眠れない一夜
がんばれがんばれ、という声が耳元から聞こえて、疲労よりも羞恥が勝るのは何もおかしなことではない。十九にもなって、柄にもなく
歩きづらいから、おんぶでもしてもらおうかな——なんて。
三船先輩は冗談で言ったつもりなのだろうが、それを俺が真に受けてしまい、こうして長い道のりを人ひとり背負って歩かなければならなくなってしまった。阿佐ヶ谷から高円寺まではさして離れた距離ではないけれど、人を背負った状態ならばそれも嘘のように遠のいてゆく。
「あともうちょっと?」三船先輩が心配そうに声をかけてきたのは、そのときだ。「結構歩いたけど」
俺は小さく肯く。「あそこのコインランドリーの横を曲がって、あとは次の自販機さえ越えちゃえば、すぐ」
「ねえ、疲れたでしょ?」
「疲れてないですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
「うそ」首に巻きついていた彼女の腕が、少しだけ窮屈になる。顔を近づけられているのがわかった。「息、切れてるもん」
「あんま、近づかないでくださいよ」
「なんで?」
「なんでって」俺はわざとらしく考える素振りを見せて、とぼけた。「何となくですよ」
「なにそれ」と三船先輩はおかしそうに笑った。
人通りの少ない、街灯の明かりだけが頼りの、しんとした夜の住宅街。背中に密着した彼女の体が、甘く切ない匂いを漂わせている。香水ではなさそうだった。ならばこの匂いは何なのだろうとふと思ったが、俺にはわからなかった。
アパートの入り口付近に到着したところで、「もういいよ。降ろして」と三船先輩が言った。さすがにこの状態のままではみっともないとでも思ったのだろう。言われた通りにすると、ゆっくりとその足が地面に着地し、カツン、という軽快な音を鳴らした。「ん、ありがと」
右手のハイヒールがまるで振り子みたいに揺れている。
まだ酔っていないはずなのに、彼女の体は不安定で危なっかしかった。それが片足しか靴を履いていないせいだと理解していたので、俺は彼女の体を横から支えながら階段を上っていく。
止まることなく着実に進んでいく夜。階段を上っているだけで、もう始まっているような気さえした。
それから俺はいちばん手前の201号室に手をかけ、おもむろに鍵を回した。そこはなけなしの蛍光灯が照らす、アパート二階の薄気味悪い廊下だった。隣の家の玄関先では、何かを祝福するように飾られたネオンサインが、紫色の妖しい光を放って瞬いていた。
happy new year——。
浮かれているのは、どうやら自分だけではないらしい。
「どうぞ」そう言って俺は家の扉を開ける。
部屋の電気を点けると、三船先輩がかしこまったような声で「おじゃまします」と口にした。手狭な玄関なのでいくぶん彼女との距離は近い。すました風でいるけれど、この密室に閉じ込められたみたいな現実離れした空間に、内心は緊張してままならない思いでいる。
頭の中で何度も思い描いてきたような、三船先輩と二人きりでいる贅沢な光景。あまりにも出来すぎた展開に、息が詰まって、吐いてしまいそうだった。
「散らかってますけど」と何とか声を絞り出すしかできない。
ただ、三船先輩の方は無邪気な弟でも見るみたいに「男の子の部屋、って感じでいいじゃん」と言っている。玄関からでは部屋の全貌はうかがえないが、気を遣ってくれたのかもしれないと、後になって思う。「あ、お風呂借りてもいい?」
「風呂ですか」
「足、洗わないとだから」
どうぞ、と俺がまた答えると、三船先輩は脱いだハイヒールを壊れたハイヒールと一緒に玄関に並べ、何の躊躇もないまま右手の浴室に入っていった。几帳面な人なんだと思った。
俺はその隙に乱雑に転がっていた服を順に拾い上げ、押し入れの中に突っ込んでいった。洗い忘れたパーカー、擦り切れたジーンズ、何年も前から使っているティンバーランドの黒い帽子。余命宣告を受けたあの日から、部屋の様子は一切変わっていない。むしろ以前よりも汚らしく、空になった缶ビールとか、食べかけのコンビニ弁当だとか、そんなものまでもが無造作に散らばっている。
それらを無理やりゴミ袋に押し込んでいく途中でのことだった。部屋の中心に置かれているテーブルの下まで手を伸ばし——そこでぱたりと、あるものを見つけてしまって、手を止めた。
それはあのときもらった、診断書と薬だった。
こんなところに隠れていたのかと思う反面、心がよどみ、一瞬で気持ちが暗くなるのがわかった。一時的に抑え込んでいたものが突然と溢れ出すような、そんな感覚だったことには違いないのだが、なかなか胸の内側から消えてくれる気配はなく、かえってそれが体の奥底でじわじわと膨れ上がっているようにさえ感じた。
胸に手を添え、いつになったら楽になれるのだろう、と思う。できるならこんな苦しくて辛い思い、したくはないのに。
高野くん、と自分を呼ぶ声が聞こえ、俺は咄嗟に首を振ると平静を装う。大丈夫、大丈夫だと再び自分に言い聞かせる。電気ストーブに灯を点けて、診断書と薬をその裏に隠した。
「ありがとね、使わせてもらっちゃって」
ちょうどそれと入れ替わるようにして、浴室から三船先輩が出てきたのは、時計の針が優に深夜の二時を回った頃だった。
「タオルとか、必要なかったですか」
「ハンカチあるから」彼女は、白色のハンカチを自分のショルダーバッグの中に入れている最中だった。がさごそと音が鳴る。このままじっとしているのも落ち着かないので、俺は立ち上がると、冷蔵庫の中からビスケットとよなよなエールを取り出した。私、それ好き、と嬉しそうな声が後ろから聞こえた。「荷物、ここに置いとくね」
「あ、はい」
部屋の隅にショルダーバッグが置かれ、その上に、脱いだジャケットがかぶせられる。
俺は手に持っていたビスケットや缶ビールをテーブルに並べると、三船先輩に適当な場所へ座るよう促した。
「それにしても、本当に一人暮らししてるんだなあ、って感じ」
三船先輩は、ベッドの側面を背にして座る俺の隣に、人ひとり分の距離をあけて丁寧に座った。
こういうことにいちいち反応していたらキリがないけれど、意識するなと言われる方が難しかった。彼女の着ている桃色のニットが、その体のラインを細部までくっきりと浮かび上がらせている。足の方も短めのタイトスカートなので、膝を曲げていると際どいところまで見えてしまいそうだった。
見たところ傷ひとつない綺麗な肌をしているが、かじかんで、つま先が霜焼け気味になっていた。鼻先も、まるで泣いているみたいに赤らんでいる。
「じゃ、乾杯」三船先輩が言った。
「乾杯」と俺も缶ビールを持って打ち合わせる。ぷしゅぅ、とプルタブを開ける音が隣から聞こえた。三船先輩が缶ビールを傾け、ゆっくりと喉を鳴らしていた。
ところで、異性をこの部屋に招き入れること自体、俺は初めてなような気がした。渡来さんや、大学の友人を呼ぶことはときたまあったけれど、もともと異性との関わりも少ないので、いつでもこの部屋はむさ苦しかった。
そのため勝手な推測にしかならないが、彼女は合コンに参加し、あまつさえ何の躊躇もなく男の部屋に足を踏み入れているのだから、恋人はいないのだろうと思った。むしろこの状況を、それなりに悪くないと感じている。
「はぁ」と、三船先輩が缶ビールから口を離した。フープ状のピアスが耳たぶで揺れている。その横顔はいつ見ても美しく整っていた。「あのさ」
「はい」
「まだ働いてるの?」
電気ストーブの熱が、彼女のいる方角から伝わってくるようだった。
「働いてるって」
「まねきねこだよ」と彼女は言った。「まだ働いてるのかなって」
「もう辞めました。先輩が辞めた後にすぐ」
「やっぱりきつかった?」
「そういうわけじゃないです」
「なら、私が辞めたから?」
俺が目を合わせると、三船先輩は首を傾げて微笑んだ。
「どうなんでしょうね」と俺は手元にある缶ビールを見つめる。乾杯をしたはいいものの、蓋はまだ開けていなかった。「正直、バイトできる場所なんてどこでもよかったんですよ。稼げるか稼げないかも、まあ、どうでもよかったんです。俺、何もない人間なんで。何もないからこそ、その職場の人間関係を求めるっていうか」
「居心地?」
「……たぶん、それです」
「ふうん」と彼女はまた一口、ビールを飲んだ。「そっかそっか、辞めちゃったのか」
「だめでした?」
「いや、全然。むしろ、そりゃそうだよな、って思った。私もそれが理由だし。辞めて正解だったよ、あんなところ。ナンパの巣窟じゃん、あそこ」
俺が辞めたのと彼女が辞めた理由では、意味合いが少し違っているようだった。それでもお互いに居心地が悪かったのは確かだ。
「今は何やってるの?」
「コンビニです。コンビニの夜勤」と俺は言った。
「うわあ、夜勤かー」大変じゃん、と三船先輩はビスケットをつまんでいる。「コンビニの夜勤ってさ、もちろん眠いし健康に悪いしで、心身的にもつらいけど、なんか、酔っ払いに絡まれたりするって言うでしょ。ねえ、あれって実際、ほんとなの?」
「これ、俺の体験談なんですけど」と答えて、俺は缶ビールをテーブルに置いた。「アルバイトを始めてから三ヶ月が経って、そろそろ仕事にも慣れ始めて来た頃、たぶん深夜の三時くらいかな、その時間に酔っ払ってるお客さんが現れたんですよ」
「うん」
「顔も真っ赤で、足元も覚束ないし、あ、これ、酔っ払ってるなって、すぐにわかって。そのとき俺、レジはもう一人のバイトの子に任せて、店内の掃除をしてたから、どうしようかなって思って、とりあえず様子だけうかがってみることにしたんです」
「万が一があるかもしれないからね」
「はい」と俺は肯く。「それでそのお客さん、案の定レジに来て、言ったんですよ」
「言った?」
「トイレはどこにあるのかって」
三船先輩ははっとすると、何かに勘づいたように声を沈めた。「まさかね」
「やり口がもう、露出狂のそれでした」と俺は言う。「気づいたら、そのお客さん、そこでしちゃってたんです。酷かったですよ。量が多かったのか、床がびしょ濡れになっちゃって、それから湯気とかも上がったりして」
「あー」そう言って声を上げた三船先輩の顔は、ちょっとだけ青ざめていた。まねきねこで働いているときも、そういう事案は少なくはなかった。カラオケ店内で、ところかまわず嘔吐する客だったり、理不尽なことで、店員を責め立てる客だったり。挙げだしたら永久に続いてしまいそうだが、それでも三船先輩は嫌な顔せず他人のゲロを拭き、クレームの対応にも笑顔を絶やさなかったので、とても真似できない、凄味があった。
あのときも、三船先輩がいてくれればと、再三思ったものだった。「結局、怒る気にもなれなくて、しぶしぶ二人で掃除をすることになりました。だってあの人、最後にこう言ったんですよ。ありがとうって。してやったぞ、って感じじゃなくて、トイレを貸してくれてありがとうって感じに、頭を下げたんですよ。信じられません」
あはは、と三船先輩は口元に手を当てて笑っている。
「そういうバイトはどこも変わらないんだね。特にコンビニの夜勤は厄介ごとが多そう」
「笑わないでくださいよ。あれ、結構トラウマなんですから」
「でも、まだコンビニのバイト、続けてるんでしょ? それってやっぱり、居心地がいいからなんじゃないの?」
「まあ」と俺は曖昧に肯く。客の対応には不満はあるけれど、それ以外には特段不満といったものはなかった。バイトできる場所なんてどこでもいい。そんな言葉が脳裏を掠める。「今のところ、辞めるつもりはないです」。それが今の答えだった。「ただ」
「ただ?」
「長続きはしないかな、って自分では思ってます。今までもそうだったんで」
ふうん、と彼女がつぶやきをこぼした。俯き気味に缶を揺らして、その中身をじっと見つめている。そこで波打つ炭酸水が、ぴちゃぴちゃと軽快な音を立てて、自分の耳元まで伝わってくるようだった。
会話が止むと、よりいっそう夜の静けさが感じられるようになった。窓外で聞こえる車の走行音も、自分や彼女の息遣いでさえも、そのひっそりとした夜の中では隠れる場所を持たない。だが、二人の世界に浸るには完璧な時間であるように思われた。
息を吐く。三船先輩がこちらに向いて、口元を緩ませた。
「飲まないの?」飲みなよ、とテーブルに置いてある缶ビールを、人差し指でこんこんと叩く。
「たぶん飲みきれないと思って」俺は言った。飲みきれないから飲まなかった、理由はシンプルだった。
「飲んでくれないと寂しいな」しかし、三船先輩は拗ねたようにそんなことを言っている。せっかく誘ってくれたのに、私だけじゃん、飲んでるの、と。
それもそうだよな、と思った。こちらから誘ったのに、結局アルコールを取り入れているのは彼女だけだ。これじゃあ酒を言い訳にして許しを請うこともできない。
俺は覚悟を決めて酒を飲むことにした。すると無言で、三船先輩が自分の缶ビールを差し出してきた。飲めということだろうか。
缶ビールを受け取る。数秒ほどその飲み口と見つめ合って、残りの半分を一気に飲み干した。
「飲んだな」後戻りできないぞ、というような顔で彼女が笑った。
「え」
「私のお酒を飲んだから、何か言うことを聞いてもらわなきゃ」
どうやら俺は今、酔っ払いに絡まれているらしい。「どうすればいいんですか?」
「歌って」
「え」
「だから、歌って。あれ、そうなんでしょ?」彼女が指差しているのは、部屋の隅に置かれたアコースティックギターだった。「もしかして、売れないバンドマンだったりするのかなって」
「なんですかそれ。ただの趣味ですよ」
ただの趣味、そうは言ったものの、もう二年近くこのギターには触れていない気がするので、もはやオブジェのような感覚だった。
腕も鈍っているはずだし、他人に聴かせられるような優れた技術を持っているわけではないので、聴かせたところで何の得にもならないのだが、三船先輩の頼みを安易に断るわけにもいかなかった。
「ちょっとだけですよ」
俺は缶ビールを床に置くと、アコースティックギターを持ってきて首にかけた。
指先で弦を弾き、記憶を探りながらチューニングを始める。三船先輩はそれを三角座りの状態でずっと見つめていた。膝を枕にでもするように、顔を傾けて。
それから二分ほど経って、俺は気持ちを整えるために深呼吸をした。これから彼女の前で歌を歌うとなると、途轍もなく緊張した。震える指で弦を弾く。
歌うのは、奥田民生の「イージューライダー」だった。誰も知らない曲を歌うよりは、そちらの方がいいと思った。
誰にも聞こえないように、彼女にだけ聞こえるよう、ボリュームを下げて。二人だけの空間でそれを歌った。二人だけの世界で、それだけを歌った。
※ ※ ※ ※
いい声、と彼女が囁いた。
歌い終えて真っ先に聞こえたのは、三船先輩のそんな言葉だった。視線だけを向けてみると、彼女はその余韻に浸るようじっくりと目を閉じていた。
喋り出すこともなくいつまでもそうしているので、俺は首にかけていたギターを外して、ベッドの側面に立てかけてみたのだが、彼女は一向に目を開けることはなかった。ふざけているのかと思って、そっと近づいてみるも反応はない。ゆっくりと、肩に触れるほどの距離にまでやってきたが、彼女は微動だにせず、そこに座っている。
薄いルージュの唇から吐息が漏れていた。その唇に向かって、俺は、静かに自分の唇を合わせてみる。
そのときやっと、三船先輩の目が大きく見開いた。
困惑というより、驚きにも似た表情で、こちらを見ていた。拒絶されるかもしれないとも思った。しかし揺れた瞳を一回まばたかせるだけで、彼女はなぜか怒ることすらしなかった。
ゆっくりと唇を離す。ふわりとレモンの匂いが香って、目を逸らせなくなった。
あんなに遠くにいた人が、今ではこんなにも近くにいる、その事実が、何よりもこの状況を作り出しているのかもしれなかった。
気がつくとまた彼女の肩に手を添えていて、知らぬ間に顔も近づいている。しかし三船先輩もそれを悟っていたのか、瞳を閉じて、次の瞬間には唇が触れるのを待っていた。まるでそうなることが初めからわかっていたみたいに、でもだとしたらどういう心境で彼女が今ここにいるのか、気になった。
考えても仕方がないことだ。それよりも俺はこの
三船先輩を押し倒し、場所も時間も考えず、自分の思うことをそのままする。床に置いてあった空の缶ビールが、コン、という音を立てて二人のそばに転がる。
その夜、俺は三船先輩とセックスをした。
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