すべて本当のこと

「こういうことってよくあるんですか?」


 入念に手を洗いながら、桐沢さんは俺の方に向いた。水垢のこべりついた流し台の脇には、酔っ払いの小便を吸った汚らしい雑巾があった。その雑巾をどう処理しようかと考えながら、「ここでは初めてだけど、前に働いてたところで、何回かそういうおっさんに絡まれたことはある」と俺は言った。

 接客を伴うアルバイトでは、当然ながら色々な理不尽が付き纏う。ことコンビニの夜勤においては、統計的に見ればそれの比ではなかったりする。


「きついよね、こういうの」と俺は言った。しかし桐沢さんは、いえ、とわかっていたように首を振る。

「覚悟してたことなので」

「……覚悟してた?」

「はい。ここの求人に応募したとき、最初は一人で仕事をするのかなって思ってたんです。でも、面接で店長さんが、夜勤に女の子一人は危ないからって、私と高野先輩、二人で仕事をするのを、提案してきたんです」

「それは俺も知ってる」新しい子が一緒に働くことになるのだと、店長からその日の夕方に電話で聞かされた。どんな子が来るのだろうと心の準備ができないまま、やって来たのが黒髪ポニーテールの彼女だった。

「だから、もしかしたら危険なこととかあるんじゃないかって」桐沢さんは小さな溜息をつき、苦笑いで蛇口を閉めた。ぎゅっと握られたしなやかで白い手が、どうしてか微かに震えているように見えた。

 何でもないように笑っているが、本当は怖がっているのかもしれない。そう感じて、柄ではないと思いながらも、俺はさりげなく彼女を気遣ってみることにしたのだった。「今日は送ってくよ」

「え?」

「今更だけど、やっぱり女の子ひとりは、危ないかなって」

 しかし、桐沢さんは「本当に今更ですよ」と言って黙り込んでしまった。余計なことを言ってしまったと思ったが、その表情を見るに、別にそういうわけでもないらしかった。「それなら、駅まで送ってくれますか?」彼女は上目遣いでそう言った。「私、電車通勤なので」

 

 そのときのことはよく憶えている。


 これまで感情を露わにしてこなかった彼女が、照れ臭そうにはにかんでいたのがその瞬間だった。それがとにかく印象的で、きっとこの先も、彼女のことを語る上で、真っ先に思い浮かぶのはこの瞬間のことなんだろうと俺は思った。


「もちろん」と少しの間を置いてから、俺はそう答えた。

 すると、桐沢さんは安心したように目尻を下げ、「ありがとうございます」と言って視線を斜め下に置いた。


 この静寂は嫌いじゃなかった。



※ ※ ※ ※



 窓の外には見慣れた街の風景があった。行き交う人々が、のっぺらぼうのような面持ちで入れ違う、そんな街の風景が目の前にあった。早朝の淡い太陽の光に当てられ、人々の顔は形をなくし、街は新しい表情をおもむろにかたどっていく。


 三船先輩と別れてから、まだそんなに時間は経っていない。彼女は、俺と桐沢さんの邪魔になるとでも思ったのか、「今日、一限から講義があるんだ」と言って足早に去っていってしまった。もしくはもとから俺になんか興味がなかったのか。どちらにせよ二人きりになったことで、俺は桐沢さんと話をする機会を得た。


 本来ならその必要はないのかもしれない。


 ただ、このままこれを放置してしまうと、次また彼女と会うときにどんな顔をして会えばよいのか、あるいはその気まずさを許容して一生やっていくしかないのか、わからなかった。アルバイトを辞めるにしても、何も告げずに去るというのは何かが違う気がした。

 本当のことをここで打ち明ける必要はないが、お互いが納得するための言い訳や、今をやり過ごせるだけの嘘が必要だった。向かいの席で座る桐沢さんは、いつもとは違った表情で窓外を眺めているように見える。レトロな雰囲気ただよう錦糸町の喫茶店。俺たちは窓辺の席に向かい合わせで座り合い、コーヒーがやって来るのを待っていた。


「隠してても仕方ないですよね」


 ふと桐沢さんがつぶやいた。合図なんてなくとも、自然と視線はぶつかっていた。


「お金を貰ってるんです」


 言っている意味がわからなくて、俺は言葉を返せなかった。ただ、彼女が自分の事情を素直に明かそうとしているのだということだけは、理解できた。


「パパ活って言うんですか。知らないおじさんとご飯を食べて、デートとかして、ときには体の関係を持ったりなんかして、その対価として、お金を払って貰うんです」

 それを、あまりにも平然と話してしまうものだから、俺は自分の耳を疑った。「……それは、何のために?」

「借金があるんですよ」と彼女は言った。「私の家、お母さんしかいなくて。もともとはお父さんもいたんですけど、お母さんが宗教にハマっちゃってから、手に追えなくなって、家を出て行きました。それから少しは考え直してくれるかも、なんて思ってた時期もあったんですけど……実際、その兆しはあったんですよ。それでも、お母さんは宗教から抜け出せなくて、仏壇だったり浄水器だったり、必要のないものをたくさん買わされたりして、ついには蒸発までしちゃいました。残ったのは、莫大な借金と私ひとりだけ。それ以外には何もありません」


 彼女がアルバイトを掛け持ちしている理由には、それが関係しているのかもしれなかった。とはいえ、自分の身を削ってまで金を稼ぐことに、俺は純粋な正しさを見出せていなかった。


 湯気の立ったコーヒーを、店員が和やかな笑顔で並べていく。ありがとうございます、と言った桐沢さんは、コーヒーのカップを持ち上げ、自分の唇に添えた。店内では聴き馴染みのないクラシック音楽が流れていた。


「取り立ての人が言ったんです」そう言って、しばらく無言で考えたのち、彼女はコーヒーのカップをテーブルに置いた。「お前には二つほど武器がある。一つは性別で、もう一つはその若さだって。世の中には、若い女性に大金をはたく人間がたくさんいるらしいんです。そしてそれは間違っていなくて、こんな私でも毎月の利息分は稼ぐことができてて……。ただ働いてお金を得るより、たぶんこうして身体を売って生きていた方が、よっぽど利口な気がするんですよね、私は」

「本当に、それでいいの?」素直に納得できなくて、俺は思わず訊いていた。「もっと普通に生きたいとか、思わないわけがないから」

「じゃあ。先輩が借金、肩代わりしてくれますか」若干それは、棘のあるような言い方だった。あなたが私の借金をすべて支払ってくれるんですか、と。


 この先に何もないなら、それくらいはどうってことない。使い道のない貯金を彼女のために使ってあげるだけのことだ。すべてを補えるわけではないが、あるいはそういう生き方も選択の一つとしてはあるのかもしれない。そう思って口に出しかけたものの、言葉はいつまで経っても続かなかった。

 それは自惚れ以外の何ものでもなかったからだ。結局のところ俺は彼女のことを何一つだって考えていなかった。それがわかって、言い淀んだ。

 けれど桐沢さんは責めることも蔑むこともせず、ただ黙って、窓の外を眺めていた。取り合う気などはなからなかったらしい。


「私、東京が怖いです」


 ひどく落ち着いた表情で、彼女は言った。


「みんな嘘ばっかついて生きてるんです。私が関わってきた人たちの中には、結婚している人や恋人がいる人なんてざらでした。そういう人たちが素知らぬ顔で口説いてきたり、堂々とした態度で身体を求めてきたりするんです。周りにはそれを隠して。……でも、ここでは、それが普通だったりするんですよね。普通だからこそ、あんな平然とした顔で笑っていられるんです。きっとそれは今の私も変わらなくて」


 窓から入り込んできた日差しが、彼女の髪を半分だけ赤焦げた茶色に染めていた。誰かの好みであるかのように巻かれたそのゆるい毛先には、大人びたクール系の化粧がよく似合っている。

 ただ、初めて出会ったあの日から、彼女はそうだった。震えたような声で、まるで涙でも堪えているみたいに、喋る。その掠れた話し声だけが、いつまでも彼女の繊細さを象徴していた。「ねえ先輩?」と唇を綻ばせながら、彼女は視線と顔をこちらに向ける。


 先程とは打って変わって、芯の通ったような声で囁きかけてきた。


「私とセックスしてくれませんか」


 え、と声が漏れた。理解するよりも先に、戸惑いが口をついて出た。


「別にふざけてるわけじゃないんですよ」彼女はそう言って真っ直ぐと見つめてくる。「私、本当のセックスをこれまで一度も経験したことがなくて。だから、少しでも仲の良い先輩に、頼めないかなって、思ったんです。……私の勘違いなら、諦めますから」

「いや……」本当のセックス。彼女が言いたいのは、おそらくは金や価値観の絡まない、誰しもが望むであろう愛情のある行為のことなのだろう。

 それを一度も経験したことがない。確かに、彼女の生き方を鑑みてみれば、そういうセックスを経験したことがないというのは不思議なことではないのかもしれないが、だからといって、自分がそれに値する人間だともとうてい思えなかった。何しろ俺自身もまた、愛のあるセックスなんてものとは無縁の位置に存在する人間だったからだ。

「私、先輩のことは嫌いじゃないですよ。優しくて、頼りがいがあって、それでいてちゃんと私のことを見てくれます。先輩は、私のこと嫌いですか?」

「嫌いじゃない。嫌いじゃないけど」

「やっぱりさっきの人のことが気になりますか?」

「え?」

「先輩と一緒に歩いてた、あの綺麗な人のことです。もしかしたらその人が歯止めになってるのかなって」

「あの人は、関係ないよ」俺は静かに首を横に振った。三船先輩とは、体の関係を持っていると言えど、付き合っているわけではない。それはお互いがお互いに疑いの余地もなく理解していることであり、だから、そもそも後ろめたさを感じるということ自体が、どこか見当違いなところではあった。

「そうですか」と桐沢さんは答えた。彼女にしても、俺たちが愛だの恋だののそういう関係ではないことは、先刻のやりとりを見ていて理解していたはずだ。

 それなのにこうして訊ねずにいられなかったのは、おそらくはそれが、彼女自身の不安の現れでもあったからだった。事実、潤いを帯びているその瞳の奥が、微かに憂いているように見えた。

 

「本当に、これが桐沢さんのしたいことなのかな」


 そこで、もう一度、俺は同じような言葉を吐く。なぜ彼女からの要求を頑なに躊躇っていたのか、それは倫理や常識に囚われたものではなく、ただ単純に、それが彼女にとって正しいものかどうかの判断がつかなかったからだった。


 あるいは、自分自身にとっての。


 問いただしたところで何が正解なのかはわからない。が、それならば、この場にいることの説明や、失敗しても取り返しのつくような言い訳が、やはり今の俺たちには必要なのかもしれなかった。


 桐沢さんはふっと肩の力を抜くと、真剣な眼差しで俺の問いかけに答えてくる。


「先輩と会うのは、たぶん、これが最後になると思うので」


 それが、彼女が俺を求めてきた理由だった。

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