1・月夜の比翼
一人の女が走る。
ボロボロの布で隠した隙間から、見え隠れするのは肌色と薄い白の服。高いヒールと厚い化粧はまるで、絵の具を塗りたくった美味しい果実のような。
そんな一人の春売りの女が、クインテッドの月夜の路地を駆けている。
「はぁ……はぁ……あっ!」
まるで道路に円を描き片足飛びで進んでいく子供のように、路地から路地へ、闇から闇へ進んでいく彼女が、仄かな灯りに気付き脚を止める。
ランタンに、紺色の隊服に銀色のリボルバーを携える人影が、注意深く辺りを見回している。クインテッド警察の警邏である。
小さな灯りが女の頬を照らす前に、彼女は道を変える。
革命は王国に、世界に大きな影響を齎した。
ガスの街灯も、その内の一つだ。
人が携えなくても消えることは無く、少しの手入れと燃料の供給だけで明かりを放ち続ける事の出来る画期的な発明品。
ただそれも、完全ではない。
例えば、燃焼には燃料と共に大量の酸素を要し、室内での使用は人体には少し影響が強すぎる。その上、悪臭まで発生する始末。
燃焼の反応による明かりは、人間の全てを照らす訳では無い。罪という物は人類の根源的な、影であり悦だ。
そして、影から陰へ行き来する者がここにも一人。
「……はぁ……はぁ」
フードで顔を隠しているその表情を、窺う事は出来ない。
警察を避け、時折後ろを確認しながら、ずん、ずんと路地を進んでいく。
ランタンも持たない彼女が目指す先は、どうやら街の中央という訳では無いらしい。街の南南西。奇しくも、ヴェリタス探偵事務所より近い位置だ。
「遅かったね」
「ごめん……客がいて……」
どうやら女の目的地に着いたらしい。壁にもたれ掛かりながら息を整えていると、一人先にここにいたらしい。もう一人の声が彼女を呼び掛けた。
こちらも、古ぼけた布で全身を覆っている。見えるのは口許だけ。体格と声からして、男だと分かる程度だ。
「で、どうした? 急に会いたいだなんて。会うのは騒ぎが落ち着いてからにしようって、話し合ったろ?」
「……大変なの! あ、その前に……」
彼女は手の平で男を制止し、おもむろに胸の谷間に手を入れる。何度か乳房を揺らし、取り出したるは一枚のコイン。
色は黄金、形は円形、描く模様は奇妙な巨人。
そう巨人。裏面に跪いた人々に、炎を下賜する一人の巨人が表面に。その正体が、神話に伝わる一柱の神であることを、この二人は知っていた。
女に呼応するように、男も自分の服に手を当て何かを探し始める。しかしその直後、何やら異変に気付いたようだ。
「あれ?」
自分の身体の至る所を叩く様子に、彼女は訝し気に目を細めた。
男の方は数秒そうして何かを探した後、どうやら目当ての物を見つけることは出来なかったらしい。彼は諦めて溜息を吐く。
「失くした」
「嘘でしょ?」
「ほんと。うわぁ……最悪だ。長子様にも貰わないと」
「もう、しっかりしてよね」
ぽりぽりと頭を掻き、ポケットからただのブルト硬貨を取り出した男は、困った表情でその硬貨を女に見せる。
「代用?」
「許してくれ。探しとくから」
二人はコインを親指と人差し指で挟むと、腕を真っ直ぐに胸の前に伸ばしそのまま上へ掲げる。まるで月に翳すように。
月光を受けて、鈍い銅色とくすみ一つ無い黄金がきらりと輝いた。
それは、まるで儀式だ。
互いに決められた動作を取り、天にでも祈るようにしてコインを掲げる。いや、彼ら彼女らにとっての神は専ら――――。
「始祖なる巨人よ、父祖たる神よ。遥か古にそうしたように今一度――――」
「始祖なる巨人よ、父祖たる神よ。遥か古にそうしたように今一度――――」
月下、飴色の髪が煌めく。
「我らに炎をお与えください……だったっけ?」
「誰だ!」
見知らぬ少女の声に、二人は声の聞こえた方向を、今いる路地の頭上の建物の屋根の上に視線を打ち上げる。
そこには、人影が二つ或る。一人は見慣れぬ少年。仕立ての良いワイシャツに、膝まで捲ったパンツとキャラメル色のサスペンダー。ぼさぼさの髪は、一切の手入れがされていない。
ローラス。あの時彼女が、そう紹介していたと、二人の記憶が蘇る。
もう一人は少女。フードの二人も見知った、この街で最も有名な少女。
曰く、その者は迷宮無しの名探偵。
曰く、その者は絶世の美少女。
曰く、その者は人を辿る極彩色の弓矢を持つ。
「誰って、先程お会いしたじゃないですか。寂しいですね。もう忘れられてしまったとは」
「お前は……まさか!」
「そのまさかでございます」
約五年前、突如嵐のように舞い降りては、その美貌と明晰な頭脳で様々な難事件を、まるで散歩でもするように解決していった少女がいる。
次第にその噂は街中に広がり、警察組織の頂点でさえも彼女に興味を抱き、正式に捜査協力を依頼するようになった。
当時は所謂流行りだった他の探偵たちも、その少女に難なく敗れ去り、街から探偵が次々と離れていく始末。現在においては、このクインテッドで活動する探偵はたった二人まで減ってしまった。
そう理由は只、彼女がクインテッドに存在するから。
彼女は、そんな事態を巻き起こした張本人。何度も何度も新聞の一面を飾り立て、着いた渾名は。
「
「その呼び方はやめて頂きたい……と、昨日も申したはずですよ、カート・ガルバートさん?」
探偵、グレシア・ユーフォルビアは静かに微笑んだ。
「何でお前が……ここに……?」
「お忘れですか? 私は探偵。探偵と言えば、尾行でしょう」
「でも私は……――――」
「尾行を気にされていたのは分かっていますよ、リン・ドッグさん。ですが残念。尾行したのはカートさんの方ですし、警官を配置させたのは私なので」
グレシアはにへらと笑った。対するローラスはポケットに手を入れたまま、退屈そうな表情を浮かべている。
リンは考える。だとすれば、だとするのなら、リンを含む二人は、この小癪な少女の掌の上で見事踊らされたというのか。
「ダン・シーカーを殺害したのは、貴方たちお二人ですね」
「何を根拠に……」
「根拠ならありますとも。今まさに、お二人がここにいる理由がそうです。ねぇ? プロメの遺児のお二人?」
三人の間に、ぴりとした緊張が迸った。
リンが手に持っていたコインを、さっと背中に手を回して隠す。その行為が、一切無駄だと知りながら。
「何でそれを」
「私、少し手癖が悪くてですね。お預かりしていたんです」
「まさかあの時」
グレシアが懐から取り出したのは、女が持っているのと全く同じ黄金のコイン。
そう、カートが転び掛けたあの時、グレシアは密かに彼のポケットをまさぐっていたのだ。
二人の表情から血の気が引いていく。まるで死して時間が過ぎていく魚のように、その眼から輝きが失われていく。
そのコインは正しく、プロメの遺児が必ず携える物。
「でも……例え僕たちがプロメの遺児だとしても、ダン・シーカーの殺害に関与しているかの証拠は無いだろ?」
「ご説明しましょうか?」
彼女の一見優し気な提案に、二人は顔を見合わせ、息を呑むしかなかった。
「殺害現場を拝見し、同じ条件の部屋と比べた時、すぐにトリックは分かりました。紅茶、そうですね?」
「……」
カート・ガルバートの眼が泳いだ。グレシアはその様子を見下ろしながら、得意気に続ける。
「あの隙間の無い錠では、少し膨れただけで通らなくなるとあなた方は目を付けた。脱出するなら、八階から廊下を経由し階段で一階に降りるという人目に触れる機会が多い正面玄関のルートよりも、固定観念で無意識に操作から外す窓を選ぶ可能性は大いにあると踏みました。ではどうするか。鍵が開いていたら脱出経路がバレてしまう……方法はどうあれ、脱出した後に鍵が締まればこっちの物。幸い鍵は上回り。思考は、何かをつっかえさせようと至った筈です」
「……で?」
「用いたのは紅茶。お二人は知らないでしょうが、鉄に紅茶を付けると黒い錆が出来るんです。黒錆と言いましてね、これは自然界には存在しないものです」
「……あぁ。紅茶で暫く温めて、つっかえた状態で窓から逃げた」
「おや、急に随分正直だ。さぞ熱かったでしょうから、紅茶を拭き取る余裕はなかった。その為、布団に紅茶が零れていましたよ。かなり濃く淹れたのでしょう、香りがまだ残っていた」
寝室の窓際、その錠の下に位置する掛け布団には、零れた紅茶が付着していた。
ローラスが六〇三号室で気付いた錠の白さはまさに、このトリックにグレシアが迫る核心であったのだ。
「やはり、ゴミ捨て場に飛び込んだので? 脚の怪我はそれが原因でしょうか」
「あぁ。やっぱりバレてたか」
「フフッ、えぇ。あの場の全員が気付いていましたよ」
「カート……」
不安げなリンに一瞥を投げ、カートは再び頭上の探偵とその助手に視線を送る。
「でも俺にはアリバイがあったよな? リンも、奴とは直接的な関わりは無かった。だよな」
「そうですね。それを解いたのはついさっきですよ。確かに最初は悩みました。容疑者は二人で、尚且つ一人はアリバイがあり、もう一人は通報する理由が無い第一発見者。なので私は考えました。何者かにより、アリバイが作られているのではないか」
グレシアの視線が、リンの方へと向いた。びくりと、探偵の視線を受けて彼女の小さな体が震える。
「ですが困りました。カートさんのアリバイは何も一人で立証されている訳ではありません。娼婦と女将。その三人で構築された堅牢なものだったのです。一切の関わり合いの無い二人が。ダン・シーカー殺害に関わることを許すはずがない……犯人はデイル・ノートックだろうか。と、悩んだところでした。面白い情報が手に入ったのは」
「……」
リン・ドッグが顔を下に向ける。現実から目を背けるように。
「面白いですねぇ。カートさんがオーキュパイに訪れた全く同じ時刻に現れ、全く同じ時刻に去った人間がいるらしいですね。それも、カートさんと同じプロメの遺児のメンバーと言う共通点を持つリンさんの勤めるアクト・オブ・ダークネスで」
「……何が言いたい」
「こういう事です」
グレシアは大きく息を吸い込んだ。
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