ラブホテル
実を言うと、俺は三船先輩と大学で顔を合わせたことが一度もなかった。だから本当に彼女がその場所に存在するのか疑問に思っていた時期があったし、今でさえこうして二人きりで堂々と会えるようにもなったが、それでも不思議な感覚というのはどうしても抜けきれずにいた。
俺が大学を一向に辞めれずにいるのは、ひとえにこれの影響が大きかったのだろう。
また次の日も彼女と会えるのではないのかと、期待、せずにはいられなくて。
辞めるのはたぶん、この関係が途切れてしまったときだと自分でも思っていた。
「ここがテスト範囲」と三船先輩が言った。
「もうちょっと見せれませんか?」
「だめ。それは反則だって」
俺がずるをしようとすると、彼女の指が勢いよく頬をつねってきた。痛いですと、思わず本音が漏れてしまう。
流行りの映画を見て、他愛もない会話をしてから、やっとのことで俺たちはラブホテルに到着した。気づけば夜になっていたが、セックスはせず、どうしてか大学のテストのことについて語り合うことになっていた。彼女が言うには、俺たちの大学のテストは、毎年の出題される問題が同じということで、サークルやら知り合いをつてに、過去問が出回っているのが普通らしかった。
しかし、三船先輩は問題を途中までしか教えてくれず、そればかりかその答えを導き出すように促してくる。テストの対策をしてくれているのは理解できるが、それはラブホテルですることではないし、もとより俺は、丸暗記さえできればあとはどうでもよかった。
それに、こんな状況ではとてもじゃないが集中できるわけがなかった。
ラブホテルのベッドの上で、バスローブ一枚、俺たちは二人してうつ伏せに寝転がっている。それどころか、一つの携帯を、顔を寄せ合うようにして至近距離で見つめている。
ちらりと横目で見れば、彼女のバスローブが僅かながらにはだけていた。そこからのぞいた半球型の豊かな胸が、何の冗談なのかベッドに押しつけられ、いやらしく形を歪めていた。今すぐ触れて、欲望のままに手と顔をうずめてしまいたかったが、そんなことをしてしまったら確実に彼女の激が飛ぶだろうし、第一そんなことをしている自分を想像したら気持ちが悪くて仕方がなかった。
湧き上がる衝動を抑えながら、俺は三船先輩の顔に視線を移した。彼女はまだ携帯の画面を一心に見つめている。その姿を今まで真剣に見たことがなかった、と言えば語弊があるが、近くで見たときの彼女の容姿は、やはり
見れば見るほど、まるで何もかもが計算尽くされたかのような精巧な顔立ちをしていた。大きな瞳に、影が乗るほどの長いまつ毛とか。高すぎず低すぎない鼻と、常に口角の上がっているような薄い唇。凛とした表情にはまだうっすらと幼さは残るものの、溢れ出る色気には、すでに大人の女性としての品格が備わっていた。
タイプであるとかそれ以前に、俺は彼女の顔を、どうあっても嫌いにはなれないのだろうとそのとき思った。淡くぼんやりと光る橙色の照明が、二人の間に影を作り、二人を中心として照り輝いていた。
「丸暗記したいとか、思ってるでしょ」
三船先輩の声が聞こえて、はっとした。自分でも気づかないうちに、彼女と目が合っていたようだった。
「高野くんって、甘やかしたら、とことんだめになりそうなタイプだよね」
いきなりのことで、反応に戸惑ってしまう。自覚はなかったが「……そう見えますか?」と言って俺は反射的に目を逸らした。
「見えるよ」三船先輩が、携帯の画面上にそっと両手を置いた。そこにはテストの過去の問題が映っているはずだった。「だから、残念だけど、これは見せてあげられないな。ちゃんと一緒に解こうよ。ね?」
「俺、勉強苦手なんですよね」、それは本当だった。
「だったら、他の人に見せてもらう?」
俺は三船先輩以外に上級生の知り合いがほとんどいなかった。だからこそ彼女に過去問を見せてもらえないか頼んだのだが、なかなかどうして上手くいかないらしい。
「すみません」と言って頭を下げてみる。「過去問を見せていただけませんか」最後の手段だと思った。
「そんなにへりくだんなくてもいいって」三船先輩は困ったように笑った。「でも、前にさ」
「はい」
「高野くんと一緒に、学食で駄弁ってた人いたよね。頭がドレッドの。あの人って、高野くんの先輩とかだったりしないのかな……? 敬語で話してたから、ちょっとだけ気になっちゃって。もし先輩だとしたら、私に頼まなくても、あの人に見せてもらうとかできるんじゃない?」
最初、誰のことを言っているのかいまいち理解ができなかった。しかしすぐに、ドレッドヘアがトレードマークだったからだろう、それが渡来さんのことについてだと思い至る。「えーっと、あの人、俺の同級生なんですよ」歳は、あちらが二つ上。
「あ、そうだったんだ」三船先輩は小さく目を見開いて、気まずそうにしていた。けれど、
「……老けて見えました?」
俺がそう言うと、何が面白かったのか、堪えきれずに笑い出した。腹を抱えているとまではいかないが、うははは、とツボに入ったように笑っていた。
「待って。それは反則だって」
気づけばお互いの肩と肩が、当たり前のように密着していた。振り向けばすぐにでもキスができてしまいそうな距離に彼女はいて、そのやわらかな匂いまでもが何の濁りもなく鼻腔を通り抜けていく。
ラブホテルでの勉強会。これから俺はこの人とセックスをするのだ、と思うと、なおさら集中なんてできるわけがなかった。
※ ※ ※ ※
「動かないで」
やさしく耳ざわりの良い声で、三船先輩は俺に囁いた。その唇が自分の首筋に当てられていく。啄むように、何度もキスをされているのがわかった。それだけでなく、微かに漏れる甘い吐息や息遣いが、首を伝って耳にまで届いていた。
あれから何時間経ったかもわからない。俺たちは朝になるまで延々とセックスに没頭していた。
三船先輩が、前傾姿勢の状態で、俺の上に跨っているのが見えた。下半身の毛が擦れる感触や、肌と肌が重なったときの汗のベタつき、のしかかってくる彼女の体重と底の知れない充足感とが混ざり合って、めまいのような感覚に苛まれた。
朦朧とする意識の中で、理解できたのは自分たちが舌を絡め合わせているということだけだった。キスだけでいけるか試してみようよ。三船先輩は真っ赤に染まった顔でそう言った。息が上がり、呼吸すら困難だった。俺は口の中で鳴っている淫らな音に耳を澄ませるしかなく、それでいてピタリと張り付いてくる彼女の身体を抱きしめることで精一杯だった。
朝になると、浴室から聞こえてくるシャワーの音で目を覚ました。
俺は変わらずベッドの上にいて、そこにない彼女の身体を一瞬でも探してしまった。ベッド横のローテーブルに透明な灰皿が置いてあるのが見えた。それと隣り合うように鎮座しているのは、黄緑色のブラックデビル。二本ほど、彼女がそれを吸った跡があった。
俺は煙草の箱を拾い上げ、一本だけ、その中から取り出した。シュッ、シュッ、とおぼつかない動作で100円ライターを擦る。煙草の先におそるおそる火をつけ、それからおもむろにそれを咥えてみると、案の定、むせてしまった。
「何してるの?」
咳き込んでいる俺を見て、ちょうど浴室から出てきたところだったのだろう、下着姿の三船先輩が目を丸くして固まっていた。濡れた髪の上に白いバスタオルが乗っかっている。
「吸ってみたくて」と俺は言った。どんな味なのかと興味があったのだ。
「とりあえず、シャワー浴びてきちゃいなよ」三船先輩は俺の隣に座り込み、覗き込むようにして言った。そして流れるようにその煙草を奪い去ると、自分の口に咥えた。「これは私がもらっとくから」
ふぅ、と吐き出された溜息が煙となって立ちのぼる。いつも彼女から漂ってくる甘い匂いの正体だった。それなのにどこかほろ苦くて、俺はそれをいつまでも忘れられずにいる。
口の中に残った苦味に胸を締めつけられながら、行ってきますと言って立ち上がった。後ろを振り返れば、三船先輩が足を組んで、二本の指で煙草を挟んだまま手を振っていた。
大学を休もう、とそのとき思った。
この刺激的な非日常を、生産性のない退屈なあの日常に簡単にかき消されてはならないと思った。シャワーを浴びている最中、ずっとそのことばかりを考えていた。少しだけでもこの余韻に身を浸らせていたいと。心が浮くような、まるで宇宙にでも漂っているみたいなこの体の感覚を。
しばらくして、三船先輩と一緒にラブホテルを出た。雲の間から滲みだした陽の光が
窓の多いビル群は透き通るような
セックスをした後は必ず、自分たちの距離感がわからなくなる。普段はどのような距離でどのような会話をしているのか、歩くときにはどこまで近づいてどこまで離れているのか、まるでこの瞬間だけ知能レベルが下がってしまったみたいに何もかもが曖昧になる。
だから、というわけではないけれど、俺はそのときすれ違ったその女の子の存在に、初めは気づけなかった。いや、気づいてはいたけれど、気にするほどのことでもないと一旦は考えを見送ったのだ。
ここでは、確かに俺たちのような男女の存在は珍しいものではない。ふいにホテルから一人の女の子が出てきたところで、むやみに詮索をしようとは思わないし、たとえそれが知り合いやら友人の女の子だったのだとしても、声はかけず気を遣って見て見ぬふりをしてあげるというのが、ある一定のラインやプライバシーを考えた上での最低限のマナーだった。そんな風に思っている。
ただ、今回ばかりは、その範囲内には入っていないようだった。
俺は、嘘かと思いながらもそこで立ち止まってしまった。「どうしたの?」と三船先輩が声をかけてくる。その女の子は、俺と同じように、三メートルほど離れた位置でこちらに振り返っていた。
いつもとは違う髪型ではあったが、でも、見間違うはずなんてなかった。その女の子は、間違いなく、俺が夜勤で働いているアルバイト先の後輩の——桐沢さんだった。
昨晩まで降っていた雨の影響か、点々と散らばる水溜まりが光を反射して、彼女の表情をわからなくさせている。自分の表情も見えていなければいいと思った。
「こんなところで、何してんの」
俺が声を発したのに応じて、桐沢さんの方も何かを答えようとしたのか、唇をまごつかせていた。
数秒の間があって、ようやく返す言葉が見つかったのだろう、彼女は震えたような声でこう言った。
「そっちこそ、こんなところで何してるんですか、先輩」
さっきまで吸っていたメンソールの煙草の味が、口の中に残滓としてとどまっているような気がした。舐めて飲み込もうとすると、ねっとりとした唾が喉奥に絡みつく。
苛つくほど晴れている割には、気がめいて沈んでいくような陰鬱な朝だった。
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