2・罪と情事は円舞曲の後で
十一月二十七日、午前十時二十一分。
「材料はある程度揃ったね」
グレシアはそう言いながら、机上に並んだ何枚ものメモ用紙に視線を落としている。
見慣れた黒檀のデスクの上、広げられたメモはどれも事件の捜査にて判明した事実の資料だ。そこにはグレシアが実際に手に入れたものも、他の捜査員がグレシアの知らぬところで得たものもある。
その最たる例が、俺たちがまだ聴取に向かってない容疑者の供述の内容。そして、カートが向かったという娼館の女将の証言などだ。
「そうか? 俺にはまだ全然分かんねぇけど」
現時点で捜査線上に挙がった容疑者は計二人。
無論、アイシア・ルベランは抜くとして。
俺たちが実際に聞き込みをしたカート・ガルバート。そしてもう一人は第一発見者にして同じ会社の同僚、デイル・ノートックだ。
二人の供述を簡単に並べるとこう。
カート・ガルバートは、死亡推定時刻の始端である零時二十四分よりも前に、娼館に向かい家を出た。事実、今机上にある資料には娼館の女将が訪れるカートを目撃したとの供述もある。
娼館を訪れたのは二十三時五十三分。そして娼館を出たのが二時十五分だそう。これも、娼館の前で嬢に見送られるカートが目撃されている為、少なくともこの二時間二十二分の間にカートがここにいたという供述は、事実になる。
死亡推定時刻の間には、一時五十分に階下の住人が上階からの物音を聞いたという情報がある。この情報に基づくと、この時間に少なくとも犯人か容疑者、そのどちらかがいたという事実が浮かび上がってくる。
嬢と二人きりの空間の中、目を掻い潜り事件現場に向かうのは不可能だ。現時点の情報を整理すると、カートは殺害することが出来ない。
対するデイル・ノートックにはアリバイが一切無い。その日の夜は自宅で読書を楽しんでいたと供述しており、十分に犯行が可能な状況だ。ただ、デイルにはカートとは異なる唯一の要素がある。
それが、第一発見者だという事。
グレシア曰く、死体の発見は遅れれば遅れる程死亡推定時刻の割り出しが困難になる。つまり、死体を早期発見することは、犯人にとって大きなディスアドバンテージになるのだ。
デイルは何も上司に言われた訳でもなく、自分の意志でダン・シーカーの欠勤を不審に思い死体を発見している。
もしデイル・ノートックが犯人なのであれば、そのような愚行を犯すだろうか。
彼が凶刃を振るったのなら、死体が遅れて発見されても、風邪でも引いているのかと思った、と素知らぬ顔で生活を続けていればいいのだ。それだけに、第一発見者という心証はいい。
カート・ガルバートはアリバイが存在し、殺せない。デイル・ノートックは第一発見者になるメリットが無く、殺したとは思えない。
罪の天秤は平衡を保っている。これが現時点での、ダン・シーカー殺害事件の状況だ。
「お前は黙ってろ。グレシアさんが揃ったって言ったんだ。これで十分なんだよ」
「いや、ローラスの言う通りだよアリア。ある程度って言ったでしょ? まだ足りない。捜査は序盤も序盤さ」
髪の白い部分を弄りながら彼女はそうアリアを諫める。ただその言葉とは裏腹に、彼女は何かを知っているようだった。
俺は疑問をグレシアにぶつける。
「カートの所での俺への指示は何だったんだ? 何か分かったんだろ?」
「……いいよ。彼は恐らく脚を怪我しているね。だから歩かせたくて、君に指示したんだ」
「怪我? それが?」
確かに彼女の言う通り、カートの歩き方には違和感があった。それはディギタスも同じに思っていたようで、ソファーで煙草を吸いながら天井のシーリングファンを見ていたディギタスの視線が、グレシアの方に向く。
「あの事件のトリックは多分、窓に施されていた。つまり、犯人の逃走経路は窓だ」
「窓ですか? でも事件現場は八階の筈では……」
「そう。ローラスは超人的な身体能力を持っているからいいけど、普通はあの高さから飛び降りればどこか怪我をするものさ」
「怪我で済むか?」
ディギタスが口を挟む。
煙草の煙がシーリングファンで掻き回され、希薄して消えた。
「だけど、怪我で済む方法が一つだけある」
そう言うと、グレシアは俺に微笑みかける。
「知っている筈だよ? 君もそうしたじゃないか」
彼女の言葉に、俺は記憶を再度脳を巡らせる。
グレシアの言葉から考えるに、過去の自分の行動を思い出せという事なのだろう。彼女を背に抱え、飛び降りたあの時の事だ。
雨樋に捕まって滑るようにして壁を降りて、そして最後には――――。
「ゴミ捨て場か……!」
「正解。君は私の助手が向いてるね。あそこならクッションにはなるだろうし、犯人は犯行を終えると窓からゴミ捨て場へ向かい飛び込んで逃走、って算段だろうね」
「じゃあそのカートとやらが犯人なのでは?」
「しかし残念。
「……その女を俺も抱く」
「ちょっと! グレシアさんの前ですよ!!」
「妙案だね。私のことも抱くかい?」
「グレシアさん!?」
「勘弁してくれ……お前分かってて言ってるだろ」
「おやおや! 幼き日の私をお風呂に入れてくれたラナトシド氏は何処へやら! 今はこんなにも冷たくなってしまった! 私は悲しいよ! まぁ確かに、この私が一夜の相手では役不足だね。どうやら婚姻を結ぶ必要があるようだ」
「ディギタスさん……!!!」
「あんまりアリアで遊ぶなよレア。そのオモチャは俺の命の保証が無いんだ」
犯人がゴミ捨て場に飛び降りれば致命傷は避けることが出来ると知っていたのなら、人目に付くかも知れない玄関では無く窓を選ぶ理由も分かる。
天秤がカート・ガルバートに傾いた。つまり彼は、飛び降りて脚を怪我した可能性がある。だが彼にはアリバイもある訳で。
「んー……」
悩ましい。娼館でのアリバイを立証するには、相手をした娼婦と娼館の女将、二人の人間と共に謀略を巡らせる必要がある。
つまりカートが犯人だった場合、共犯含め犯人は最低でも三人だ。しかし当然、この三人に関わり合いは一切無い。
順当に考えると、犯人はデイル・ノートックだろうか。彼は心証がいいというだけであり、アリバイが一切無い。カートと異なり犯行は可能なのだ。
推理に夢中になっていると、いつの間にかグレシアの熱い視線が向けられていることに気付く。頬杖を突き、心底楽しそうな表情で彼女は軽く首を傾け、思案に耽る俺の事をじっと眺めている。
「……なんだよ」
「いや? 君も推理が板に付いてきたな、とね。楽しいだろう、真理を追究することは。君はやっぱり、探偵に向いているよ」
「俺の目的を達するまでな。で、これからどうすんだ?」
彼女には既に、俺には別の目的があることを悟られている。別にいいだろう。
それより問題はこれからだ。グレシア風に言うなら、現時点で揃った材料の下ごしらえは終わったと言える。ただ料理として仕上げるには再び材料が無い。再度待ち、の盤面に見える。
彼女は少し考える素振りを見せると、突発的に思い付いたことを書き留めるように紙片にペンを走らせ、書き終えると何かを包んで折り畳み、ディギタスに視線と声を投げる。
「ディグ、気になる事がある。調べて来てくれ」
「あいよ」
「さて、どうすると言ったね。君には勿論、私と共に来てもらうよ?」
それは分かっている。その行先を教えてくれと言っているのだ。その考えが表情に出ていたか、彼女はにやりと微笑み脚を組む。
そして一口喉を潤すと、紅茶の香を纏いながら彼女はそう告げた。
「情欲の溜まり場、色街さ」
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