セックスフレンド

 あの夜、俺は三船先輩と関係を持った。


 それにより当初の目的は達成されたわけだが、これで心置きなく死ねる、ということはなかった。単に前よりも死にやすくなったというだけだ。それでもこれだけは叶えたいと思っていたことがあの夜の数時間で成し遂げられたことは事実で、だからこそこれ以上何か明確なものを望むことは自分が生きている限り、もうないのだろうと思った。

 

 そもそもの話、死ぬまでにやりたいことをつらつらと並べ立て生きるのは、自分の死を肯定し認めているようで、気持ちが悪かった。

 きっと、以前のように気の向くまま自由に生きていく方が、自分のやり方に合っている。それがおそらくは自分にとっていちばん都合の良い生き方だった。


 そういうこともあり、俺はまた何事にも中途半端だったあの頃の自分に戻ることにしたのだった。先のことを見据えず、ただだらだらと今を生きていたあの頃の自分に。


 ただし、一つだけ変わったこともある。


 あれから四ヶ月が経った。そしてその間、俺は三船先輩と六回セックスをし、七回ほどカラオケとボウリングに行った。

 喜ぶべきなのか、彼女との関係はあの夜から変わらずに続いている。不思議にも月に何回か会うのが当たり前のこととなっていた。


「私たちの今の関係って、なんなんだろうね」

 

 そう言って彼女は俺のことを見つめてきた。俺は困ったように水をすすり、考えるふりをすることしかできなかった。


「なんなんでしょうね」

「セフレかな?」と彼女が言った。まるでどうとでもない風に、彼女はその卑猥な言葉を口にする。「でも、セックスフレンドって、私の中ではもっと素っ気ないイメージなの」

「どういうことですか」心臓が高鳴っているのがわかった。

「ほら」と彼女は続ける。「そういうのってだいたい、身体だけの関係を築いて、それ以外は特に何もしないでしょ。愛のない浮気みたいな感じでさ。したいときに連絡して、したいときに会うの。それで自分の欲が満たされさえすれば、あとは何もいらない、みたいな。なのに私たちは、セックスして。そういう欲が満たされたあとも、カラオケとか、ボウリングとか、セックス以外のこととかも普通にするでしょ。私的に、これを友達って言うのはちょっと違う気がするし。なんだかまるで……」

「恋人みたいとか」

「思っちゃったりするのかなって」


 俺は下げていた目線を上げた。三船先輩は頬杖を突きながらこちらの表情をうかがっていたが、しばらくすると、力の抜けたような笑い方で、思わないか、と言った。

 たぶんお互いがお互いに、自分たちに恋愛感情がないことは理解していた。だというのに執拗に身体を重ね合わせて、恋人みたく唇を触れ合わせている。それが寂しさを紛らわすためのものだということが、わからないわけじゃなかったが、いささか不純であるようには思われた。


「まあ、こういう関係も、ひょっとしたら悪くはないのかもしれないね」三船先輩はそう言っている。しかしそんな関係を続けてしまっていてよいのだろうかと、俺は思う。

「いいんですか」

「ん?」

「俺のわがままで、こんなことに付き合ってもらっちゃって、いいのかなって」

「いいんじゃない?」と三船先輩は頬に垂れていた髪を耳にかけた。「これは私のわがままでもあるからさ。全然」


 でも、と彼女はそこで言葉を止める。その言葉の隙に入り込むように、外の方からは雨音が聞こえていた。


「こんな都合のいい女、他にいないよ?」


 ごもっともだと俺は思った。


 自分の事情を打ち明けたわけではないが、いつ終わるかもわからないこの関係には、両者の総意があるように思えた。もし突然どちらか片方がいなくなるようなことがあったとしても、むしろそれは自分たちからしてみれば自然なことだった。悲しむこともないだろうし、戸惑いを浮かべることすらないのかもしれない。

 定期的に会って、セックスをして。もしかしたら次の日には自分は一人になっているかもしれない。そういう、記憶には残るけれども形には残らない不確かな関係が、どれだけ自分にとって都合の良いものなのかが、彼女と交わることによって身に沁みてわかったような気がした。


 一生このままでいたいとは、思いたくても思えないのだから。


「ねえ高野くん」三船先輩が口を開けた。「高野くんって、しばらく彼女がいないんだっけ」

「え、はい」なんでそんなことを訊くのか、彼女の真意が読み取れず、俺はじっと固まるようにして困惑した。

「ちょっと気になっただけだよ」と彼女は言う。「結構積極的だから、そういうのに慣れてるのかなって」

「全然、そんなことないですよ。俺、これまでの人生で、まだたったの一人としか、付き合ったことないですから」

「高校のクラスメイトとか?」

「幼馴染です。小さい頃から一緒だった、腐れ縁の幼馴染」

「ふうん……じゃあ、私は高野くんにとって、人生二度目の相手ってことになるのかな」


 俺は一瞬、これを言ってしまってよいのか、迷った。だがそれも今更なことだとすぐに気づく。


「二度目どころか、初めてだったりします」


 思い切ってそう口にした。三船先輩は雑談程度にその話を聞いていたようだが、いや、あるいは今もそれは変わらないのかもしれないが、少しだけ驚いたような表情で俺を見ていた。


「いいこと聞いたかも」そしてまたふにゃりと笑った。猫みたいな笑い方だと俺は思った。


 ここで彼女の恋愛遍歴について訊ねることもできたが、それに関してはあまり聞いて心地の良いものでもなかったので、あえて訊き返すようなことはしなかった。少なくとも彼女は、自分とは違いあらゆる面で大人びていて、比べ物にならないくらいの経験を積み重ねてきたはずだったから。


 厨房の方から頼んでいた料理が運ばれてくる。ガタイの良い男店員がテーブルに料理を並べ、カタコトな日本語で料理名を読み上げていった。回鍋肉ホイコーロー青椒肉絲チンジャオロース、エビチリ、烏龍茶——それらを奇妙なものを見る目で見ていた三船先輩は、店員が立ち去ったところを確認してから、「食べてあげるね」と言って俺の目の前にあった回鍋肉からピーマンをつまみ取った。店に入る前、俺が彼女に野菜が苦手なことを伝えていたのを、ふいに思い出した。


 そこは大学近辺に位置する廃れた中華料理屋だった。


 汚いオヤジが昼間からいそいそと酒を飲んでいるようなひどい場所で、さらにはどことなくアンダーグラウンドな雰囲気が漂うからか、客は俺たち以外に一人もいなかった。雨の音だけが物寂しげに響き渡り、出入り口のそばで黒い野良猫が物欲しそうにこちらに視線を投げていた。


 大学の帰りについで・・・として寄った場所だったが、こんな昭和チックな店がここの近くにあるなんて知りもしなかった。俺はピーマンのなくなった回鍋肉を口に入れながら、壁のシミを何となくじっと眺めた。


「雨、止まないね」と三船先輩が言った。


 そうですね、と俺も言う。しとしとと降る雨は、店のガラス窓を撫でるように叩き、水滴となって地面へと落ちていく。

 昼間なのに夜みたいな空気感だった。次第に心が穏やかになっていくのがわかる。そして彼女も同じような気持ちでいるのだろうことがその表情からしてわかった。

 

「今日はどうしよっか」

 

 その声に釣られるように、俺は視線を目の前に持っていく。

 三船先輩が、テーブルに両腕を置き、心なしか前のめりになるような体勢でこちらを見ていた。


「ホテル? それとも高野くんの家かな」


 彼女はそう言って口角を上げる。


 まるで夢の中にでもいるみたいに心がうわずり出していた。事実、俺はまだこの状況が、リアルなのかそうでないのか、はっきりとわからないままでいる。


 四月一日。嘘みたいなエイプリルフールが、そこにはあった。

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