あの子の行方

 その日を境に、桐沢さんはアルバイト先のコンビニへは来なくなった。ふとこれまでの出来事が自分の妄想で、また何事もなかったかのように次の日常が再開されるのではないかとも思うことはあったが、別にそんなことはなく、いつまで経っても彼女が自分の前に姿を現すことはなかった。

 そして数日後、店長から「彼女が亡くなった」のだということを聞かされた。雑踏ひしめき合う渋谷駅のど真ん中で。


 自殺だった。


 電話越しに聞かされたそれを、意外にも驚かずに受け入れている自分がいた。いや、受け入れているのとは違う。それが想像の範疇だったというだけのことなのだ。

 彼女にはそれをするだけの動機があったし、あるいは、そういう危うさがあった。いずれそうなるだろうことは冷静に考えてみればよくわかる。しかし俺は止めることができなかった。止めるべき立場にありながら、みすみす彼女を見過ごしてしまったのだ。


「はい、はい……そうですか……」


 詳しいことは聞かされず、電話はそれで終了した。入り乱れる人々の足音が、耳鳴りのように淡々と鳴り響いている。立ち止まっていても仕方がないと、そんなことを思いながらも歩き出してはみたが、駅の外は生憎のにわか雨だった。



※ ※ ※ ※



 彼女がいなくなってから、何も考えずにただぼうっとすることが増えた。それは一人になる時間が増えてしまったからだろうとも思う。何にも手がつかないというわけではなく、これまで通り、言ってしまえば無難に日々をやり過ごす程度のことではあったのだが、途端に自分が孤独であるかのように思えてしまった。

 何をするにも一人で、唯一桐沢さんがいたであろう深夜のコンビニエンスストアも、今ではアルバイト先を転々としていたあの頃と大差なかった。機械的に生きて、義務的に笑っていたあの頃の自分と。そう思うと、案外、俺は彼女と働いていた頃のあの他愛ない時間をそれなりに好いていたのかもしれなかった。


 未だ抜けきれていないこの気持ちは、おそらくはその寂しさや未練なのだろう。


 とはいえ、彼女の生死に問わず、もともとはこうなる予定ではあったのだ。彼女と会うのはあれが——理由はどうであれ、ほんのひと時だけでも体を重ねたあの日が——最後で、もう顔を合わせることも喋ることすらも叶わないはずだった。

 彼女が死んでしまったという事実を聞かされたところで、それを確認する術は今の俺にはないし、もしかすると、本当はまだどこかで生きているかもしれないなんて、そんな馬鹿げたことを内心では思ってたりもする。


 しかし、死んでしまったという事実に変わりはないのだった。もう会えないだけでなく、生きていればいずれ鉢合わせるかもしれないなんて期待も、その声をもう一度だけ聞いてみたいなんて言う密やかな望みさえ——もはや一生いだくことは許されない。桐沢さんは死んでしまったのだ。それが事実であり現実だった。


「まだここにいる?」

 

 後ろから誰かの声が聞こえた。海辺で座り込む俺を、三船先輩が心配そうに覗き込んでいた。お台場の海浜公園に来たはいいものの、俺はなぜだか途中で歩くことができなくなってしまっていた。もちろん怪我などはしていなかった。ただ歩けなくなってしまった、それだけだった。


「もう少しだけ、いいですか」


 俺がそう言うと、三船先輩は何でもないように笑って、自分もまた砂浜の上に座った。


 彼女には、自分の後輩が自殺してしまったのだということは、あれから一ヶ月半が経ってもなお伝えていなかった。これから先も伝える気はないし、それでわざわざ彼女を困らせようとも思わない。しかし自分一人ですべて抱え込むというのには、やはり、相当な努力と忍耐が必要だった。

 

 優しげな潮風を浴びながら、波の音を聞く。


 最後くらい苦しまずに死ねただろうか、と俺はそこで改めて思う。桐沢さんの死に方は、決して褒められるような死に方ではなかった。でもそれがいちばん彼女にとっては最良の選択であったことには違いない。楽ではないが、楽になれる方法がそれしかなかった——というように。

 実際、桐沢さん自身は、自分が死んだとて、悲しんでくれる相手など誰一人として存在しないだろうとでも思っていたのかもしれない。でなければこんなにも躊躇なく死へ踏み切れるはずがなかった。しかし、少なくとも俺は彼女が死んでしまって多少なりとも心細さは感じている。


 果たしてそれを彼女がどう思うのかはわからない。嬉しく思うのか、それともその逆か。いずれにせよ俺が生きていられるのもあと数年とない。それまで彼女のことを記憶している人間が、一人でもいるということを、どうか許して欲しかった。死ぬことはつらい。しかしその死を悲しんでくれる誰かがいてしまうことの方が、ずっとつらい。それは自分がいちばんよく理解していたことだったから——。


 俺は立ち上がると、三船先輩にもう帰ることを告げた。遠くの方で子供たちがはしゃぎ声を上げている。彼女はとぼとぼと歩く俺の後を、何も言わずに黙ってついてきた。


 前方に広がる空の青さが痛い。立ち止まって顔を顰めると、今度も後ろから「髪の色、似合ってるよ」と誰かの声が聞こえた。さらさらと揺れる前髪を触って、俺は振り返る。


「ありがとうございます」


 それを聞いて、三船先輩は後ろ手に口角を上げた。


 この金色に染まった髪は、気分転換に変えて来たものだった。しかし気持ちが晴れるどころか、かえって心は曇ってゆくばかりだった。どうしてだろう、この虚しさには、とうの昔に慣れていたはずなのに。


 俺は、数年前にも、同じように近しい間柄の人間を失くしたことがある。ふと瞼を閉じると、思い浮かぶのはいつもあのときの光景だった。


 どうやら俺は、まだあのときのことを、忘れられずにいるらしい。ひぐらしの鳴き声だけが鮮明な、あの淡い夏の日のことを。まだ——。


 

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