終わりの始まり
当時、まだ俺が高校生の青二才だった頃――もっとも、今でも青二才ということは変わらないのだが――彼女は大学の一年生で、いかにも東京の人間という感じがしていた。
その頃アルバイト先を転々としていた俺にとって、三船先輩との出会いは衝撃に近いものがあった。
高円寺から中央線で三十分ほどのところにあるカラオケ店、「まねきねこ」。雑居ビルがひしめき合うそのただ中で、彼女だけが本物だった。大学生、フリーター、周りで働く人たちは同年代がほとんどで、そのせいか横のつながりを求めるやつらばかりだったように思う。
それどころか自分の思い描いていた東京とはあまりにもかけ離れすぎていて、大いにがっかりしたものだった。
たびたび開催される飲み会には、職場の人間関係を維持するため参加するようにはしていた。だが、そこで繰り広げられる中身のない会話には、一度だって耳を傾けたことはなかった。
それでも三船先輩がその場所に現れるときに限っては、その場にいる誰もが、もちろん俺自身もが彼女の存在に惹きつけられた。
彼女の仕草や呼吸、声、視線、姿形、その一挙手一投足に気を取られるどころか、男ならそわそわと落ち着かない気持ちになり、女性なら羨望の眼差しを向け、がらりと部屋の空気感が変わってしまう。そんな気がした。
あの頃はただ美人だから、という理由だけで周りを惹きつけていたのだと思っていたが、今思えばもっと他に彼女の魅力は存在していたのだろうとも思う。
その証拠に俺は三船先輩に何度か進路の相談を持ちかけたことがあった。東京のどこの大学に進学すればよいのか、という傍目から見れば実にくだらない相談だ。しかし彼女はそのくだらない相談にも真剣に付き合ってくれ、うんうんと相槌を打ちながら、「だったら、私が通ってる大学に来ればいいじゃん」とにこりと笑いかけてもくれた。誰もいない休憩室で、頬杖を突きながらこちらを見つめてくる彼女のその姿が、今でも脳裏に鮮明に焼きついている。それから俺は迷わず彼女と同じ大学に行くことを決めたのだった。
ただ、大学受験の結果が出る頃には、すでに三船先輩は「まねきねこ」を辞めてしまっていた。受験に合格したというメッセージは送ったが、それきり彼女とは会えていないし、連絡すら取っていなかった。
あれから何の音沙汰もないままに一年が過ぎた。あのとき一緒に働いていた同僚とはまだ浅い関係が続いている。しかし自分にとっていちばん大きな存在だったのはやはり、アルバイト先の同僚でも高校のクラスメイトでもない、三船先輩ただ一人だった。自分の人生を左右するきっかけとなった人。
あの頃の、好きというより憧れだった人。
もう忘れられていると思っていた。でも、彼女は俺をはっきりと覚えていてくれた。
「高野くん」と自分を呼ぶ声がして、突然、下の名前を呼ばれたわけでもないのに、どきりと心臓が跳ね上がる感じがした。「はい」と返事をした声が、思わずうわずってしまう。
「全然変わってないね。全然、変わってないよ」
「そうですかね」
先輩が変わりすぎなだけですよ。そう思ったが、また声がうわずってしまいそうで、口には出せなかった。
——心臓の音が鳴り止まない。
「連絡しようとは思ったんだけどね」三船先輩は気にしない様子で喋りかけてくる。「あまりでしゃばりすぎるのも迷惑かな、って」
「迷惑なんて」と俺は首を横に振った。「でも、俺もそんな感じです。連絡しようか迷ってるうちに、結局なあなあになっちゃって」
「まあ、あるあるだよね」
「あるあるですか」
別に俺たちは付き合っているわけではない。それならばこの友達とも言えない曖昧な関係が途絶えたとして、何ら不思議はないのかもしれない。
よくあることだ。それは自分でもはっきりと理解していたことなのに、どうしてもっと積極的になれなかったのかと、今更になって過去の自分に嫌気が差していた。
「あれからもう一年なんだ」
三船先輩が感慨深げに夜空を見上げた。冬なのに春を感じさせるような彼女の桜髪が、近くに設置された街灯によって薄ぼんやりと艶めいている。
この一年で変わったのは、何も彼女だけではない。
「ていうかそれ、どうしたんですか」そうして俺は、自分が今もっとも気になっていたことを、そこで訊ねたのだった。「ハイヒール、折れちゃってますけど」
「ああ、これね」三船先輩は右手に持っていたハイヒールを、思い出したかのように胸の前に掲げた。「歩いてるときに、ちょっとね。軽くひねっただけだから、もちろん、怪我とかはしてないよ」
「もしかして、履き慣れてないんですか?」
「痛いとこ突くなあ」と彼女は目を逸らし、恥ずかしそうにして笑った。「まあ実際、そうなんだけどね……これは、友達にプレゼントしてもらったやつ。今日は、その友達から、数合わせのための合コンに誘われてさ。行くつもりはなかったんだけど、どうしても、って言われて」
「この際だから、プレゼントしてもらったハイヒールでも履いてみるか。みたいな」
「そうそう。このまま置いておくってのも
このありさまだけど、と三船先輩はくびれたハイヒールをぷらぷらと揺らした。その白っぽいハイヒールが、彼女の淫らな身体つきに少し似て見えたのは、たぶん気のせいだった。
「それでこの時間まで、飲んでたってわけですか」俺は何でもない風を装って、そう口にした。
「飲んでたっていうか、半分、死んでたっていうか」
「半分死んでた?」
「やっぱり、ああいう場所に、私は行くべきじゃなかったんだよ」気分が落ち込んでいるのか、彼女の顔が沈んだように俯く。「私のせいで、場の空気が悪くなっちゃったみたい。一人、怒って帰っちゃった人もいてさ。だから、いたたまれなくなって、私も途中で店を出たの。そのときにハイヒールも折れて……」
彼女の溜息が、白い靄となって空に浮かび上がった。
「ほんと、最悪な一年の終わり」
僅かな沈黙がここに降りる。
そして訪れた静寂の中で、俺だけはそれを他人事だとは思えないでいる。
自分も同じ気持ちだと伝えたかった。いきなり自分の命が僅かだと告げられて、それを楽観的に捉えろだなんてそんな無謀な話がどこにあろうか。
きっとそれを受け入れることもこの先ないのだろうと思う。死ぬ直前まで、誰を恨むでもなく苦しみ続けるのだろう。それでも期待できるものが手の届く場所に少しでもあるのなら、俺はそれに縋ってみたかった。
そのとき、ふと脳裏をよぎったのは、――童貞のままじゃ死ねない、という自分の馬鹿らしい目的だった。
相手が三船先輩であるのなら、これ以上のことはきっとない。たとえこの先何十年と生きたところで、彼女のような人がもう一度自分の前に現れてくれるとは限らない。
だからこそこれを合コンの延長線として考えたとき、もし叶うなら、俺は彼女に自分を選んで欲しいと思ってしまったのだ。もしまだ手遅れではないのなら、自分にそれだけの機会を与えて欲しかった。
最悪な一年の始まりにはさせないから。
駅のロータリーに何気なく視線を向けてみると、あれだけ騒がしかった街の風景もすっかりとなりを潜めてしまっている。人も疎らで、ここが本当に東京なのかということすら忘れそうになる。
深夜一時の阿佐ヶ谷駅南口は、思っていたよりもずっと空っぽだったらしい。
視線だけを戻してみると、そこにいる三船先輩と目が合った。急激に視野が狭まってしまったみたいに、その瞬間から、だんだんと彼女だけしか見えなくなっていた。
だが同時に、
「たかのぉ、お前よぉ」
それまで口を閉ざしていた渡来さんが、何を思ったのかふらふらとした足取りで喋り出す。「あ」とその存在に気づいた三船先輩が、「この人、踊ってる」と見たままを口にする。
完全に忘れていた、と思った。
俺は慌てて渡来さんの体を支えると、そのまま無理やり、目の前に駐車していたタクシーに放り込んだ。「とりあえず下北沢までお願いします」。渡来さんには悪いが、今はそうするほかなかった。はいよー、とタクシーの運転手が言ったのに合わせて、「渡来さん、あとは自分で」と彼の肩を念入りに叩き、ドアを閉めた。
タクシーが走り出し、窓越しに船を漕いでいる渡来さんが、夜の街へ消えていく。「行っちゃった……」と三船先輩がそれを目で追いかけている。
そして俺は足早で戻ってくると、仕切り直して彼女に声をかけるのだった。
ここからが本題だ、とでも言うように。
「先輩、俺の家に、サイズの小さな靴があるんですけど」
「え?」彼女がふいを突かれたように肩を跳ね上げさせた。「サイズの小さい靴って、どうして急に」
「それ……歩きにくいかな、って思って」
俺が人差し指を向けると、彼女の視線が自分のつま先に向いた。
「もしよければ、俺の家に取りに来ませんか」
「高野くんの家に?」
「よければ、なんですけど」自分の声が震えているのがわかった。「俺の家、ここの近くで。始発も、あと数時間ですし、それまで俺の家にいれば、タクシーに乗るよりは安く済むかなって」
必死に理由を考えていた。三船先輩を自分の家に招き入れるための確かな理由を。しかし自分の口から飛び出す言葉はどれもあやふやなものばかりで、ますます頭が混乱してふためいていく。
きっと今、自分の顔はゆでだこのように沸騰してのぼせ上がっているに違いない。
やっぱりやめてしまおうか。今のはなかったことにして、無難に家まで送り届けて帰った方がよいのではないか。
そうしておそるおそる彼女の反応をうかがったところで、ふと、その口が開いたのが見えた。
「私もまだ、自分の家には帰りたくない気分なんだよね」
ひょっとすると、三船先輩は俺の言いたいことを言わずとして汲み取ってくれていたのかもしれない。そう思ったのは、彼女の表情が、先程よりもいくぶん朗らかなように見えたからだった。
「ちょっとだけ、お酒でも飲む?」
この機会を逃すわけにはいかない。
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