アルバイト

「なんかいいことでもありました?」


 突然そんな言葉を投げかけられて、茫然としていた意識から強引に呼び戻される。え、と俺は振り返った。

 

「いいことあったような顔してます」

「そうかな」


 レジカウンターで突っ立っていた俺は、後ろを通る彼女の気配を感じながら、暇を持て余すようにひとつ溜息を吐いた。

 深夜のコンビニエンスストア。東京。駅近。客はおらず、女の子と二人きり。状況だけを見れば、気まずさは若干残るものの、半年も経ってしまえば、それなりに慣れたものだった。


「恋人でもできましたか」


 誰もいないのに二人してレジに立ち、晩飯のおかずにもならないどうでもいい話をする。

 

「できてないよ」と俺は言った。「できるわけないって」

「そうですよね。できるわけないですよ」


 その返答に若干傷ついた反応をすると、彼女、桐沢きりさわさんは、両手でわざとらしく口元を覆って、笑った。手の甲まで伸ばしたオフホワイトのセーターが、隠す気のないキスマークみたいにとにかくあざとく見えていた。


 彼女とはもう半年以上の付き合いになる。


 俺がこのコンビニでアルバイトを始めて、その二ヶ月後に、彼女がここに入ってきた。社交的だという印象はなかったが、物腰が柔らかで、常に落ち着いていた。言葉数が極端に少なく、仕事以外の会話なんてほとんどしたことなんてなかったから、俺が彼女とこんな風に会話をするようになったのはつい最近のように思える。


 それもこれもたぶんあれがきっかけだった。


 酔っ払ったサラリーマンの男が、桐沢さんの目の前で失禁したあの日。おそらくはあの日から、俺たちの間に壁というものがなくなった。

 とはいえ、ただ二人して他人の出したそれを掃除しただけのことだった。「大丈夫だよ。あとはこっちでやっとくから」と俺が言っても、彼女は「私も手伝いますから」と言って聞かなかった。そうやって涙目になりながらも床を拭いていたことを覚えている。


 今ではくだらない笑い話だ。


「そういえば」


 自動ドアの外を眺めながら、桐沢さんが言った。俺は彼女の方に視線を向ける。


「あともう少しで、二年生ですよね。大学の」

「ん、ああ」それが自分に対してのことだと、遅れて気がついた。「それがどうしたの?」

「いや。どんな感じなんだろうって、ちょっと思っただけです」


 彼女は俺とは違い学生ではなかった。高校を卒業してからすぐに、色んなアルバイトを掛け持ちするようになったらしい。大学にはあまり魅力を感じなかったのだと言っていた。

 そのせいか、彼女はまだ高校生の頃の癖が抜けないらしく、俺のことを先輩と呼んでいた。これは別に俺たちが知り合いだったというわけではなく、単なる癖によるものだった。


 だから、変な子だと思った。


 同じ歳なのに敬語で先輩呼びで、言動もときどき謎めいている。無表情で何を考えているのかわからなくて、それなのに笑ったときだけはわかりやすく無邪気になる。

 色々と不器用なところがあるのかもしれない。彼女を見ていて思うことだが、それは自分にも言えることだったので、口には出さない。


「先輩」桐沢さんが口を開いた。「今日も駅まで送ってくれますか」

 

 ん、と俺はまたぼんやりと反応する。大学のことは訊かなくていいのかと思ったが、そろそろこの時間にも終わりが近づいているようだった。

 コンビニの窓から、陽の光が微かに入り込んでいる。陳列された品々がその光によって薄く色づき、やがて街全体が凝縮された赤に塗りつぶされていく。


 もう幾度となく見た東京の夜明けだった。


 俺はやってきた欠伸を噛み殺しながら、「いいよ」と答えた。桐沢さんも釣られて欠伸をしている。そして綺麗に纏められた濡羽色のポニーテールを揺らすと、彼女は目を細めるようにして笑った。


「ありがとうございます」


 自動ドアが開く。

 数瞬遅れて、いらっしゃいませぇ、と隣で声がする。


 

 

 

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