2・脳喰い
「馴染みの店がある。なに、歩いて十分程度だよ」
先行する彼女は、コツコツと石畳を鳴らしながら歩いている。
クインテッドの街は昼を過ぎてしばらく。最も活気の時間帯から少し過ぎても、その隆盛は衰えない。
ごぉと、地鳴りがしたかと思えば、遠くに見える鉄橋の上を黒鉄の蛇が這っている。黒煙を噴き上げる様はまるで火山のようで、街道を往く人の視線を恣にした。
両手にビールのジョッキを抱えた女性が、笑顔で接客をしている。計幾つにもなるのだろうか。あれを一度に持つのは膂力だけでなく、ある程度の慣れと技術を要するだろう。
向こうでは大道芸人が手品を披露している。帽子を足元に置いて恭しく彼が一礼すると、拍手と歓声、それに小銭が飛び交った。
「大通りを歩いたのは初めてかな?」
グレシアの声で我に返る。キョロキョロと忙しなく街を眺めているのを見られたのだろう。
確かに、ここまで堂々と大通りを歩いたのは初めてだ。
孤児は、親と言う唯一無二の存在から見放された不幸な存在と言うだけでは無い。その不幸を格下として、笑う者もこの世界には存在するのだ。
大通りに出れば、そういう者の不快な視線を耐えながら歩く必要があるだろう。それに耐えられるほど、俺は強い人間ではなかった。
「今度、機会があったら街を案内するよ。うちを抜けた後でも、暮らすならここは何かと都合がいいからね、役に立つと思うよ」
クインテッドはブレタニア王国の首都。モノも、人も、無論金も集まる。そしてそれは良いものばかりではない。ブレタニア最高の私立探偵に挑戦を挑むかのように、殺人も、犯罪者も、この街に流れ着くのだ。
この国でここより暮らしやすい都市は、多く見積もっても片手で足りる程だろう。と、自信満々に言うのはグレシアだ。
「あ、氷菓子。ちょっと買ってくるね」
恍惚の表情で棒付きの氷菓子を咥えるグレシアと共に街道を歩きしばらく。彼女が一瞬立ち止まり周囲を見渡すと、通りを逸れ路地裏へと足を運ぶ。
暗い路地だ。俺が浮浪者として暮らしていた場所とよく似ている。少し意識を嗅覚に向ければ、生ゴミと痰や小便、野良猫の死体の腐乱臭が混じった独特な、しかし嗅ぎ慣れた臭いが鼻腔を突いた。
違和感が募る。買い物に行くための道にしては、あまりにも陰気が過ぎる。
「食材買いに行くんじゃねぇのか?」
「……近道さ」
ぴんと、グレシアは氷菓子のゴミをゴミ箱へ弾き飛ばすと、ずんずんと奥に進んでいく。光景も、騒がしさも、何もかも。奥に進んでいくにつれ、大通りの明るさが遠のいていく。
まるで、ゆっくりと眠りに落ちていくようだ。現実にはこれから入り込んでいくのは、クインテッドの闇である。
道の隅に散乱する残飯。林檎の芯、野菜の蔕を始めとした生ゴミは勿論のこと。痩せ細った野良犬の死骸に、毛布に包まる浮浪者。極めつけは、悪臭を放つ人糞。
骨の形が浮き上がっているほどに貧相な身体付きをした彼は、上等な服を身に纏い、有象無象とは明らかに一線を画すオーラを放つグレシアを、恨めしそうに睨んでいる。
「あだっ……」
何度か角を曲がった先で、先行する探偵にぶつかる。文句を言おうと顔を上げると、路地裏に似合わない異質な色に視線を奪われた。
白いローブを被った、女だった。
相当上質な布だろう。高く狭い壁に阻まれたこの場所でも、僅かな光を捉えて反射しているお陰で、より一層白く見えるのだ。艶もよく、汚れも無い。貴族御用達の逸品だと紹介されても、何も違和感はないだろう。
ローブの下は珍しくもない極めて一般的な服装。服の意匠や、構造。そして胸部の豊かな膨らみにより、その二人が女であることが分かった。
顔はフードに隠れていて僅かしか見えない。その上、フードには何やら見覚えのある紋章がある。
端的に説明するならばそれは、巨大な人間が、小さな人間たちに何かを与えている姿を模した、絵。
「こんにちは。いい日だね」
ローブの女の手が動く。覗く銀色は、ローブのものとは明らかに違う。金属の輝きを放っている。
「グレシア」
「分かってる。……こんな日は、ピクニックでもしたい気分だ。そうだろう?」
銀色が空中を滑る。
鋭利なナイフ。確実に人体に傷をつけることができる、視覚化した殺意。
それはまるで釣り糸を巻き上げるかのように、真っすぐにグレシアの首へと、当たるはずだった。
「おや、危ないね」
きんっと、ナイフが石畳に落ちる。それは彼女が、自分に当たる筈だったナイフをまるで、知っていたかのように首を傾げ避けたからだ。
瞳が極彩色に輝いている。
ディギタスより聞いていた。だが、実際に目にしたのは初めてだ。
グレシアの異能は、残留思念を知覚化できるという至極単純なもの。どれだけ行使しても、それによって齎されるのは過去の情報だけ。
しかしグレシアは、足跡辿りにより齎される膨大な数の情報を瞬時に分析し、その情報に基づいた人格を脳内に作り出す。そうして次に相手が起こす行動を的確に予測することによって、まるで未来視のような能力に昇華させていると。
これが彼女の異能の、『
「それよりローラス、仕事だよ」
グレシアを助ける義理はないが、今殺されても俺の目的は果たせない。今は彼女の言う通り、雇い主の身を守るしかないようだ。
聞こえないように舌打ちをしながら、俺は襲撃者を見据える。
ナイフを避けられたことで、既に襲撃者は得物を手に取っている。
どちらも、先程投げられたナイフより一回り大きなもの。それを両手に、二人はこちらとの間合いを維持していた。
毒は塗られていない様子だが、こちらは戦力外を連れている。あまり、悠長に構えている余裕は無いか。
沈黙と緊迫が同時に過ぎていく。このままこの時間が続けばいい。時間が経って有利になるのはこちらの方だ。
こちらは武器も無く、少女が一人。対する相手は大人の女と、少なくとも人を傷付けることを想定した得物。もしこの路地裏に通行人が通った時、社会の敵と認定されるのは俺とグレシアではない。
ただそれは、向こうも承知の事実。
二人が目配せし、同時に駆ける。少年一人相手ならば、二人掛かりで来れば確実だとでも思ったのだろう。
どちらも順手にナイフを持ち、大きく振り上げている。
構えも大雑把だ。予備動作丸出しでこちらを殺せると、本気で思っているらしい。素人の俺でも分かる素人。
ナイフ投げの腕前は中々だが、アリアのような人殺しのプロでもないようだ。
舐められている。癪だが。
「好都合だな」
左足を一歩、前に大きく踏み込む。
石畳に異音が響き、罅が迸る。ただそれだけでは衝撃を殺し切る事は出来ず、幾つかの大きな破片が空中に浮かび上がった。
同時を掌低を突き出し、その破片の一つを前に飛ばす。
踏み込みと、腰の捻りまで加えた掌低が弱い訳もない。衝撃に耐えきれない破片は更に、幾つかの破片へ砕け散る。そして、掌低により加えられた運動エネルギーにより左の女の顔目掛けて飛翔する。
「うっ」
左の女の脚が止まる。顔への被弾を恐れて、彼女は顔の前で腕を交差させた。
相手は素人。アリアに比べれば楽なことこの上ないが、一対一にしてしまえばさらにだ。
右の女の脚は止まらない。当然だ、彼女には何もしていない。そして、あれこれする気も無い。
一撃だ。
大きく力任せに振り下ろされるナイフ、無駄な力と動きを省いて振り抜かれる蹴撃。腕と、脚。どちらが長いかは、明白だ。
◆~~~~~◆
「ふぅ」
大きく息を吐くローラスを前に、私は髪を弄っていた。
こちらが脳喰らいの事件に手を出したことから、刺客が来ることは予測していた。それが、それ程日を跨がずに来るという事も。
案の定、大通りに出た瞬間に独特の視線を感じたことを察知した。日常を生きる上で、殺意の籠った視線ほど分かりやすいものはない。
ローラスの身体能力が他の追随を許さぬ圧倒的なものだということは、彼が初めて目覚めた時から理解していた。あの、アリアと渡り合ったのだから。
だがまだローラスの能力に対する情報は少ない。いい機会だと思い、刺客が手を出しやすい場所まで誘ったのはいいが――――。
「随分穏やかじゃない客だったね」
「そうか? 素人だぞこいつら」
「それもそうだね」
鬼神。まさに、武の権化。
親の関係で、私には武術にある程度の心得がある。体力の無さ故に高みへ昇ることは叶わなかったが、それでも眼は肥えているつもりだった。だからこそ、私には分かる。彼は完全な素人だ。
ローラスの動きには一切の技術が見えない。武術の欠片も無い、最大限に自身の身体能力を駆使しているだけに過ぎない、まさに獣の戦い方だ。
だからこそ恐ろしい。アリア・シャルルと、渡り合ったという事実が。
彼女の強みは、血の滲むような自己研鑽により積み上げられた技量である。剣を扱う者で、彼女を知らぬ者は存在しない。若くして達人と呼ばれるのに相応しい練度まで昇り詰めた彼女を、誰もが畏れ、誰もが憧れている故に。
その彼女に、身体能力だけで渡り合ったという。視覚と聴覚、本能的な感覚に頼った攻撃のみで、彼女と互角に。
「ふふふ……いやぁ、恐ろしいね」
卓越した鬼才の持ち主、名も無き少年。彼ほどの人物が何故、名も知れぬ孤児として収まっていたのか。
戦いと、殺しに慣れていることから、彼がそのような行為を一切の躊躇い無く行うことが出来る人物とは分かる。その上、あれ程の能力があるならば多対一であっても恐れを抱くことはないだろう。
思考を回転させる。
孤児や浮浪者を甚振ることを悦びとしている貴族は多い。ただ彼の性格を考えれば瞬時に反撃するだろう。そしてそうなれば、彼は貴族の私兵を全滅させることが出来る筈。
だが、ここ最近で貴族が孤児相手に惨殺されたという話は聞かない。あり得るとすれば、運良く貴族に見つかることなく過ごせていたという所だろうが、私にはそれを否定できる別の根拠を持っている。故に、それも無いだろう。
となれば、彼ほどの実力者が何故表舞台に出てこなかったのか。考えられるのは、何かしら表舞台に出れない組織に属していた、等。
「ふふ……」
「何笑ってんだ気持ち悪ぃ」
「ごめんごめん……。いやぁ――――」
引き取ったのは、事件の生きた鍵ではあった。しかしどうやら同時に、猛獣でもあったらしい。それも、何者かの手綱が付いたままの怪物だ。
目的も知れない。恐らくは、事務所で仲良しごっこをする気も無いだろうし、何か裏があると考えるのが妥当だ。
私が絡まった糸を全て解くのが先か、私が新たな飼い犬を得るのが先か。はたまた、この奔獣が私の腸を喰い破るのが先なのか。
「面白いことになったなって、楽しくなってきてね」
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