2・軌跡
不可視の触手は不規則にうねりを見せる。
首を回すように捩じり、起き上がるようにもたげ、血液によるぬらぬらとした質感も手伝い、その様子はまるで蛸や烏賊の様子に近い。
「アリア! 大丈夫か!?」
視線を触手から動かす事無く、ディギタスが叫ぶ。対するアリアは、苦悶の表情を浮かべながらも剣を持ち直した。
「……感覚は残ってます。まだ振れますが、全力で振れるのは出来て数回ですね」
アリア・シャルルの利き腕は不幸なことに右腕だ。左で振る訓練も欠かしていないが、全身全霊。本調子の剣を放つには右だろう。そして今、彼女の右腕には千切れるまでの回数制限がある。
ディギタスは意識の一割を、屋敷の方向に向ける。
窓から見えた女性の姿は、気付けば泡沫のように消え去っていた。
「これ程の戦闘音を立てて屋敷側から援軍が来ない! この意味分かるな!?」
アリアが頷く。
それは、現時点での状況で実力が測れない相手との交戦は避け、今すぐに撤退をすべきという事。
屋敷の令嬢は二人の意識を割かせる為の囮。つまり、屋敷の方向に逃げれば挟撃は無い。入り組んだ路地裏を不規則に進めば、触手を撒くことは容易いだろう。
人のいないこの場所で漸く襲撃に至ったという事は、人目の付く場所に出ればそのまま追跡を止める可能性も高い。
ただ最もグレシアに貢献する選択肢は、眼前の敵を斃し情報を勝ち取る事だ。
同時に、触手が一際激しく身震いした――――。
「跳んでッ!」
警告は脚部を示した。
薙ぎ払うような触手の攻撃を、二人は跳躍にて回避する。
直後、邪魔になると判断したディギタスは大きく後ろへ。アリアは、眼前の敵を穿つため、空中で身体を捩り前へ。
着地、そして一拍後には石畳に亀裂が入る程の踏み込みで、滑るように路地を駆ける。
「っ」
頭部への攻撃を予知。同時に視界は、レンガ造りの家屋の壁を剥がし、レンガをアリアの方向に的確に弾き飛ばす触手の姿。
完全な同時でなければ、予測は容易い。
剣でレンガを受けるのは分が悪い。そう判断し、足首を捻り空を駆ける稲妻のようにジグザグと進んでいく。
触手そのものの形状は、まるで吸盤の無いイカやタコのようなものだ。それ自体に、脳や心臓などの臓器があるとは、到底思えない形状をしている。
だがレンガを投擲出来るという事は、物を掴み、狙いを定め物を投げることが出来る程の知性があるという事。
つまりあの触手は、ただ単に暴れ回る代物ではない。明確に、アリア達二人の命を狙い襲撃を行ったのだ。
「いちっ、にぃ、さんよんっ……! どうやら、テニスの才能があるみたいです……ねっ!」
次々に投擲されるレンガを躱しながら、アリアが軽口を叩く。
そもそも、生物なのか。
産業革命から少し、この王国には目新しいもので溢れている。
支配した地域の動植物や、現地住民の食べ物。異文化の食器や武具など、見たことが無いという言葉はこの五十年で一気に言葉の重みを失った。
一つの生命だとすれば、飼い慣らされているという事になる。しかしそうでないのならば、何者かの異能の可能性が高い。
果たして二人の眼前の触手は、一体。
当たらないと判断したのか、投擲の頻度が減る。そして増えるのは、シンプルだからこそ厄介な攻撃へ。
あまり狙いを定めないレンガの投擲を剣の腹で軌道を逸らし、ほぼ同タイミングで右脚を狙い薙ぎ払われる触手を斬り飛ばし、頭を狙い突かれた触手を半身で躱す。
再び投擲。しかし、着弾の直前に触手自ら軌道を逸らし、アリアの思考のリソースを削り取る。
軌道計算に気を取られたアリアは、薙がれる触手に直前まで気付かない。
「いッ……!!」
寸前に剣を間に滑り込ませ防御はしたものの、エネルギーを殺しきれない。
大きくその矮躯が宙を舞うも、卓越した空中での姿勢制御を披露し、レンガの壁を何度か蹴ることで地面に舞い戻った。
再び距離が離れる。アリアが自身の前に、再び剣を構え直す。
一つ一つの攻撃は単調で、フェイントも少ない。狙いも人間の急所である頭や胸、頸や腹に集中しているという訳でも無く、身体そのものに狙いを付けているといった印象を抱く。
まるで、小狡い知恵を付ける前の子供のような。
「ッ……」
空を蹴り、金髪が舞う。
レンガ造りの壁を走りながら、標的を発見した猪のように矮躯が猛進していく。
それを包み込むように、数本の触手で一つの顎を形作り、不可視だった襲撃者は彼女の事を迎え撃つ。
まるで、死に向かうような蛮行。しかし、彼女には確信があった。
『似てるね。私と、君』
いつの日か、少女に言われた言葉をアリアは思い出していた。
かたや、学者でも唸るような難解な数式を数秒で解き明かし、生まれ持った異能で人々の役に立つ人気者。
その上美貌は並の女優を軽く凌ぎ、咳をしている様すらも劇の一部のようだ。所作の全ては気品に溢れ、言葉はまるで極上の音色のように耳を魅了する。
かたや、死刑執行人の家系に生まれた女。普通の少女として生きるにはその家紋は血腥く、処刑人として生きるには、性別が適していない。
多言語も、数学も、物理学も上手く使いこなす事は出来なかった。何も無い。だからこそ、ただ愚直に剣を振り続けることに逃げた負け犬。
『嫌味ですか?』
『まさか。本心からさ』
『……』
ふわりと宙を浮く感覚が身を包む中で、唯一彼女の眼球だけが忙しい動きをしていた。一本、二本、三本四本と触手の先端の動きを捉え、同時に空間に生じた隙間を探す。
撃ち落とすように投擲されたレンガを足場に、彼女は更に跳ぶ。
『私は経験で、心理で、知識で、数学で』
触手が数本、同時に彼女の急所を狙う。まるで、アリアの攻撃から学習しているようだ。助走を付けるように一度距離を離し、ばねのように彼女の心臓を、腹部を、頭部を。
『君は視覚で、聴覚で、嗅覚で、触覚で、順路を組み立て懐に飛び込む』
身体の前で防御の為に斜めに構えられた剣が、最小の動きで触手の攻撃を弾いていく。
同時に空中で身体を捩ることで、攻撃の合間に生じた隙間に飛び込む。
ただ一本急旋回し彼女の背を追う触手も、少し遠くから響いた銃声と同時に発射された弾丸により、軌道を大きく変えられた。
不可視の襲撃者の懐に、音も無く少女が着地した。
まるで繭のように、太い触手の根元が絡み付いている。これが急所であるという事は、最早間違いは無い。そんな全ての触手の根元。
ただ、着地と同時に動くことが出来る生物は、この世界に存在しない。
陸上に生活する生物はどのような高さより落下した際であっても、着地の衝撃を受け流す時間が必要なのだ。
ほんの数秒。日常生活で意識することは無いような、ほんの少しの硬直時間。しかし一秒を争う戦闘の最中となれば、生死を分ける大きな要因になり得る。
全ての触手が旋回する。
それを空気の揺らぎで感じながらも、それらにアリアが対応することは無い。
何故なら、襲撃者にとって最もの急所が、今眼前にあるのだから。
『私は論理――――』
「私は刃で――――」
剣を返し、左の腰元に据える。鋭さの無いその切っ先は襲撃者と真逆。ただ殺意は、真っ直ぐ前を見据えて。
グッと、踏み込みと共に彼女の身体が沈み込む。
石畳が、割れた。
次の瞬間、全ての触手の動きが静止した。
彼らの視界から、もしくは探知能力から、彼女の姿そのものが消えたのだから。
ただ彼らが困惑している間にも、鋼鉄の軌跡は達していた。
武術の極致に達すると、達人たちはある結論に達する。得る物を全て得た彼らが、直面する問題。それは、何を削り更なる高みへ上るか。
結果彼らは、力を漲らせることを廃した。
膝を抜き、重力に任せ倒れるように姿勢を落とすことで、眼前の相手の視界から消える。それにより、致死の一撃を敵へ届かせるのだ。
考えてみれば当然の話だ。矮小な人間が迸らせる力よりも、星が我らを引き寄せる力の方が強いという事は。
『――――眼前の敵を討つ』
「――――眼前の敵を討つ」
剣を振り抜いた体勢のまま、軽く剣を振るう。こびり付いた血糊が、壁に真紅の直線を作った。
遅れて鮮血の噴水が噴き上がる。
操り糸が切れたように、触手の全てがゆっくりと大地に寝転んだ。数秒掛け、氷菓子が溶けるようにゆっくりと溶けて消えていく。
大きく息を吐き、アリアは剣を鞘に納め、立ち上がる。同時に腕の痛みを思い出し、苦悶の表情と共に右腕を押さえる。
「アリア、とりあえずこれ使え」
「助かります」
駆け寄りながら投げ渡されたネクタイを損傷部分に巻き付け、ほっと一息を零す。
ディギタスは一つの汚れも無いレイピアを仕舞いつつ少し屈み、彼女の右隣で負傷した細い腕を自身の肩にかける。
「ったく、意図は伝わってたよな? 交戦は極力避けろって言われてたろ……」
「すみません。情報収集を一番優先すべきと思ったので」
「結果倒せたからいいけど……ってぇ、もう何も言わん! 流石だアリア! よくやった!」
「……っ、別にディギタスさんに褒められても嬉しくないです」
右手で自身の頬を叩いたディギタスを、アリアはネクタイを腕に巻きながら冷たい視線で捉えていた。
「可愛くねぇヤツ。で、どう報告すんの、これ」
ぽりぽりと頭を搔きながら、ディギタスが目線を下に移した。釣られるように、アリアも同じ場所に視線を浴びせる。
それは、倒した襲撃者の根元の部分。繭のように絡まっていた触手により秘匿されていた、急所の内部。
「見覚えあるんだよなぁ……この子の顔」
「……よくこの状態で分かりますね」
「まぁ口とか、歯の形とかな」
ディギタスはポケットから取り出したロケットペンダントを開き、中の写真と地面に転がる襲撃者の屍を何度も見比べていた。
何回かそうしている内に結論に達したのか、逡巡し言い辛そうに重々しく口を開く。
「あー……だよなこれ。……気ぃ悪くすんなよ?」
「これを見た後じゃ結局変わりませんよ。それに私は慣れてます。で?」
「……」
肌は老いを知らない白さで、艶の強い焦げ茶色の髪の毛を後頭部で二つにまとめた所謂ツインテール。
水色のワンピースには水玉模様が描かれ、靴の大きさはアリアの半分程しかない。
手の大きさは赤子か大人という極端な区別をすれば、赤子の部類に入るだろう。脚も短く、身体には性を示す象徴がまだ表れていない。それ程までに、成長過程の肉体。
「エマ・エバンズで間違いない。ウェンブリーの幽鬼騒ぎの、被害者だよ」
そこには膝を折り、背を海老のように曲げた体制で且つ、脳を見せつけるように頭蓋が開かれた少女の遺体が、腹部を両断され横たわっていたのだ。
「……そうですか」
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