みんな、死んじゃえばいいのに

 早朝と呼ぶには遅く、昼間と言うにはちょっとだけ急ぎすぎた時間に、二人してシャワーを浴びた。カーテンは閉められ、部屋の中には明かり一つすらなかった。隙間から滲み出た陽の光だけが、もの寂しげなこの部屋に明かりを与えている。


 携帯を持ち出し、そっと画面を覗いてみれば、「またサボりかよ」と渡来さんからメッセージが入っていた。返信をしようかとも考えたが、今から大学に行く気なんてさらさらなかったので、既読だけつけて携帯をベッドの外に放り投げた。

 桐沢さんが自分の胸にもたれかかってきたのは、ちょうどそれと同じときだった。彼女は軽い身じろぎをして縮こまると、背後にいる俺を、まるで振り返るようにして見上げた。二人ともが夜更かしをして寝不足だったはずが、今はもうとっくに眠気など感じないところまで来てしまっている。


 俺は一瞬の間を置いて彼女にキスをした。


 貪るように、とまではいかなくとも、勢いあまって押し倒しそうになってしまうほどの、猛烈な口づけのように感じられた。

 赤いマニキュアで彩られた彼女のその指が、唇を啄むたび、力が込められ、するすると自分の指の間に絡められていくのがわかる。そうして、とうとう体ごとベッドの上に倒れ込んだ。


 本当のセックスがしたい。


 彼女の言ったことが、そこで思い出された。本当のセックスとは果たしてどういうものなのだろうか、と。不甲斐ないことではあるけれど、俺は彼女の体をキツく抱きしめておきながらもまだ、そのことについてはっきりとした正解を見出せていなかった。


「噛み跡、欲しいです」


 仰向けに寝転びながら、桐沢さんは覆い被さる俺に向かって、言った。一糸纏わぬ姿で、自分の胸の上側をそっと指先でなぞる。

 

 ——きっと、そこに意味なんて必要なかったのだ。彼女だけがそれを知っていれば、ほとんど何も。


 俺は言われた通り、彼女の胸を軽く噛んだ。時間が経てばすぐに消えてしまう程度の赤い痣。それは知らぬ間にできていた生傷とさして変わらないものだった。

 それでも彼女は嬉しそうに、俺の唇にキスを返す。もっと欲しいです、と甘ったるい声音で囁いて。だから上半身から下半身までくまなく——その男の理想を詰め込んだみたいな身体に、そのどこまでも傷だらけな身体に——俺は噛み跡を作ってゆく。



 取り返しのつかないことをしてしまった、などとは決して思っていない。これが考えに考え抜いた結果の自分の選択だったから。


 自分にとってはみじめたらしいことで、彼女にとっては喜ばしいこと。


 それが自分が選んだ結末だったから。


 

※ ※ ※ ※



「失望しましたか?」


 殺風景な部屋の片隅で、桐沢さんはベッドの上に座り込み、黙々と下着をつけ始めている。


「私が誰とでも寝ちゃう軽い女の子だってわかって、幻滅しましたか?」


 わずかにずれたブラジャーの端から、その雪のように白い彼女の肌とは不釣り合いな、ピンク色の突起が垣間見えている。


 目が慣れ始めてきた、というわけではないのだろう。カーテンが開けられ、部屋の中がいちだんと明かりを取り戻して見えたのは、が急激に自分を苦しめていたからだった。


 この現実との乖離かいりは、やはりまだ慣れない。


 どこか無気力で、さっきまでの盛るような情熱は感じない。我に返ったとでも言うのか、自分が凡庸な人間であるということを再自覚するようだった。

 台所の上で横たわる、口紅のついた誰かの吸い殻が、ずっと視界の端に映り込んでいた。捨てられるものがないくらいに真っ新になった床も、捨てられずにいる壊れたハイヒールも、そのすべてが冷めきった風景の中に映り込んでいる。


 俺はベッドから起き上がると、再び窓の近くに腰を下ろした。彼女の自分を卑下するような言葉が、頭の中でぐるぐると駆け巡っている。


 誰とでも寝ちゃう軽い女の子——。


「何もこれは、私だけに限ったことじゃないんですよ」


 桐沢さんの声が耳を掠めた。見れば、彼女は下着姿のままこちらを見つめていた。


「女の子はみんな自由に生きたいって思ってます。好きでもない誰かと話したり、好きでもない誰かと交わったりすることが、そんなに悪いことですか。私たちが好きでやってることなのに、それを、男の子たちはみんな否定しますよね。自分たちは自分勝手に生きてるっていうのに。あいつは誰々と付き合ってるからもう処女じゃないとか、過去に何人ともやってるから相当なビッチだとか、まるで肉体関係を重ねることが汚くて悪いことみたいに言って、それでいて特定の女の子には妙な処女性を求めるばかりか、神聖化までしちゃって、それ以外の女の子は雑に扱って価値のないものとして見るんです。あそこにいる可愛い女の子たち全員が、揃いも揃って処女だと思いますか……? そんなわけないじゃないですか。今まで付き合ってきた男の子の数を偽ったり、訊かれてもなお経験人数をひた隠しにするのは、自分を良く魅せるための方便であって、決して心から応えようとしたものではありません。みんながみんなそういう嘘に惑わされてるんですよ。それもあるいは、特定の女の子たちの腹黒い嘘によって」


 だから、と彼女は言う。


「そういう迷信を語り散らす世の女性たちに言ってやってください。お前はぜったい処女じゃねえだろって。そしてそういう迷信を大真面目に信じちゃってる男性にもこう言ってやってください。お前はぜったい童貞だろって。当たり前ですか?」


 俺は首を振った。それは彼女が彼女自身に向けた言葉であるかのようにも思えたからだ。肯定をしてしまえば、それこそ彼女自身を否定することにもなり得る。そんな気がしてならなかった。


「ごめんなさい」だからか、それに気づいて、桐沢さんは申し訳なさそうに口籠った。「こんなこと言われても困りますよね」


 泣いてるのか笑ってるのかよくわからない表情だった。悲しんでいるのなら手を差し伸べるべきかもしれない。喜んでいるのなら、また一緒に笑って寄り添ってあげるべきかもしれない。しかし俺はどうすることもできずに目を逸らして、次の瞬間には窓を開けていた。


 開け放たれた窓から、前髪を揺らすほどのささやかな風が流れ込んできた。その心地よさによって、一時だけは何もかもを忘れそうになった。だが桐沢さんの腕が自分の首に回されたことにより、忘れようにも忘れられなくなる。


 いつの間にか、彼女は俺のことを背後から抱きしめていたようだった。


 薄汚れたアパートから覗く、あの広大な春の青空を見て、彼女はいったい何を思うのだろう。ひたすらに伸びたひこうき雲だけが、それらを代弁するように三万フィート上を飛んでいる。


 遥か上空、手の届かない場所へと、彼女のつぶやきが飛んでいく。


「みんな、死んじゃえばいいのに」


 




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