「……ニホン人が、元の世界に帰る場合、教会に行かなきゃいけないんだけど」

「う、うん」

「そのとき調べたらどうやってこの世界に来たかがわかるわけで、聖女召喚が違法というわけじゃないけど昔からの流れでほいほいすべきものじゃないという考え方であって」

「おお?」


 雲行きが謎であるが、カナンはまとめた。


「俺、めっちゃ怒られる……」

「怒られとけやァ!」


 とりあえずみぞおちに一発入れといた。



 ***



 こうして私は教会にいる見習いじゃない本物の神官さん達から平謝りされ、お詫びの品とともに自室に戻った。時計を見ると三十分くらいしか経っていなくて、体感時間よりもちょっと短め程度だ。これが時間が歪んでいるということだろうか。なんとか道場にも間に合いそうだ。……溜息がでてしまった。


 別に口止めされたわけではないけれど、多分こんなの言っても誰も信じてくれない。お母さんに話すか、話すまいか考えて、とりあえず保留にした。


「異世界、まさかの日帰り旅行以下のレベルだった……」


 呆れたけど、すぐに違うな、と思った。これはそうなるようにフロレルジュ国の神官さん達が努力した結果だから、馬鹿にしてはいけないものだ。でも同時に教会の神官さんにこってりと絞られて頭に大きなたんこぶをつけながらオエンオエンと泣いていたカナンを思い出して笑ってしまった。


 もうすでに記憶の中にしまわれてしまった花畑はとても綺麗で、なんだか夢の中にいたような時間だった。


「カナンかぁ……変な子だったな」

「やっほう呼んだ!?」


 天才の名前を呼んでしまった!? とハッピー元気な声が聞こえる。空耳にしてははっきりしすぎているので自分のおでこを触ってみた。数秒の間の後、勢いよく背後にあった自分の部屋のカーテンを開けてみた。窓の向こうではまさかのカナンが親指を立ててイエイとポーズを付けている。


「いやなにこれなにどうなってんの!? ほんとどうなってんの!?」

「美樹が帰るときにマーキングをつけといたんだよな、ほら俺天才だから、考えたら実行せざるを得ないの。窓と窓の空間をねじまげてくっつけちゃったから、こっちは俺の家だぜイエーッ!」

「何がイエーだ、くっついてきちゃったみたいなノリで言うのやめんかぁーーーー!!」


 こうして、なんとも不思議なことに私の部屋の窓はカナンの部屋とくっついた。窓の向こうは異世界なんて、一体誰が信じるだろう。カナンは頭のたんこぶが取れていないままにへらへらと笑って、自分の有能さを褒め称えていた。多分彼はアホである。



 ***





「俺達もしかしてお互いしか友達いないんじゃない?」

「そもそも私達って友達だった?」


 夏休みの宿題をしていたある日である。窓枠に腕をかけながら、カナンはハッとしたように口元に手を当てた。カナンの家と私の部屋の窓がくっついてもう半年。うっかりうまくいきすぎて引き離せないという最低すぎる状況に、私は手を伸ばしてアイアンクローをきめた。『今まで生きてた中で経験したことのねぇー握力だァーッ!』とカナンはひんひんと泣いていた。


「とっ……えっ!? 友達だろ!? じゃなきゃなんで俺が今更こんな低レベルの勉学につきあわされなきゃならんのだ!?」

「ぶっとばすぞ……」

「そうやってすぐ腕力に走るぅ! 俺の天才的な脳みそに万一があって秀才レベルになったらどうすんのォ!」

「そんなことよりはい次の問題」

「はあーーーん? ミリメートル??? そんな単位は知らん。けれどもまかせろ、今から教科書読んでおぼえたるぜーっ!!」


 窓の向こうできゅぴんとポーズをとるカナンに「すごいすごい」と両手を叩いてやった。私の適当過ぎる応援にもかかわらず、カナンは満更でもない顔をしてへへん……と鼻の下をこすっている。そして私の専属家庭教師として熱心に本を読む。


 見かけはアホだけれど、カナンは賢い。認めたくないけれど。文字をあっという間に覚えて、下手をすると私よりも上手に国語の教科書を読む。


 ――家に帰って、カーテンを開けたら異世界がある。そんな不思議はいつの間にか私の日常になっていて、毎日カナンと話をした。


「とりあえず、カナンのおかげで宿題はなんとかなりそう。ありがとう」

「気にすんなって。美樹は頭よりも先に手が出る怪力ゴリラだもんな。いかにしてゴリラの怪力を避けながら人間レベルに教え込むか考えるのって、結構勉強になるんだぜ。へへっ……」

「へへじゃねぇよ、あんたに友達ができないのはそういうとこだよ」


 だいたいそっちにゴリラが生息しとんのか、というつっこみには動物図鑑で覚えたと答えられた。相変わらずの記憶力だった。これが小学二年生のことだ。



 ***



「エエッーーー!!? そっちの学生って、あ、あと九年くらい!? そんで、人によってはさらに四年!? そこからまたプラスになったりならなかったり!!?」

「考えてみたらたしかに長いけど……飛び級? だっけ。カナンみたいなのはあんまりないんじゃないかな」

「短いなーーーー!」

「そっち!?」

「神官学校はさーー、だめなやつは進級もできないし三十過ぎても卒業できないやつもザラだよ」

「え、えええ……そんなに長く学生なの……もう下手したら一生学生なんじゃないの……」

「一応学校に行ってても手伝いとしての給料は出るしなぁ。卒業したら見習いがとれて一人前とされるってだけで、実際やってることは普通の神官と同じなんだよ。でも長すぎどんだけーーーーーってやつな!」

「あんたもしかして勝手にテレビでも見た?」


 最近お母さんが私がいないはずの部屋でテレビの音がするとかで不思議がっていた。気をつけるから部屋には絶対に入らないでね、とお願いしておいたけど不安である。


 窓の向こうが異世界になってしまったことは、未だに家族の誰にも白状できていない。くっついて剥がれなくなった、というのがカナンの弁だから、いつかは言わなきゃだめなことのように思うけれど、そういうことは後で考えよう、と後回しにしている。

 もしかしたら一生後回しになる可能性もある。


 テレビを見たのかと追及されたはずのカナンは「ふふ……」と両手をパーにしてべたっと顔につけた。多分ポーズをとっている。こいつはポーズをとりがちである。多分自慢したいことがあるのだろう。「……言ってみなよ」 許可しなくても言いそうだが、せめて自分でタイミングを決めた方が覚悟をしやすい。


「窓を大きく越えてっっ!! 入ることはっっ!! できないけれどもっっ!!」


 ドドドドド、とカナンは後ろに効果音を背負っていた。


「近距離のものを移動させる、そっちふうに言うならサイコキネシス的な魔法を開発してみたっっ!!! つまりこれがあるならいつでも美樹の部屋のテレビを見放題、知識を溜め込み放題あだだだだだだだだッ!!!?」


 ちなみに腕一本分程度は向こうに入ってもいいらしいのでアイアンクローなら余裕である。


「魔法か何かしんないけど封印して。ふざけんな封印しろ」

「お願い口調と命令口調が混じっててこわい! します! 永久封印でございますっ!!!」


 ひいひいふうふうしながらカナンは開放された頭を押さえた。それにしても、魔法なんてものがあるんだなと今更ながらにまるで呆れるような変な気持ちになってしまった。


「……なんか、異世界って感じ。魔法なんて聞くとさ」

「エ~~~? 帰還魔法使っといて今更だわ~~~」

「そうっちゃそうだけど……っていうか話し方がむかつくんですけど……」

「魔法は神官の領域だかんね。神様に祈って力をおすそ分けしてもらってるのよ。聖女が召喚されたときに元の世界に戻すのも重要な役割だけど、新しい魔法を作って精査して、安全なものを人々が便利になるように伝えるのも仕事の一つだから」

「ほ、ほう……」

「俺だって美樹に出会ってから色々魔法を考えたし」


 まだ見習いだからほんとはだめなんだけど、個人的にならいいよな、ドゥフフ……と嫌な笑い方をしている。もう知らんとしか言いようがない。つまり改めて考えると異世界の窓をくっつけるなんてやばすぎのヤバである。


「考えたって……さっき言ってたサイコキネシス魔法とか?」

「それもある。他だと美樹以外がカーテンを開けても俺の部屋じゃなくて普通に外の景色が見えるように勘違いさせるカモフラージュ魔法とか」

「えっ!!? そんなことしてたの! 言ってよ! そしてすごいじゃん!」

「ンドゥフフ……俺は一人ぐらしだからいいけど美樹のお母さんや姉ちゃんが来たらささっ俺が逃げるための階段の音がめっちゃ大きくなる、足音ドンドン魔法だって実は常にかけてんだぜ……」

「ネーミングセンスがひどいけどすごい! へぇー!」

「あとはそうだな、美樹が窓をノックしたら風を伝って俺の耳に届いて即座に俺がこの部屋に転移するように窓ノックトントン友情魔法をかえている!!!」

「…………」

「美樹に呼ばれて気づかないなんてそんなこと誰が許しても俺が許さない!!!」

「距離感こわ……」


 こいついつも部屋にいんなと思っていたけどどうやら違ったらしい。重たすぎる。


「友達は大切にしなきゃいけないからな!!!」とカナンは叫んでいたけれど、友達がいなさすぎる彼である。本来ならたくさんの知り合いや友達に平等にわけられるものが、全て私に集約していた。もっと世界を広くしろ。これが小学三年生。



 ***



「……さすがの俺も、もうちょっと周囲に目を向けるべきかなって思うんだけどどう思う?」

「すごい成長している進化してる!!」

「よせやいほんとのことを言うなよ照れるなー!! 俺はただの天才だって!」

「いやもうなんて返せばいいのかわからない。でもそこまで自信を持って生きてると多分とても楽しいと思う」

「ハッピーなのは事実だよ、いやそうじゃなくって、神官学校を卒業するじゃん? そしたら神官長になるからさぁ、あっ、神官長って全部の神官を束ねる長のことなんだけど」

「過程飛び過ぎじゃない? そこまで前しか見えてないの逆にすごくない?」

「それで神官長になったらさ、さすがに自分ひとりきりの面倒を見てるってわけにはいかねーよな?」

「つっこみは一切聞こえてないかんじ? ……まあいいか、うん、そうかもね」


 よくわかんないけど適当に頷くと、「やっぱりかぁ~~!!」とカナンは顎に手を当てて大げさに頷いた。


「どうしたらいいもんかな? 凡人に合わせるのって面倒でさ~~」


 そして相変わらずさらりとうざいことを言う。私は魔法の常識なんてわからないから何を言われたところではいはいそーね、と適当に流せるけど、同級生の、しかもカナンは飛び級と言っていたから年下相手にこの扱いは純粋にうざいだろう。


「……あー……うん」


 でもいちいち言うのはめんどくさいし、まあいいか、となってしまう。「じゃあとりあえずとっつきやすい感じになったら? 見かけだけでも」 随分当たり障りのないことを言うなあ、と自分でも思った。


 カナンは私よりも少しだけ背が低い。でも服は大きくていつもサイズが合っていないからだるだるだ。着ているものはローブ、というものらしい。それから髪の毛は女の子みたいに長くてさらさらだけど、本人曰くただの伸ばしっぱしだ。


 私の言葉を聞いて、カナンはぽかんとした顔をしていた。やっぱりちょっと適当に言い過ぎたかな、とそわそわする。カナンは口元を尖らせたと思うと窓枠に手をついて、もう片方の手では自分の髪をくりくりといじった。


「……短い方がいいか?」

「えっ、いや、そんなことは、ん? どうかな?」


 口ごもると、カナンなりに色々と考えたらしい。「わかった切ってくる!」「え」 じゃあな! と消えた。それから数日後、「切った!!!」と言ってカーテンを開いて顔を出したカナンの髪は、どこにでもいる男の子みたいな短さになっていて、ヒエッ!!!!と私は息を飲み込んだ。


 大変なことをさせてしまった、と思わず腰を抜かすと、本人はどこか満足げで「周りのやつらからさぁ、何があったんだって話しかけられてさぁ! こんなに話したの初めてだよ、美樹が言う通りだなー!!」と、ぺかー! と笑っている。笑顔がまぶしすぎる。


 そして数カ月後。


「そういやいつの間にかまた髪が伸びてた!!!」

「早すぎじゃない?」


 ダーンッ! と窓を開けながらぱっぱらぱーと笑うカナンに突っ込まざるを得ない。根毛仕事しすぎか? カナンはおかっぱ少年にクラスチェンジした。


「……これ、また切った方がいいやつかな?」

「ど、どうかな。同級生と話せたんでしょ? 目的は達成したし、あとは適度に、自分が邪魔にならないくらいでいいんじゃない?」

「なるほどな~~!」


 切るのメンドクセーから伸ばすかな~でもこれはこれで洗いやすいんだよな~とうにょうにょしているカナンを見て、こっそりと胸をなでおろした。私の言葉一つでゼロか百か程度に髪型が変わるなんて怖すぎである。ぜひぜひ自分で判断してほしい。


 そうしてほっとしている間に、「とりあえず伸ばすか!」とカナンの中で結論づいたようである。


「俺、親がいないからさ! いやいるけどあんまり会ったことないからさ、俺に何か言って教えてくれるやつってあんまりいないんだよな。……だから美樹が色々教えてくれるのはありがたい!」


 カナンの両親は、カナンの才能を恐れて逃げたそうだ。あまりにも、カナンは畏すぎた。見習いのくせに、すでにいっぱしの神官である彼は、いつも力を持て余していた。多大に人の気持ちに鈍くて落ち着きがないから、いつもどこか辛そうにも見えた。


「……いや、そんな」


 どう言っていいのかわからなくて、そっぽを向いた。小学四年生のことだ。





 ――カナンは神官になるしかなかった。彼の両親はカナンから逃げるためにカナンを神官学校に無理矢理入学させた。でも、自分の才能をカナンは誰よりもわかっていたから、望んで飛び込んだわけでもないくせに生きる力を手に入れようと必死で、誰よりも早く一人前に成りたがった。


 私は相変わらず道場に行って、学校に行って、また夏が来るとカナンに宿題を手伝ってもらった。植物を何か一つ育てて観察しようと目標にあったので、何をしようかと困っていたら、そっとカナンは小さな種を出した。「うちの花畑のやつだけどよかったら」「異世界転移させる気かオメーーーッ!!!」「丁度今持ってただけなのぉ~~~!!」


 フロレルジュ国からもとの日本に戻ってきた私はきちんと教会で“印”をつけてもらっている。だから腕一本分くらいは許されても、もうフロレルジュ国に行くことはないし、そもそも日本で育てた花は異界と異界を繋ぐ道とはならない。


「つまり普通の花ですので観察日記にどうでしょうか……」


 と、私にボコボコのボコで頭にたんこぶをつけまくったカナンは鼻をすすりあげながら提案した。しかしチューリップに似ているとはいえ、日本に、いやこの世界にない花を育てるなんてお断りである。だいたい夏に育つチューリップなんて先生にふざけていると勘違いされそうだ。却下しかない。


 植物の観察日記は無難に朝顔にすることにして、「夏休みって、ニホンの子どもたちにとっちゃ大きなイベントなんだろ? 美樹も友達と遊びに行かないのか?」と尋ねられた。


 小学五年生の夏、私がしていることといえば道場と家を往復して宿題をするくらいである。健全すぎて逆に不健全だ。チッ……と舌打ちしようとして、嫌な思い出が胸をよぎった。美樹ちゃん、なんか怖い。美樹ちゃんって……。後ろでぼそぼそと聞こえる陰口だった。


 考えるよりも手が出てしまう。口も悪い。女の子を殴ったことはないけれど、からかってきた男子はボコボコにした。もちろん誰からも褒められなかったし、怒られた。かばった子だって怯えていた。曾祖父ちゃんの不安は多分全部あたっていた。いつか子孫の誰かが異世界に行くことになるかもしれないということと、私の短気が収まらなかったこと。


 いつかカナンが言っていたお互いに友達がいないというのは本当のことだ。


「……美樹ってさぁ、考えるのが苦手っていうより、見ないふりが得意なんだよ。腹が立ったら、やっちゃだめってわかっててもそれを見ないふりをするんだよな。でも、だから俺と友達でいられるんだよな。俺ってめちゃくちゃうっとうしいし、うざがられることが多いけど、俺のそういうところも見ないふりとか、聞こえないふりをして流してくれるから、俺達友達でいられるんだよ」


 出会ったことに感謝だな! と両手を広げてぱあっと笑うカナンは本当に都合がいい。言いたいことは色々ある。自分が早く神官になりたくて禁止されていた召喚術を使ったくせにとか、自分でうざがられてるとかわかってたのかとか。


「……どうかな」

「美樹が見ないふりをするんなら、代わりに俺が見てやるよ。安心しろ! 俺達、でことぼこでぴったりコンビの親友だろ?」

「……でこぼこってなんなのよ」

「えっ、凸と凹だよ、知らねぇの!?」

「知らんわ! なんで私よりも日本語に詳しくなってんのよ、っていうか勝手に親友にランクアップすなー!!!」

「そこは見ないふりしておくれよぉ!」


 ぴえーっ! と泣いているカナンを見て、思わず笑ってしまった。そしたらカナンも笑って、「美樹と話すと楽しいから毎日だって会いたいくらいだ」と言っていたけど、私達毎日窓をノックして会ってるじゃん、と思ったけど、なんだか恥ずかしくてそれ以上言うのはやめておいた。



 こんこん、と窓をノックする。すると窓ノックトントン友情魔法でカナンがやってきて、勢いよくカーテンを開ける。やっぱり何度考えてもネーミングセンスは最悪である。




 ――なんの変哲もなく小学六年生が過ぎた。私は少しだけ我慢を覚えた。いつまでもカナンに凸凹コンビと言われるわけにはいかない。でこぼこの意味は辞書で調べた。だいたいどっちがでこで、どっちがぼこだ。別にどっちだっていいけれど。


 引き出しの中の金貨を確認する時間は以前よりも減ってしまった。なんせ窓の向こうには友達がいる。毎日忙しいのだ。話の流れで、金貨は机の中にそのままでしまっていることをカナンに伝えると、『あんなに価値があるものを、信じられない!』と顔を真っ青にしてすぐさましゅぴしゅぴ針を動かし、手作りの巾着を渡された。なんとも器用な。


 そして私は中学一年生になる。

 慣れない制服に袖を通して、くるりと回ってみた。セーラー服がなんともかわいい。カナンはじっと私を見つめた。整っている眉が形を変えて、どんどん不思議そうにハの字になる。


「……水兵さん……?」

「知識ィ! 知識の偏りィ!!!」


 お前やっぱ勝手にテレビを見てやがるなとボコモードの戦闘モードに入ろうとして、ふん、と鼻で笑った。なんせ、この春から私も中学生だ。今までとはわけがちがう。


「まあまあ、カナンと出会って小学二年生からだから、ええっと五年くらい? だからね。殺戮マシーン、拳が鉄と言われた私ですけど大人になってみせますよ……?」

「えっ、七年だろ?」

「えっ?」


 多少なら計算間違いもある。でも指を使って考えて、やっぱり長く見積もっても五年だ。六年目の間違いかな? と慌ててカナンの年を聞いて確認すると、私よりも一つ年下だったはずのカナンは、いつの間にか一つ上になっていた。

 つまり、私が十二歳で、カナンは十三歳。


「えっ、いや……」


 なんで? と、そればっかりだ。年齢に関しては最初に聞き間違ったのかもしれない。でもやっぱりおかしい、目の前がぐるぐるする。


「あー……ほら、時間なんて簡単にねじれるから」


 フロレルジュ国から私の曾祖父ちゃんに伝わった金貨は、いつの間にか五百年も前のものとなっていた。


「ね、ねじれるって、そんな」


 おかしいと思っていたことはある。毎日会っているのに、毎日だって会いたいと言ったカナン。髪が伸びるのも随分早かった。おかしいと笑い話にしていたけれど、世界が違うということを、私は改めて理解した。やっと、理解した。


 でも、カナンはカラッとして笑っていた。「そりゃこんなこともあるよ」と言う彼は神官として私が知らない知識や価値観を持っている。


 こんなことあってたまるか、と思うのに、何をどう言えばいいのかわからない。歯がゆくて、唇を噛み締めた。そして、「っていうか美樹、クラスの連中から殺戮マシーン、拳が鉄って言われてるの? それまじやばくない?」「そこは今一番関係ない!!!!!」




 ***




「えっ、ていうか私昨日も今日もノックしたけど、そっちじゃもう三日経ってんの? うそでしょ絶対嘘でしょ」

「嘘なんてつくわけないじゃん。っていうか何、俺は気になんないけど、そういうの気になる感じ?」

「当たり前じゃん、ええっと、私が一年経つ間にカナンはええ、うそ、つまり、ええ!?」

「落ち着け落ち着け。ゴムみたいな感じなんだよ。伸びたり、縮んだりするんだって。だからこないだは三日でも、その前は二日だった」

「そっか、びっくりした……」

「でもその前は一週間かな」

「めちゃくちゃ伸びてんじゃん!!!!!」

「伸びたり縮んだり……? ちょっとまてこれゴムじゃなくてガムとかの方がいいかな? 規則性はないんだよね」

「どっちでもいいわ!!!」


 中学一年生。



 ***



「薄々気づいてたんだけどカナン、背が伸びてない? 前はちびでちびでちびだったよね?」

「逆説的に考えて。美樹がちびになってるんですぅ~~」

「なってたまるか成長期だわ! あんた今何歳!? 何歳なの!?」

「十五歳で~~~~す。ウェ~~~~イ!」

「私十三だけど! また一年間があいてるんですけどーー!!?」


 中学二年生。



 ***



「美樹、美樹! 俺とうとう学校卒業した! やばかったー、長い道のりだったー。でも史上最年少よ? 十七で卒業! 天才だわ~~やばすぎだわ~~もう歴史を作りまくりのまくりまくり」

「まくり連呼しすぎて何言ってるかわけがわからん」

「とりあえず祝うか~~~~!! ヒュウッ、ドンドンッ!」

「めちゃくちゃ一人で手を叩いて大盛りあがりじゃん」


 中学三年生。




 それから少しずつ、時間の流れが早くなった。次の日窓を開けると一年が経っている。少し大人の顔をしたカナンが、にかりとしている。とっくの昔に背が伸び切った彼は、「まだ夏休みの宿題なんてあるのか?」と笑ったけれど、それが記憶よりもずっと落ち着いた声になっていたから、びっくりした。同じ人じゃないみたいだった。「また花を育てるのか? ……もうしないか。でも、種ならいくらでもやるけどな。あれは悪い花じゃない。感情を吸い取るんだ。泣きたいときには、少し落ち着く」と教えてくれたけれど、うまく返事ができなくて、そっぽを向いた。

  カナンにも、泣きたいときがあったのだろうか。


「やあ、美樹。久しぶり、五年ぶりかな」


 そんなに経っているわけがない。私にとってみたら、たったの一日だけだ。カナンは年相応の優しげな顔つきで、自分が神官長になったことを告げた。友達なんて誰もいないと言っていたはずの彼はいつの間にかたくさんの部下に慕われるようになっていた。


 十年ぶりだな、と言われた。笑い皺が深くなって、少し白髪が目立っていた。


 その次は、二年、六年、また十年。どんどん、彼は知らない人になっていく。


 ある日窓を開けると、部屋の風景がおかしなことに気づいた。窓の向こうはカナンの家のリビングがあるはずなのに、ぽつんと大きなベッドが一つある。私がじっとそれを見つめていることに気づいたらしく、深い皺が刻まれた顔で、「ああ」とカナンはゆっくりと頷いた。


「最近、足腰が辛くなってきたんだ。美樹に呼ばれたとき、すぐに行けないと悪いだろう。この年になると、何度も魔法を使うわけにはいかなくてね……いざってときに使えなければ意味がないから」


 なぜだろう。その言葉を言われたとき、とても胸が痛くなった。鼻の奥がつんとした。

 彼といくつかの言葉を交わして、私はカーテンを閉めた。次にこの窓を開けたとき、カナンは一体いくつになっているんだろう。しわがれた声だった。ベッドの中に潜り込んで、こわくて、こわくて胸が痛くなった。カナンはどんどん変わってしまう。


 こわい。


 学校から帰って、窓の前に立った。


 こわい。


 ノックをするには、カーテンを開けなければいけない。このカーテンを開けたら、いつもの臙脂色の、カナンの部屋にあるカーテンが見える。手を上げて、カーテンを開こうとして――。


 ……怖い。


 私は、そのまま動かなかった。勢いよく自分の部屋のカーテンを閉めた。見ないふりをした。カナンは、私はよく見ないふりをすると言っていた。その通りだ。怖いから見ないことにした。一日くらい、一日くらい。



 ――次の日、窓はただの窓になっていた。


 小学二年生のときから、ずっとずっと別のどこかにつながっていた窓はすっかりそんなことを忘れたみたいにきらきらとした太陽の光を運んでいる。


「う」 握りしめたカーテンはぐしゃぐしゃだ。「う、う」 そのまま、力なく座り込んだ。「う、う、う、う……あ…………」 泣くなんてもんじゃない。腹の内側がひっくりかえってしまいそうだった。大声を上げた。だって、ずっといきなりだったから。わけもわからないくらいに、びゅんびゅん時間が過ぎていったから。一日くらい、考えることを休んだっていいじゃないかって。そんなわけない。


 そんなわけないのに。


 カナンは死んだ。おじいさんになって、曾祖父ちゃんと同じように死んだ。後悔しないように生き延びろ。曾祖父ちゃんは、そう言って私を心配していた。なのに私はまた見ないふりをした。それは、絶対に、そのときだけは、してはいけなかった。

 ぐずぐずで、動くことなんてできない。私が馬鹿だったから、お別れすらもできない。違う、別れたくなかった。ずっとずっと友達だった。友達だったのに。


 吐きそうなくらいに涙が出る。でもやっぱり限界があって、止まりそうになる度に無理矢理泣いた。きっと私のことは、誰も許さない。誰が許したって私が許さない。そう思うのに、何かの許しが欲しかった。カナンがつくった袋ごと金貨を握りしめて、部屋の中でまんまるになってうずくまった。


 そのとき、袋の中に奇妙な感覚があることに気がついた。

 金貨以外の、何か小さなものが入っている。開いてみると、植物の種だ。これを作ったのはカナンにしてみれば大昔のことで、まだ彼がやんちゃだったときだ。花畑の手入れをしてときどき体中をどろだらけにしていたくらいだから、うっかり種が入ってしまったのかもしれない。


 まるで導かれるみたいに私は鉢植えを買って、ただの窓になってしまった窓枠に置き、種を植えた。育て方はチューリップを参考にしてみたけど、見た目は似ていても別の植物だ。これでいいのかどうかなんてわからない。でも、一人で模索するよりずっとマシだ。でもそもそもチューリップは種じゃなくて球根だから、最初の時点でつまずいたけど、もうなんとか頑張るしかない。


「土ってチューリップ用ってあったやつにしたけど、これ違ってたら最初からつんでない?」

「種を埋める深さ! 謎! こればかりは他の花の種を参考にするしかない!」

「水やりは朝にするってそうなの!? これでいいですかね!?」


 まるで夏休みの自由研究だ。あれだけしないと繰り返していたのになんということだろう。緊張していたのか、妙に早く目が覚めた。だって植物を育てるなんて朝顔ぶりだ。もともとランニングをしているので問題ないけれど、これじゃあ朝じゃなくて深夜である。ちくたくと動く時計を見つめて、やっとの時間になったと飛び跳ねて水をやった。そして毎日観察する。近いくらいにじっと顔を寄せて毎日今か今かと待った。芽が出た。跳ねた。ちょっと泣いた。


 育つ過程は意外なことにと思えばいいのかよくわからないけれど、本当にチューリップのままだった。図鑑と同じように育っていく様を見ると、安心した。でも、育ち方はとても遅い。普通のチューリップなら植え付けから開花まで半年程度らしいけれど、そもそも芽が出るまでに半年はとっくに経っている。よくぞ心が折れなかったものだと自分で驚く。季節なんて関係ないのだろうか? そこから先の進みも遅く、思わず定規で毎日大きさを測ってしまった。ちゃんと大きくなっている、とわかったとき、ほっと息を吐き出した。


 ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて芽は育ち、ぷくりとした可愛らしい芽すくすくと大きくなった。つまんだらすぐに壊れてしまうんじゃないかと不安に思うような柔らかい葉っぱは固く、しっかりとぐんぐん伸びた。水はつるつると緑をつたって、たっぷりと腹に溜まる。黄緑色の蕾が、いつしかできていた。


 このとき、私はもう高校の卒業も間近だった。あれだけ苦しかった感情はどこかに消えてしまっていて、それがまた悲しかった。カナンは、この花は感情を吸い取るのだと言っていた。食われたのだろうか。でも、あんなに汚くて、悲しくて、腹立たしくて、そんな自分の心を食べてできあがるものがどんなものか、想像することが怖かった。それでも毎日水をやった。


 窓の外ではピンクの桜の花びらが散っている。ずっと見えていなかった、お隣さんの庭だ。風が吹く度に、ちらちら、ちらちらと泳いで流れて、どこか遠くに消えていった。ふと、なんとなく、窓を開けた。


 窓を開けるのはカナンがいなくなってから初めてのことだ。開ける気になんてならなかった。――そのとき、黄緑色の蕾がむくりと一瞬にふくらみ、弾け飛んだ。

 ばちん!


 小さな蕾の中にどれだけ詰めていたのかと驚くほどで、大量のポップコーンが出来上がったみたいだ。真っ白な花弁は一瞬にして部屋中を竜巻のように激しくなめとり、目をつむって開けたときには風の中にさらされて、わずかな花弁がちらりと待っているだけだった。慌てて、それをつかもうとしたのに、ひらりと窓の外に逃げていく。


「あ……」


 てっきり、カナンの花畑のようなきれいなチューリップができるのだと思っていた。でも残ったものは鉢植えの中にある葉っぱだけで、遠い空では白とピンクの花弁がわずかに入り混じり、それもまた消えていった。


「……そっか」


 許してほしいと思った。花を育てることができたら、誰かが許されるかもしれないと、きっと心のどこかで思っていた。でもそんなわけがない。勝手に、自分で期待して、勝手に落ち込む。嫌だな、と唇を噛みしめると喉の奥がひりついた。

 数年ぶりに流した涙は、馬鹿みたいに泣いたあのときよりも、ずっと苦くて、苦しかった。




 ***




 私は大学に入学した。同じキャンバスに二年も通えば新鮮さもなくなってくる。サークルには入っていない。入る気にもならなかった。


 馬鹿のように必修科目を一年生の間に詰め込みすぎてしまったから、たまにぽっかりとした時間がやってくる。今日の授業はたったの一時間だった。何をするでもなく、家に帰るわけでもなく、帰宅途中の近所の公園のベンチに腰掛け、足を伸ばした。また春がやってきたのだ。頭の上ではちらほらと桜の枝が揺れている。苦い思い出しかないから、さっさと過ぎ去ってほしい。そう思ったあとに嘘だな、と思った。


 春も、秋も、夏も、冬も。私の全部にカナンがいた。だから、どこをどう生きようとも思い出すのは彼のことばかりで、ただ眉間の皺が深まった。


 そしてカナンからもらった袋の紐を伸ばし首から下げて、その中に入った金貨を握りしめることが癖のようになっていた。でもその日はなんとなく、空の下でぴかぴかと光らせてみたくなった。曾祖父ちゃんにもらったときと同じように。


 ころり、と手のひらから金貨が滑り落ちた。


 冗談でしょ、と思った。こんなこと、一度もない。慌てて金貨を追いかけた。以前は机の中にいれっぱなしにしていたけれど、今は目を離すと不安だからずっと肌見離さず持っている。だからもしなくなってしまったらと思うとぞっとする。


 ころころと転がっていく金貨は、小さな少年の靴に当たって止まった。小学校の低学年か、幼稚園の年長か。男の子は自分の足元にある小さな金貨をじっと見下ろしている。どうしよう。


(だ、大丈夫……。他の人からすれば、きっとただのコインか何かだと思うはず)


 まさか金貨なんて思わないだろう。でも小さな男の子が相手だから、むしろそっちの方が危ないかもしれない。


「ごめん、それ私のなんだ。取らせてもらってもいいかな」


 相手がどんな子かはわからない。だから慎重に言葉を選んだ。男の子は帽子を被っていた。春とはいえ、日差しが強い。帽子のつばを持ち上げて私の顔を確認した後、彼はそっと金貨を拾った。そして私に手を伸ばして返してくれた。よかった。


「ありがとう、ごめんね」


 外で出そうとするからだ。さっさと袋に入れようとしたとき、「よう美樹」と男の子に言われた。もちろん知り合いではないし、こんな年下に下の名前で呼び捨てにされるいわれはない。気の所為だろう、と思って無視しようとしたら、「美樹ってば」ともう一回言われた。今度は絶対気の所為ではない。


「えーっと、どこの子かな……」


 道場には今も通い続けているから、もしかしたらその関係かもしれない。「わかんないかねぇ」と男の子はどこか芝居がかった話し方をして、腰に手を当てる。「俺だよ俺」


「オレオレ詐欺……」

「カナンだよ、カナン! 久しぶりだなー!」


 五年ぶりじゃん、なんて軽いノリだった。軽すぎだった。


 冗談でしょ、と言いたいけれど私はカナンのことを誰にも話していない。だからこの少年が、カナンのふりをすることなんでできない。それに幼い頃のカナンの仕草が妙に被った。信じるも、信じないとも両方言えない。ただ今現在、何かおかしなことになっているということだけはよくわかった。

 公園ではきゃあきゃあと楽しそうな声が聞こえるけれど、まるで別世界だ。


 小さな男の子は混乱する私をよそに、ニッと笑っている。かちんとしたから、勢い余って聞いた。


「君がカナンだったとして、なんで……ここに?」

「なんでって、最後に会ったときに言っただろ? 『魔法はいざってときに使えなければ意味がないから』」


 年をとって、あまり動くことができなくなったときのことだ。以前までは私が窓をノックするだけで、どこにいたってカナンは文字通り魔法を使って飛んで来てくれた。でも頻繁に魔法を使うことができなくなったから、彼はリビングにベッドを移していた。その姿を見て私は奇妙な胸の痛みを感じたけれど、今なら分かる。カナンが、カナンじゃないみたいで怖かった。そしてそんなふうに思う自分が嫌だった。


「死ぬ間際に、いざってときの魔法を使ったんだ。ニホンに移動するための魔法だよ。美樹の金貨を目印にして魔法が発動したとき俺は丁度死んでしまったから、魂だけがこっちに来た」

「に、日本に移動する……?」

「なんせ俺は天才だからさ! そりゃあ人生の集大成をかけて召喚魔法の正反対を作り上げたってわけ!」


 サイコキネシス魔法やら、ノックコンコン魔法やら、今まで数々のものを作り上げてきた彼だ。カナンができるというのならできるのだろう。でも違う、根本的に違う。私は、どうやって来たのか、ということを知りたいんじゃない。『なんで来たのか』 それを知りたかった。

 そして、知りたくもなかった。


 私はカナンを見捨てた。死んでいく彼が怖くて、見ないふりをした。忘れたはずの感情が、ずきずきと胸をえぐる。痛くてたまらない。耳を塞ぎたい。


「美樹、俺はお前のことならなんでもわかるんだよ……。お前、俺のことを『見捨てた』な」


『カナン』が、『カナン』の形をして私を責めている。それは望んでいるものでもあった。中学三年生のあのとき、カーテンを開けるとカナンの家は消えてしまって、あるものはただの風景だった。重たすぎる事実があったはずなのにまるで誰もが知らないふりをしているみたいで、すぐにただの日常が戻ってきた。そのことが苦しかった。


 見捨てた。そうだ、私はカナンを見捨てた。

 気づけば、私はその場に座り込んでいた。じゃりじゃりとした土の上で震えながら耳を塞いで、強く目をつむった。私はいつもこうだ。怖いから見たくない。自分の欠点にも知らないふりをする。大人になったつもりでも、子供の頃と何も変わらない。


「美樹」


 小さな子供の力で『カナン』は私の腕を引っ張った。ただの子供だ、そう思ったのに意外なほどに力強くて、びっくりして顔を上げた。


「俺は」


 小さな男の子はじっと私を見ていた。まっすぐな瞳で、逸らすこともできなかった。


「お前のことを――許す!」


 そして、叫んだ。


 どれくらいの時間が経ったんだろうか。体中の力が抜けていた。私は男の子に腕をひっぱられる形のまま、ぽかんと彼を見上げていた。

『カナン』はむふんと笑ったあとに、今度はにかっと歯を見せた。


「そもそも、見捨てられたなんて思ってない。でも美樹なら、そう考えるだろうなあって思っただけだ。なら、それでも許すとしか俺には言えないよ。だってさあ普通にあんなの怖いよなぁ。しまったなあって死にながら考えたんだ……いやこういうことを言うから俺ってだめなのか?」


『カナン』は首を傾げながらぼそぼそと呟いている。けれどもすぐに私に目を向け、はっきりと告げた。


「いいか、もう一回言うぞ。お前は俺を見捨ててないし、もしそうだとしても俺はお前を許す」

「ゆ、許すって……だって、私は、カナンの最期を見送ることができなかったんだよ……!? 次の日、窓を開けたら、まだ一日、会うことができたかもしれないのに……!」


 何度も何度も考えて、後悔したことだった。だから驚くほど自分の口は流暢だ。言えば言うほどに、その通りだと頷いて自分のことが許せない。最低だと苦しくなる。


「大丈夫。次の日開けてても多分死んでた」

「そんなわけないでしょ、適当なことを言わないで!」

「適当言ってもいいだろ! お前は、俺の一番の親友なんだから!」


 彼は、顔を真っ赤にして怒鳴った。小さな体で苦しそうなほどに咳き込んで、今にも泣き出しそうなくらいだ。ふうふうとカナンは息を整えて、赤くなった目尻をごまかすみたいに拳で拭って、続けた。


「……お前にとっちゃたかが俺は数年の友人だろうけどな。お前は、俺にとっちゃ人生まるまる関わった一番の親友なんだ。美樹のことなら何でもわかる。だから自分のことを責めて、辛く感じるだろうと思った。……するに決まってるだろ?」


 決まっている、といわれてもこれはただの私の妄想のようにも思えた。なんせ、自分が言ってほしい言葉を『カナン』が言っている。これが妄想だというのなら、吐きそうだし、最悪だった。そう思わざるを得なかった。


「言ったじゃないか。美樹が見ないふりをするんなら、俺がその分見てやるって。お前は俺の人生で一番の親友だ。なんせ、子供の頃から今になるまで、百年も時間があったんだ!」


 ――俺達、でことぼこでぴったりコンビだ。


 今とはまったく見かけも違うのに、嬉しそうに笑うカナンの姿がかぶった。

 ぽろりと瞳からこぼれた温かなものがある。これは、本当に。ただの都合のいい妄想だ。


「……百年はちょっと、盛りすぎでしょ……」

「そうかな? たしかにそうか。じゃあこれからは百年友達でいよう。それが過ぎたらまた百年だ。次は向こうの世界にお前と行ったっていいな」

「いいなじゃないよ……」


 でも、現実だった。

 重たすぎる友人は、どこまでも重たかった。それこそ、これからどこまでもくっついてくるくらいに。小さな手のひらは、またいつか大きくなるんだろう。ぼろぼろと涙をこぼす私は、今度はしわくちゃになるに違いない。

 それでも、私達はずっと友達だった。



 だからこれからも。それこそ、百年先の未来だって。

 きっと、一番大切な親友でありつづけるんだろう。



***



「ところでさ、なんで今になってやってきたの?」

「ああそれね。死んでから比較的すぐに金貨をもとにこっちの国に来たはいいけどさぁ、美樹が住んでる場所がわかんなくってさ! ほんと市町村聞いとけばよかったよなー! でもお前、花を育てて開花させただろ? あれがよかったんだよな、だいたいの場所の目星がついた!」

「(元異世界人から市町村……)でも花が開いたのは二年くらい前だけど……」

「だってほら今俺五歳だから。三歳で一人でおでかけはやばいでしょ」

「やばすぎだし十分今もやばいから、さっさと家に帰るよキッズ……。住所ど近所じゃん、秒で送り届けるわ」

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百年異世界交流(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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