過去

 すぐ隣で、ぱちぱちと乾いたような音が鳴っていた。焚き火のようでもあったが、より鮮明に聞くと、遅れてそれが誰かの拍手であることに気がついた。


「すごい、すごいよ」と少女は言った。


 あまりの感動のしように、むしろこちらが驚いてしまった。彼女は叩いていた手を胸の前で合わせて、俺の顔を下から覗き込んでいる。


「まだ二ヶ月くらいしか、経ってないよね?」


 聞かれて、俺は「ああ、うん」としか答えることができなかった。四方からは蝉の声がさんざん降り注いでいて、公園のベンチに座る俺たちを、うだるような日照りに巻き込んでいた。

 

 当時の俺たちにとって、公園のベンチというのは二人きりで会うのにはうってつけな場所だった。同級生たちとは家の方向が違ったものだから、間違って鉢合わせることもなければ、そこは絶好の場所と言ってもまったく過言ではなかった。お互いの家に行くにはまだ心の準備ができていなかったし、ともすれば必然的にそういうありがちな場所に落ち着くのが自分たちとしては自然だった。何しろそうでなければ、この多感な時期、あることないこと囁かれ、冷やかされるのは目に見えていたからだ。


 俺と彼女が付き合い始めたのは、高校に入学して割とすぐだったように思う。


 幼少の頃からの長い付き合いで、それを世間一般では幼馴染とも呼ぶのだろうが、ほとんど会話なんてしたことがないくらい関係は遠かった。下の名前を呼ぶのもはばかられるほどよそよそしくて——実際、俺たちはお互いのことを苗字で呼んでいた——言ってしまえば、すれ違えば会釈をするくらいの希薄な間柄だった。

 とはいえ、これだけ長い間一緒にいて、一度も意識しないなんてことも難しい。むしろ誰よりもお互いのことが気になっていて、あの頃、他の異性に興味を持たなかったのは自分たちの存在があったからだった。


 変わったのは、高校の入学式があった日の誰もいない帰り道。


 どちらから話しかけたのかはもう忘れてしまった。帰り道が同じだったので、そこで今まで話せなかったことをぜんぶ吐き出したように思う。幼馴染なのにあまり喋らなかったこと、かつてクラスメイトだった山田が恋人に振られてしまったこと、偶然ではあるがまた同じ学校に通うことになって、こうして二人きりで家に帰るまでに至ったこと。気恥ずかしさはもちろんあったが、回数を重ねていくうちにそれも減っていった。そして告白を切り出したのは、意外にも彼女の方からだった。


 特別でも何でもない、いつかの放課後で、それもまた学校からの帰り道だった。俺は驚きのあまり動けず、彼女は夕焼けを背に俯いていた。人生で初めて好きになった人だと。


 あの日以来、少しずつではあるが、着実に自分たちの距離を縮めていった。好きなのに好きと言えないもどかしさとか、手を繋ぎたいのに指先が触れた瞬間ひっこめてしまうあの拙さとか、あの頃の俺たちは右も左もわからないほど未熟で、しかしこれだけでも充分に満足していた。 

 まるで天井に映る水の影みたいに、ゆらゆらと揺れ動いている。ちら、ちら、と目に光りが入ったのかと思ったら、それは枝葉からこぼれた夏の木漏れ日だった。


「痛くない?」


 顔を上げると、先程と変わらず、彼女が俺のことを覗き込んでいた。未だ蝉の音は鳴り止まず、遠くの方で誰かが自転車を漕いでいた。

 俺は首にかけていたギターに視線を移して、絆創膏のついた指をじっと膝にとどまらせていた。


「練習したから」


 そう言うと、彼女は「ほどほどにね」と眉を下げて笑った。

 

 このアコースティックギターは、誕生日に彼女からプレゼントされたものだった。貰い物だったらしいが、彼女自身使うことがなかったので、俺が譲り受けることになった。

 今でこそ触らなくなったそれも、あの頃は指を擦り切らせるほど使っていた。もちろん彼女に褒められたいという理由で。しかし実際に褒められてしまうと、恥ずかしくて言葉が出なかった。


「でも嬉しい」


 彼女が安心したように俺の手を見つめた。


「こんなに大切にしてくれるなんて、思ってもなかったから」


 当たり前だよ、と俺は言った。


「どうして?」


 間を置いて、彼女は首を傾けた。

 風が吹き、降り注いでいた無数の光が、俺たちのいる公園のベンチを音もなく撫で上げてゆく。好きだから——そんな言葉もやはり出てこなくて、キスの一つや二つ、そのときにそれさえできれば、俺は今もこんなには後悔していなかったのかもしれない。ただそんな空想を語ったところで自身の過去が変わるわけもなく、俺にはあの頃の、少しの眩しさと大量の悔しさが残るだけだった。


 彼女の携帯が鳴った。俺の答えを聞く前に、彼女は「もう帰らなくちゃ」と言って立ち上がった。頬を一筋の汗が伝っていく。


「じゃあ、またね」


 小さく手を振る彼女に、俺もまたぎこちなく手を振った。


「また」


 蝉の声がよりいっそう強く聞こえ出した。高校二年生の七月の初め。


 この夏の話にはまだ続きがある。



※ ※ ※ ※



 八月の終わりにある花火大会に、彼女とデートがてらで行くことになった。前々から決まっていたことではあったが、母親には言えずにいた。

 それはまだ良いとしても、むしろおかしなことではないはずだが、俺は自分の事情を母親に明かしたことが一度もなかった。たとえば自分の友人関係のことであったり、学校での素行、あるいは将来のことだとか。一般的な家庭で話し合うようなことを、俺は一度だって母親に伝えてみたりしたことがなかった。


 そういう年頃だったというのも一つの理由ではあるが、そもそもこれは物心ついたときからのことであるし、羞恥があるというだけでは語り尽くせない、自分の性格上の問題であったことも確かだ。

 母子家庭だったことがそうさせたのか、俺にはわからない。生まれた頃から父親はいなくて、家族は母親一人だけだった。夜遅くまで仕事で帰って来ないことはざらだったし、授業参観や学校の行事ごとでも、母親の姿を見たことなんてほとんどなかった。

 ただそれでも恨みを覚えたりしたことは一度だってなかった。これまではそれが普通なのだと思っていたからだ。

 

 よくよく考えてみれば、母親は俺のことを女手ひとつで育ててくれて、むしろそのことを自分は感謝すべきだったのだろうとも思う。当たり前のように学校に行かせてくれて、当たり前のようにある程度の自由を与えてくれる。ちょっとした寂しさがあろうとも、そこに不満など一つもなかった。しかしそういう客観的な立場で物事を見れるようになったのは、自分がもう少し大人になってからだった。

 あの頃の俺は、感謝の一つすら母親に言えたことがなかった。同じ空間にいることで息が詰まり、まともな会話をすることでさえままならず、母親にはいつも余計な気苦労を強いてしまった。


 そうならないように努力はしているつもりだったが、それでもそうさせてしまう自分が、たまらなく嫌だった。


「ごめんね。今日も作れなくて」


 そう言って母親は俺にコンビニの弁当を差し出した。慣れていたことなのであまり気にしなかったが、一つだけ俺は彼女に伝えなければならないことがあったのだ。


 しかし、出かかった言葉は喉奥で詰まる。


 俺は知らず知らずのうちに目を逸らすと、「うん、大丈夫」そんな当たり障りのない返答を口にして歩き去っている。どれだけ願おうとも変わらない。


 それが、母親との最後の会話だった。



※ ※ ※ ※



 終業式が行われる数日前のことだった。定期試験の影響で生徒が昼前には帰る中、俺は幼馴染の彼女を待っていた。しかしどれだけ時間が経とうとも彼女は現れず、ついに他の生徒の姿も見当たらなくなった。あるのは大会に向けて躍起になる野球部のかけ声だけだった。

 もしかしたら教師に何か頼み事をされているのかもしれない。そう思って、俺は未読のままのメッセージを見ながらも、校舎に引き返すことにしたのだった。


 人の気配のない校舎は、嫌に不気味だった。


 明かりのない廊下を歩き、本当に彼女がここにいるのかと疑問を抱きながら、ここを歩き終えたところで一先ず探すのはやめにしようと思った。どうせ見つからないのならば、校門で待っていた方が理にかなっていると感じたからだ。そして彼女の教室に通りかかったとき、誰かの話し声がそこで聞こえたような気がした。


 男と女の声だった。


 耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな、けれど一人は紛れもなく彼女の声であるということがわかった。やはり頼み事でもされていたのかもしれないと、そう思ったが、しかし同時に何か途轍もなく嫌な予感がした。歩んでいた足を、俺は音を立てないようにして止めた。

 

 そしてその予感は、ある意味で当たっていた。


 教室の扉から中を覗けば、そこには眼鏡をかけた若い男教師と、顔を背けながらスカートをたくし上げる、彼女がいた。喉が凍りつくような感覚に襲われた。彼女はそのまま机の上に座り込み、下着のついていない下半身を、その教師の前に晒した。

 何が起こっているのかわからなかった。自分はただ彼女を迎えに来ただけなのに。時間が経つにつれ、彼らの情事は歯止めの効かないところまで進んでゆく。

 眼鏡の教師が、彼女の腰に、自分の腰を打ちつけているようだった。聞きたくもない息遣いが聞こえた。自分が触れたことのないところへ、何の躊躇いもなく踏み込んでいってしまうあの男が憎らしかった。気づけば俺は、勢いよく教室の扉を開けている。


 何かの間違いかと思った。

 

 きっと彼女は弱みを握られて、あの教師に無理やりに迫られているだけなのだと。本当はこんなことやめたくて、でもそんな勇気も出ずされるがまま黙り込んでしまっているだけなのだと。だから、俺は走った。

 男の腕を掴み、驚愕に染まるその顔を、躊躇なく殴ってやった。それだけにとどまらず、馬乗りになったまま何度も拳を振り下ろした。

 誰かの悲鳴が聞こえたような気がしたが、それでもやめることができなかった。もはやこれは殴るだけでは決して治まらない怒りのように思えたからだ。そうして、騒ぎを聞きつけた教師が自分を止めに来るまで、俺はその顔を殴り続けた。


 次に覚えているのは、泣いている彼女の顔だった。


 散乱した机や椅子、血に濡れた床の上に、やはり血だらけの男が倒れ込んでいた。俺はそこで呆然としていて、他の教師に介抱される彼女を、ただじっと眺めていた。何もかもがめまぐるしく変わっていくようだった。空の景色や自分の人生でさえも。


 周りでは大人たちが慌ただしく動いていて、この惨状を生み出した張本人である自分は、どこか蚊帳の外だった。何も答えることなく職員室で俯いていると、仕事を切り上げてきたらしい母親が、真っ青な顔で自分のところへ駆けつけてきた。


 そこには怒りや困惑といった感情はなかったと思う。あるのはこんな過ちを犯してしまった息子への悲しみだけだ。そしてそんな顔をさせてしまった自分がどうしても受け入れられなくて、俺は言葉を交わす前に、その場を飛び出していたのだった。


 未だ震えているのがわかった。


 人を殴った拳はべっとりと血濡れていて、白かったはずの制服は赤く汚れていた。不思議なことに、その日の空は青でも橙色でもなく、この拳と同じ色をした夕焼けだった。

 相変わらず何もない場所だと思う。東京とは遠く離れた千葉の田舎で、周りには田んぼしかない。でもそんな田舎が俺は好きだった。彼女と歩くこの街が好きだった。ずっとこの街が好きなんだと思い続けていたかったのに、どうやらそれは叶わなかったようだった。


 できるなら彼女の口から聞いてみたかった。なぜあんなことをしていたのかと。そうしてこの誤解を解いて欲しかったのだが、何も考えずに飛び出した矢先、彼女の居場所なんてわかるはずもなかった。そもそも会いたいと本当に思っていたのかどうかさえわからない。


 気が狂うまで走って、気づけば何もない畦道あぜみちで倒れ込んでいる。頭の中では母親の悲しそうな顔が浮かんでいた。



※ ※ ※ ※



 幸いなことに、と言うべきかは定かでないが、あんなことをしておきながらも俺は停学処分で済み、夏休み明けには学校に登校できていた。だが幼馴染の彼女の姿はなかった。あの眼鏡の男教師の姿もまったく。

 聞いた話によれば、あの男教師は学校の生徒に手を出したという理由で辞職することになり、そしてその相手が言わずもがな俺の彼女ということから、彼女も学校を退学することになったらしい。誰が広めたのかは知らないが、俺が学校に来て数週間もしないうちに、そんな噂が一人歩きするようになっていた。さらにはその教師の子供を彼女が妊娠しただとか、駆け落ちをして二人は姿をくらましたとか、根も歯もない噂までもが、俺の耳にはちらほらと届いた。

 

 それが事実であれそうでないにしろ、俺たちの関係を知っていたやつらには、同情の眼差しを向けられることも少なからずあった。悪口さえ言われなかったものの、状況からして、絶え間なく雑言を浴びせられているようなものだった。


 居心地は最悪だった。


 そうして学校ではほとんど机で突っ伏するような日々が続いたが、家の中でもそれは変わらず、母親と言葉を交わそうにも、今まで以上に言葉が詰まった。思い浮かぶのは、あの日の、何かを察して頭を下げる母親の姿だ。

 本当は彼女を母親に会わせてみたかった。それで何かが変わるかもしれないと思った。こんな理不尽で、生きているだけで息苦しくなるような窮屈な生活が。しかしそれもまた遠のいて、いつしか俺は学校にも行かなくなった。


 何かが変わるかもしれない。


 そう思っていたのは、自分だけだったみたいだ。


 家の中に充満する溜息や、誰かのすすり泣くような声だったり、後ろ指をさされるような毎日が嫌になって、気づいたら夜な夜な家を抜け出すことが増えていた。ただ逃げ出したかっただけなのかもしれない。あるいは、彼女を忘れられずにいたのか。いずれにせよそうすることで自分の気持ちが楽になったのは確かなことだった。


 公園のベンチに座り、意味もなくギターをかき鳴らす。隣にはもう誰もいない。自分の声を聞いてくれる人も、自分のことをただ好きでいてくれる人も、誰も。虚しくも淡々と歌を口ずさみながら、そうして空を見上げたある日、ふいに目線の先で何か米粒のようなものが光った気がした。


 最初、俺はそれを花火かと思った。


 しかしここの近くで行われるはずだった花火大会は、もうとっくのとうに終わってしまっている。ぱらぱらと舞う、という風でもなく、その光はまるでぱちぱちと弾ける火花のように空を彩った。彼女を忘れられないばかりか、幻想まで自分は作り出してしまったらしい。そう思って茫然とそれを眺めていたが、しかし次に現れたのは、空を覆いつくほどの真っ黒い煙であった。


 そのときにはもう、何もかもが手遅れだったのかもしれない。煙を辿って見慣れた住宅街に出ると、燃え盛る一つの家を見た。周りでは無関係の人間がわらわらと集まり、赤い車や聞き慣れないサイレンの音が聞こえた。

 大丈夫か、と誰かに声をかけられた。視線を向けると、そこには近所でよくすれ違う見知った老人がいた。自分に向けられる心配の声と、「大丈夫か」というその言葉の意味を理解して、ようやく目の前で燃えている家が、自分の家であるということに気がついた。


 担架で運ばれてくる、ひどい火傷を負った自分の母親を見て、吐き気を堪えられなかった。思わずその場でうずくまり、俺はどこで間違ってしまったのだろうと考えを巡らせる。


 しかし一向に答えは見つからなかった。



※ ※ ※ ※



 結局、母親は助からなかった。

 

 真相はあの眼鏡の男教師の、逆恨みによる放火だった。俺に人生を壊されたとでも思ったのかもしれない。そのことについて何か思うことがないわけでもなかったが、あまり考えたくはなかった。

 だが今でも、「あの事件に自分も巻き込まれていたら」と、想像することがたまにある。そうなっていたなら今よりはきっと幸せだったのかもしれないと。

 あの日以来、知らなくてもいいことをたくさん知った。俺の将来のために母親が貯金をしてくれていたことだったり、自分が未だクソみたいな生活を送っていること、さらには、償いきれない後悔をこの期に及んでまだ払拭しようとしていることだったり、唐突に告げられた自分の病と残り幾許かの寿命のこと。


 それからはこの数ヶ月間にあった通りだ。


 俺はこれから死ぬ。近しい間柄の人間を何人か失くしはしたが、自分の死によって誰かを悲しませることがなかったと考えれば、結果的にはこれでよかったとも思える。







 

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