憧れ

「浮かれすぎですよ、渡来わたらいさん」


 阿佐ヶ谷にある、常連客が色濃く密集しているような若者のいない大衆酒場だった。サラリーマンやら地元住民やらがやかましく場を支配し、それぞれがそれぞれの会話に花を咲かせながら、酒のつまみになるものを血眼ちまなこで探している。

 そんなむさ苦しい場所で俺たちは向かい合わせで座っていた。渡来さんは、すでにひどく酔っぱらっているようだった。


「ナンパよナンパ。おれのお得意の話術でちょちょいのちょいよ」

「……はあ」と俺は、呆けた風に答えるしかなかった。「ナンパ?」

「そ。渋谷のスクランブル交差点を歩いてるところを、がっとね」

 聞き慣れた話ではあった。「それで、その女の子とは上手く付き合えたんですか?」

「まだまだ」と渡来さんは顔の前で手を振る。「これからよ。これからが男の見せ所ってとこよ」


 そうして渡来さんは目の前にあった焼き鳥を串ごと頬張った。

 近くにいるサラリーマンたちが、尻のでかい女の話で、ドッと盛り上がりをみせている。辺りを見回してみてもジョッキを持っていない人間の方が珍しいくらいで、そう思うと、酒を飲んでいない自分が少しだけ恥ずかしく思えた。


「お前も真面目だよなあ」と渡来さんが言った。「今日くらい誰も咎めやしねえって。飲んじゃえ飲んじゃえ」


 ビールジョッキを差し出されて、俺は困った表情を浮かべながら、今日が元旦の前日だということを再認識した。

 暇だったら飲みに付き合ってくれないかと、渡来さんに昼間呼び出されたのが事の発端だった。おれも暇してるんだよな、よかったら高野たかのも来てくれないか、と。

 

 実際に悪い気はしていなかった。


 こうして渡来さんに誘ってもらえて、自分はまだ独りではないのだと曲がりなりにも思えたからだ。しかし酒を飲むかどうかはまた別の話だった。

 俺は差し出されたジョッキを無視して、自分のところにあるお冷を一口飲んだ。律儀にお酒を慎んでいるわけではない。そもそも味が苦手だったのだ。


「渡来さん、単位とか大丈夫なんですか」


 気を取り直してそう訊ねると、渡来さんは「あー?」と真っ赤な顔で唸った。


「そうやって色恋沙汰に気を取られてうつつを抜かしてたら、後々になって大変なことになりますよ。大学一年とか二年とか、初めの頃は無事に進級できたとしても、四年生になったら、前の学年で取り損ねた単位のつけが、一気に回ってくるって聞きましたから」

「なんだよ。お前はおれの親か」


 けっ、と渡来さんは吐き捨てるように酒をあおった。

 

 渡来さんとは同じ学部の同じ学年で、出会いもそのときのオリエンテーションだった。瘦身で、身長こそ高くはないものの、無類のヒップホップ好きで派手な見た目をしていた。

 特に意気投合したというわけではないが、出会った当初からなぜか俺は彼に気に入られていて、たびたび飲みに連れていってもらうことがあった。

 

 年齢は彼の方が二つほど上で、二回、浪人しているらしい。


 しかしその肩書からしても勤勉とは程遠く、左腕の裏には小さなタトゥーが入れられていた。アルファベットで「follow your hert」。心のままに、という意味だ。

 それなりにダサかったが、彼はダサいことをかっこいいと思い込むタイプの人間なので、こちらから何かを指摘してやる気にはならなかったし、指摘したところで激昂されるのが落ちだっただろう。


「そういうお前はどうなんだよ」渡来さんがドレッドヘアを揺らして睨みつけてくる。「最近、講義にも出席してないみたいだし、単位とか、やべえんじゃねえの?」


 確かにそうかもしれない、と俺は思った。そして渡来さんの顔を見るに、今日自分を飲みに誘ってくれたのは、大学に顔を出さない俺を心配してのことだったかもしれないな、とも思った。

 しかしそれは今に始まったことではなかった。もともと俺はサボり癖があり講義にはさほど出席していなかった。


 自分がこの先死ぬとわかっていたら、そんな生き方は当然しなかっただろう。


 何もかもがこれからだった。何もかもがこれからの、その、矢先の出来事だった――。


「大丈夫です」コップの中で揺れる水を、俺はじっと見つめている。大丈夫なはずだと、幾度となく自分に言い聞かせていた。

「大丈夫って、なにが」渡来さんがジョッキを置いた。

「退学しようと思ってるんです」

「え。大学を?」

「はい」

「なに、彼女とハネムーン?」


 俺は首を横に振った。そうじゃないです、と口にしたと同時に、周囲から張り裂けるような絶叫が聞こえた。しかしそれはただ周りの大人たちが浮かれたはしゃぎ声を上げているだけのことで、大した事件でもなかった。

 もう一度水を飲む。ちらりと掛け時計に目をやれば、ちょうど夜の十二時を指していた。ハッピーニューイヤー。周りがやけにうるさかったのはそのせいだ。


 自分の声が掻き消されてしまったようなので、改めて俺は「そうじゃないです」と渡来さんに向かって口にした。


「俺、もうすぐ死ぬんで」


 何でもない風に溜息を吐く。その瞬間、僅かな間だけ場の空気が静まり返ったような気がした。

 渡来さんも驚いたように目を見開き、固まっているようだった。しかし周りの雑音がざわざわと聞こえ始めたときには、すでに焼き鳥をいっぽん串ごと頬張っていて、また、いつもの通りに的外れで不相応なことを言っている。


「お前も、冗談とか言うんだなあ」


 

※ ※ ※ ※

 

 

 大晦日の夜は、どこかがらんとしていて肌寒かった。

 吐く息は白く、思わず自分の体を抱きしめてしまいそうになる衝動に駆られながらも、抱擁せずにいられたのは、散りばめられた街の灯りがどこか温かかったからだ。

 高架下の通りを歩いている途中で、渡来さんが「さみぃ」と愚痴を吐いている。俺が「危ないっすよ」と声をかけると、店先の閉められたシャッターに寄りかかりながら「だいじょぶだいじょぶ」と顔の横で手を振った。相当酔っているのか、千鳥足でそこかしこにぶつかりまくっていた。


 本人はまだどこかで飲むつもりでいるが、この状態では喋ることすらままならないだろうと俺は思った。きっと明日には記憶がなくなっている。


 終電はもうなくなっているので、それとなく駅前のタクシー乗り場まで誘導した。そのときに、渡来さんが何か珍しいものを見つけたような声で、あ、と言ったのだ。彼は誘われるように阿佐ヶ谷駅南口のタクシー乗り場まで歩いていくと、そこでタクシーを待っていたらしい女性に、声をかけた。

 

 お暇でしたら、おれと一緒に酒でも飲みませんか、と。


 そう言っているつもりなのだろうが、ほとんど呂律が回っておらず聞き取れなかった。女性は困ったような、それでいて何の興味もなさそうな愛想笑いを浮かべていた。


「やめましょうよ渡来さん。迷惑ですって」


 渡来さんの肩を揺さぶり、女性から引き剝がした。「邪魔すんなよ。こんなえろい女そうそういねえって」しかし渡来さんは一向に聞く耳を持ってくれなかった。暴れる彼を押さえながら、俺は申し訳程度に頭を下げる。

 そこでちらりと、女性の姿が目に映った。


 確かに、露出の激しい女だとは思った。


 上には桃色のニットにムートンジャケットを羽織っているが、下には黒のタイトスカートだけで、そこから伸びた真っ白な足が生々しくも空気に晒されている。

 歩く途中でくじいてしまったのか、片方だけが裸足で、右手にはその残骸である折れたハイヒールがあった。この真冬のアスファルトを、彼女は剥き出しになったその足で歩いてきたのだろうか。少しばかり同情すると同時に、不覚にも渡来さんと同じようなことを自分が考えていて、驚いた。


 よそ行きっぽい服装に、どこかで失敗してしまったかのように持て余された片足ハイヒール、そしてこんな夜遅くにこんなところで鉢合わせてしまった彼女のその雰囲気が、蠱惑的で、抜群にエロかった。


 それこそ、裸で街を歩いていても違和感がないくらいに。


 彼氏にでもフラれてきたのだろうか。

 それとも、男関係で何かトラブルでもあったのだろうか。

 馬鹿なことを考えているのは自分でもわかっているが、そう推測せずにはいられなかった。


 何となく気になって、その剥き出しのつま先から、視線を彼女の顔の方に移した。冷たい風が頬を撫でる。大した期待をしていたわけじゃなかったが、それでも、この冬の寒さを忘れてしまうくらいには心が傾いた。


 そしてその期待は、想像とは少しばかり違った意味で、裏切られることになる。


「やっぱりそうだよね」


 そう言ったのは目の前の女性だった。


「高野くん、やっぱり高野くんだよ」

「え」


 一瞬、時間が止まる。


 まじまじと彼女の顔を見て——そんなはずはない、と俺は思った。しかしその、どこにいても映えるような儚げで愛らしい風貌には、決して度外視することのできない、確かな見覚えがあったのだ。


「もしかして……三船みふね先輩、ですか」

「うん」彼女は嬉しそうに肯く。「久しぶりだね。元気、してた?」

 

 突然のことで、すぐには反応できなかった。

 ようやく状況が飲み込めて、はい、と咄嗟に肯き返すが、先程の、自分が彼女のことをよこしまな目で見てしまったことがばれていないか、気が気でなかった。途端に恥ずかしくなり、目のやり場に困って再び彼女の顔に戻ってくると、自然な微笑みが向けられた。


 そこでやっぱり彼女は変わっていないんだと思った。長かった後ろ髪は顎下までばっさりと切られ、色も溶け込むような黒ではなく淡いストロベリーブロンドに変わっていたが、そのやわらかな微笑みだけは今でもあのときのままだった。

 

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