1・脳喰い
「脳喰い?」
随分と物騒な言葉だ。まるで、言うことを聞かない子供を脅す時に大人が話す、空想上の怨霊のような。
聞き慣れない言葉を復唱する俺に、グレシアはゆっくりと向き直る。俺の顔を捉える彼女の瞳は、いつも通りの優しいものに戻っていた。
「ここ十数年に渡って、この街を騒がせている連続殺人鬼さ。いくつかの手口を用いて、頭蓋を開き、脳を掻き回すことで被害者を殺す。着いた渾名が、脳喰らい」
件の犯人が起こした事件はここ十数年で二十回以上にも上るが、いずれの事件も犯人に関する有力な証拠が得られることはなかった。
まるで全ての事件を別人が起こしたかのように、犯行の手口が異なるというのも、その一因だろう。
世間では、本物の脳喰らい初回のみであり、その後の犯行は全て模倣犯なのではないかという声もある、とグレシアはその場で語った後、即座に否定した。
模倣犯という素人では、証拠を一切残していない点が説明できない。つまり脳喰らいは今も尚、犯行を愉しんでいる筈だ、と。
「…………」
不思議な感覚が顔を覗かせる。まるで、見知った友人の名を聞いたような。
脳喰らいという言葉に、無論聞き覚えがあるわけではない。ただ、似たような話に、どこか聞き覚えがあるような。
そう考えてハッとする。
「それは……怖いな」
「そうだろうそうだろう。私も長らく追っているんだけどね、中々に追われるのが上手い」
「確定なんですか?」
「ほぼ、だね。あの屋敷の徹底的な証拠隠滅、残虐な実験を行う地下室。そして、道中の異能持ち襲撃者。薄々は勘付いていたんだが、これで確信に変わった」
『グレシア・ユーフォルビアの脳を』。そう、あの女は夢の中で俺に言った。あれは決して幻ではない。俺の身体が、あの場面を体験してきたと語っている。
とすれば、脳を求める女と、脳を掻き回す脳喰らい。果たして、無関係とは呼べるのだろうか。
「遂に私に手を出してきたなあの売女……」
誰にも聞こえないような声量でグレシアが零す。だが、俺には確かに聞こえた。
普段のイメージからは一切結びつかない、汚い言葉と憎悪に満ちた口調。やはりあの女とグレシアには、何か只ならぬ因縁があるのだろうか。
「とりあえず、私の受け持つ事件が終わるまで待機だ。アリア、君は傷を癒やしなさい」
「……面目無いです」
「気にしてないよ。ディグは仕事に戻れ。新しい情報が入った時、ディグなら私がどこにいるか分かるだろう?」
「へいへい」
ディギタスが煙草を吹かしながら去っていく。アリアは、右腕を使わず不便そうに茶を沸かしにキッチンへ向かった。
残されたグレシアが、顎に手を当てながら思案に耽っている。
「君の活躍のお陰で、密室のトリックについては大体分かった」
「おぉ、あれで分かんのか。口だけじゃねぇんだな」
俺が彼女に伝えた情報なんて、大したものではない。
八階の例の部屋は、窓の鍵は煤がついたような黒い色だった。対して六階の空き部屋の鍵は綺麗な銀色だった。という、それだけの情報。
「見直したかい? ここで正式に働いても――――」
「それはナイ。で? こっからどうすんだよ」
俺の質問に答えることなく、グレシアはぼうっと俺の瞳を覗き込んでいる。と思えば、遅れてクスリと笑みを零す。
不意な笑顔に、俺は思わず目を逸らしてしまった。
「最初はあんなに嫌そうだったのに。楽しくなってきたかい?」
「……まぁな」
これは、グレシアという正解があるからこその感情だろう。
ただ俺は、それを否定することはできなかった。真実を覓める行為が、これ程までに心を躍らせるとは。
「いいね。君はどうやらこの世界に、理想的な入り方をしたようだ。羨ましいよ」
含みのある言い方に、好奇心が募る。
先程までとは一切変わらない微笑み。だが、その瞳は俺ではないどこか遠くへ向けられているように見える。
今の言葉を聞いたすぐの俺にはその様子が、まるで誰にも拭い切れない程の濃い闇を抱えていかのように、思えてならない。
「あぁごめんね。で、この次だが、容疑者を洗う必要がある」
グレシアが割り出した密室殺人のトリック。だがそれも、実行出来る犯人がいなければ意味が無い。
理論的に可能なトリックでも、実行犯が物理的に存在し得ないのならそれは真実ではない。推理も振り出しに戻る。
「ただまだ、事件発生から一日しか経ってない。警察が容疑者に接触するのに、上手く進んでも今日だろうさ。おまけに検死解剖も進んでない」
「つまり?」
「待ち、の盤面さ。今出来ることは全てやったと言える」
「へェ……そうか」
ソファーにごろんと寝転ぶと、ようやくアリアがキッチンより戻った。
俺も含め、紅茶を人数分と、いくつかの茶菓子を用意すると、彼女は俺の向かいのソファーに、肘掛けを枕のようにして俺と同じように寝る。
「聞いてましたよ、どうするんですか?」
「まぁ焦ることはないさ。とりあえず、今日の夕食の用意をしよう。ローラスに好きなものを作ってやると約束してしまってね」
「買い出しですか。なら私が」
「おや、さっきの私の言葉を聞いてなかったらしいね」
「じゃあ荷物は……まさか」
アリアの視線が俺に向く。二人が会話しているうちに、恐る恐る紅茶に出そうとしていた手を、咄嗟に引っ込める。
「……なんだよ」
「そういうこと。ローラス、出るよ」
「は!? どういうことだよ! 自分で持てよそれくらい!」
「おい下種」
脅し立てるような低い声と同時に、刃が鞘の内部を擦れる音がゆっくりと事務所内に響く。左手でも剣は存分に振れる、とでも言わんばかりに。
「お前、グレシアさんに無理させたらしいな……」
「そ、それはこいつが四の五の言うか――――」
「あ?」
「……あーわあったよ! 持てばいいんだろ荷物をよ!」
という訳で俺はグレシアの荷物持ちとして外に出た訳だが、流石にこの状況は予想できなかった。
じりと、間合いを詰める白い影。
俺はそれを警戒しつつ、俺の影に隠れるようにしているグレシアに視線をやった。
暗い路地裏で白いフードを被った線の細い女二人が、俺たちに対しナイフを向けているのだから。
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