彼女

 その日の三船先輩は、どこぞの韓国アイドルのような、お腹を大胆に露出したノースリーブを着用していた。下半分には冬とは真逆なワイドジーンズを履いていて、一見すればコンバースのスニーカーが小洒落た高級ブランドのようだった。

 すれ違った中年のサラリーマンが、そんな彼女のメリハリのあるプロポーションを、じろじろと舐め回すように追っている。「どっちだっけ?」と言いながら視線を彷徨わせる三船先輩に、「こっちです」と俺はビル中の看板を指差した。


 渡来さんから指定されたのは、渋谷区でも品川寄りの居酒屋だった。到着するとさっそく渡来さんの声が聞こえた。「お、きたきた」。ボックス席で手を振っていて、奥側の席には、彼の彼女だという女の子が座っている。俺が「遅れてすいません、場所がわかんなくて」と言うと、「いいのいいの」そう言っていつも通りの快活さを見せた。

 けれど俺の隣にいた人物を視界に収めると、渡来さんは口をあんぐりと開けたまま動かなくなってしまう。そのときの彼の第一声は、放心的な「え、彼女?」だった。

 

「いやいや、違いますよ」


 すぐさま否定するが、渡来さんにはあまり通じていないようだった。俺は三船先輩を奥の方の席へ誘導し、気にせず、そのまま手前側の席に座る。


「……こいつとはどういうご関係で?」


 おそるおそる、と言った感じで、渡来さんが訊いた。俺が隣に視線を向けると、同じくこちらに視線を向けていた三船先輩が、肩をすくめて笑う。


「どういうご関係でしょう」


 意地の悪いとぼけ方だと思った。誤解されるようなことは言わないで欲しいのだが、まあ、そこは濁しておいていても構わないだろう。俺は続けた。


「とりあえず、何か頼んでいいですか」


 テーブルにはお通しのポテトサラダとメニュー表が置いてある。渡来さんは「誰なんだいったい……」とぶつぶつと独り言をこぼしていたが、飲み物を注文していないところを見るに、俺たちが来るまで律儀に待っていてくれたことが伺えた。

 店員を呼び、各々が始めの段階としてソフトドリンクを頼みながら、とりあえずの乾杯が交わされる。コップに入ったジンジャーエールを口につけると、先に声を発したのは、意外にも渡来さんの彼女の方だった。


「初めまして。藤崎です」


 続けて、「三船です」と先輩が顔の横に手を掲げた。釣られるように渡来さんも自己紹介をしたが、お得意の前置きは大いに滑っていたが、そうなると次は自分の番ということになる。

 俺は意味もなくコップに触れながら、ふと、視線が集まるのを感じた。どうしてか気恥ずかしい気分になった。あまり期待をされても困るのだが——そう思いつつも口にした名前は、しかし寸前で思わぬ声に遮られる。

 

「たかのくん、ですよね」


 目線を上げると、渡来さんの隣で、えんじ色の服を着た女の子が笑っていた。先にいくにつれ主張を増す猫っ毛が、その肩先で踊るように曲がっている。


 ——藤崎さん、だっけ。


「渡来くんから色々と聞いてて、今日もその繋がりなんだけど……ね?」

 彼女からの軽い目配せに、そうそう、と渡来さんが続ける。「高野のことは前から話してたんだよ。よく飲みに行くツレがいるって。そんで、折角せっかくだし、会ってみるかって話になって」


 どこでどう「折角だし」に繋がるのかはわからなかったが、俺は納得したように「なるほど」と相槌を打っている。

 渡来さんから彼女の話を初めて聞いたのは、おそらくは大晦日のあの夜のことだった。断片的にはそれからの話も聞いていたが、やはりはっきりとしたことまでは覚えていない。覚えられているのは年齢くらいなものだ。


「何歳でしたっけ」藤崎さんが訊いてきた。

「たぶん、一つ下です」え、と目を丸くした彼女から、俺はポテトサラダを突っつく渡来さんの方に向く。「ですよね?」

「ん? ああ」渡来さんが肯いた。「高野が十九で、おれが二十一」

「……そうだったんだ」藤崎さんの表情が僅かながらに綻ぶ。俺が年下だとわかると、すぐに敬語からタメ口に切り替わった。「変にかしこまんなくても、よかったみたい」、と。


 ただそこに、不快に思う部分は何一つとして感じられなかった。温厚で淑やかな人だと、俺は思った。

 喋り方もゆっくりで、その一文字一文字がひらがなで構成されているかのように柔らかい。とろんと垂れた瞳が、日向ぼっこをする猫のような落ち着きを感じさせ、だからだろうか、年上なのに年上じゃないみたいだった。三船先輩はそんな彼女に、ぽつりと同調的なことをつぶやく。


「じゃあ、私と同い年なんだ」


 ぶふッ、と渡来さんが口に含んでいたものを吹き出しそうになる。藤崎さんに背中をさすられながら、彼はずいっと顔を寄せてきた。


「おい高野、さっさと説明してくれ。誰なんだ、この謎の美人は」

「大学の先輩ですよ。渡来さんも一回、会ってるはずなんですけど」

「そんな馬鹿な」

「本当ですって」


 のけぞる渡来さんに、俺はそう返す。この様子だと、三船先輩と会った日のことは綺麗さっぱり忘れてしまっているようだ。アルコールの効き目は十分だったらしい。


「それで今日、渡来さんに彼女を紹介されるって話をしたら、わざわざ来てくれることになって」


 俺がそう説明すると、三船先輩は「一人だと気まずいって、高野くんが言うから」と付け足した。

 それもそうか、と渡来さんは今更ながらに納得しているが、藤崎さんは若干そうではない。


「やっぱり、いきなり過ぎたよね」と申し訳なさそうな顔をしている。

 俺は深刻な顔をして強く肯きたかった。「でもまあ、暇だったんで」

「私もそんな感じ」と三船先輩が続けた。そしてなぜか楽しそうにして笑っている。せっかく集まったんだから、まあとりあえず、仲良くしてください——という風に。


 何がどう「折角」なのかはやはりわからずじまいだったが、改めて乾杯しますか、という渡来さんの言葉に、俺も三船先輩も一緒になって肯いていた。

 店員を呼び、各々が飲み物やらつまみを頼みながら、そうして二回目の乾杯が交わされる。


 思えば、それが俺たち四人の最初の会話だった。



※ ※ ※ ※



「先、会計行ってるぜ」

 

 渡来さんは車で来ていたので、結局、最後まで酒を飲むことはなかった。テーブルの上に置かれているレモンサワーやカシスオレンジは、三船先輩と藤崎さんがそれぞれ飲んだものだ。俺は変わらずジンジャーエールを飲んでいて、何となく、渡来さんについていく藤崎さんを目で追っている。

 

 視線を戻すと、隣にはまだ三船先輩がいた。


「ええっと、なんでしたっけ……?」


 訊くと、彼女はテーブルの上で頬杖を突きながら、そのままじっと動かなかった。そして、


「ううん、なんでもない」


 話を聞きそびれたまま、そこで強制的に切り上げられてしまう。何を言っていたのかは気になったが、周りの馬鹿騒ぎが鬱陶しすぎるあまり、深く追求する気にもなれなかった。

 代わりに思ったことが口に出る。


「酔ってます?」


 彼女の頬が、少しだけ火照っているように見えた。居酒屋の照明による、光の加減だろうかと半分は思った。


「飲んでないのに?」

「そんな風に、見えます」

「なら酔ってるかも」彼女はそう言って微笑んだ。一杯、二杯ほどしか飲んでいないのにも関わらず、やはりその頬は赤らんで見えた。

 会計、と肩をはたかれ、ぼうっとしていた俺は慌てて席を立つ。くすくすと笑う彼女を横目に、自分の顔がだんだんと熱を帯びていることに気づく。何だか体の距離感まで近かった。


 居酒屋から出た帰り、渡来さんが駐車場の自動販売機の前で、水を買っていた。三船先輩はポールに座り、俺はその隣に立っている。よければ送ってくけど、と言われたが、断り、俺は三船先輩とコーヒーを飲みながら、車で帰る彼らを見送った。


 しばらくして、特に用事もなく暇を持て余していた俺たちは、二軒目に行こうということで、夜の街を散策することにした。ドン・キホーテで三船先輩の煙草を買い、シーシャ屋で入店を断られてから公園で一杯交わした。

 街灯の淡い明かりだけが俺たちを包み込んでいる。


「大学生でジムニーはいかついって」

「渡来さんの嗜好ですよ」と俺は言った。「あの人、自分の趣味にだけはこだわる人だから」

「自分の恋人には?」

「こだわりはある、とは思いますけど……」


 急な問いかけに、俺は曖昧な答え方をしてしまった。少なくとも渡来さんの彼女は、ガサツではなかったし、大声で下品なことを言うような世間体の悪さも感じられなかった。むしろ渡来さんみたいな軟派な人間には勿体ないくらいによく出来た人だと思う。だからこそ自分からは何も言うことはなかったのだが——。


「どうだった? あの子」それをわかった上で、三船先輩は訊いてきた。

「あの子って、藤崎さんのことですか」

「うん」

「別に……何とも思ってないですけど」


 ふうん、と試すようなつぶやきが聞こえた。


「なんですか、突然」

「いや、やけに熱心に見つめてたから、気になってるのかなって」

「そういうわけじゃないですけど、ただ」

「ただ?」

「似てるかなって、思ったんです」俺は手元にある、空の缶ビールを見つめる。「よく一緒にいた、バイト先の後輩の、彼女に」

 ふうん、とまた声がした。今度は低く唸るような声だった。「それって、確かコンビニの……だよね」

「はい」上手く説明はできないけれど、声のトーンや話し方、その雰囲気がどことなく、彼女に似ている気がした。似ているだけで、同じではない。ただ、藤崎さんのことを見ていると、思い出してしまうのだ。出会ったばかりの頃の、あの女の子のことを。「特に理由なんかありませんよ。似ているだけで、ただの別人ですから」

「そっか。そうだよね」と言って、三船先輩はおもむろにライターを擦った。煙草の先端がじわじわと燃え、暗闇に紫煙が立ちのぼる。


 甘いバニラの匂いが鼻をついた。


 音一つない公園のベンチに、どこからか山手線の遠鳴りが聞こえ、こずえがさざめいた後はまた沈黙が降り落ちる。彼女の華奢な指に挟まれていた煙草は、気づけばほとんどが灰になっていた。


「さて、行きますか」


 そう言って立ち上がった彼女に、俺は視線だけを向ける。缶ビールを揺らすと、かちゃかちゃとプルタブの音が鳴った。


「どこにですか?」

「東京タワー」


 早くしないとライトが消えちゃうよ、と彼女は言った。半ば強引に連れられるように、俺は三船先輩の後ろを歩いてゆく。


 どれだけ夜が更けようとも、街の喧騒は鳴り止まない。ビルに囲まれた幅の広い道、立ち並ぶ街路樹、身なりの派手な若者とかスーツ姿の中年層とか、まるで誰かを誘惑するかのように飾りつけられたその街の姿は、横切る車のヘッドライトを筆頭に、自然と目を細めさせた。

 人の流れに逆らいながら、抜けた先には目的の東京タワーがあった。

 大丈夫、光ってる、と嬉しそうにして、三船先輩はポケットから携帯を取り出す。聳え立つ赤い建物の下で、俺は彼女に促されるまま何でもないツーショット写真を撮ることになった。画角に収まるよう肩を寄せ合い、まるでフィギュアスケーターの着地のような格好をする彼女を、照れ臭く思いながらも真似した。

 そうして直後、シャッター音が鳴る。


「バンクーバーオリンピック」と言って三船先輩は笑った。



 あの頃、自分が思い描いていた東京という街は、刺激的で底なしに煌めいていて、及びもつかない別世界だった。実際には退廃的で何か変わり映えするようなこともなく、その光景は自分の想像していたものとはまったく違った。

 でも、今のこの状況を考えれば、それはさして間違った想像ではないのかもしれないとも思う。頭の中でえがいた数秒前の景色は、生きていると知らぬ間にぐるりと変わっていることがある。

 数ヶ月後にはまたこのクソみたいな日常に嫌気が差しているかもしれないが、見上げた東京タワーは、やはり自分の目には美しく映った。


 それはもう、呆れ返るほどに、眩しく。

 



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