1・事件現場
ありふれた、リビングの風景。クリーム色のソファーに、木材のテーブル。同じ色、材質の椅子が計二つあることから、この家の主人は一人暮らしだったとしても頻繁に招待客がいたことがわかる。
絨毯は灰色のもの。壁掛けの時計は今も尚正確に時間を刻み、カーテンの隙間から入る光は警察だらけのこの部屋を照らしていた。
リビング中央、絨毯の上。こびりついた血痕の海の沖に鎮座するのは、この家の主人の殻り果てた姿。を模った、白いチョークの線。
正確な位置はリビングの中央より少し、玄関側へ寄っている。壁を隔てて玄関の左側にあるキッチンの方向に頭は向き、脚は部屋右奥の角へ。左手は無意識に受け身を取った時の状況に近く、頭の隣に投げ出している。
対して、右腕の肘から下は存在しない。元から無い人間なのか、それとも事件の際に切り取られてしまったのかは、死体自体を見ているわけではないので分からない。
チョークで模った人型で得られる情報は乏しい。だがこれだけでも、この人物が自らの意思でこの場所に身体を投げ出したことではないという事が理解できる。
何者かの手により、生命活動を停止したのだ、と。
「ローラス、事件の概要についてどの程度の認識をしているか教えてくれるかい?」
「……ここが密室で、コイツが殺されたんだろ?」
「正解。じゃあそこまで補足は要らないね」
手袋を直し、グレシアの捜査が始まる。
「大事なのはこの状況。窓、扉どちらも施錠された状態で殺害された彼。その上、遺体は右腕の大部分を欠損している! ってことだ。こう死にたくはないものだよ」
「……これより酷いかもしれねェぞ」
「その時は、次期ヴェリタス探偵事務所のエースにお願いしようかな? なんてね」
クインテッド市内の記者として活動する男が、アクアロー通りの自宅にて何者かの手によって殺害された。
名はダン・シーカー。二十四歳未婚で、両親は他界。四歳下の妹ミア・シーカーは現在、クインテッド外の都市にて、全寮制の大学の学生として勉学に励んでいるそうだ。
事件は今から一日前の十一月二十四日に始まった。
二十四日昼頃。同僚のデイル・ノートックがシーカーの不在を知る。その後、彼が連絡も無しに欠勤していることを怪訝に思ったノートックが、昼休憩の時間を利用しシーカー邸を訪問。それが、同日十三時五分程の出来事。
鍵が開かないことを確認し、管理人に状況を説明。その後、合い鍵と共に部屋に侵入し、リビングに血だまりを作り倒れているダン・シーカーを発見。これが、一度目の訪問より十五分程後の出来事。
その後、駆け付けた警察により死亡が確認され、殺人事件として捜査が開始された。
ヘデラを始めとする捜査官が殺人現場に規制線を敷き、彼女等は驚愕する。
扉は発見時施錠済み。そして窓の錠は内側から下りており、他の侵入経路は一切無い。つまるところ現場は、密室だったという事が分かったのだから。
「凶器は?」
「ありません」
「容疑者は?」
ルーペを手に床を這いずり回るグレシアに、ヘデラは部下から資料を受け取りながら答える。
上背の関係で彼女が見ているところを覗き込む事は出来ないが、裏面にもびっしりと癖の強い文字が走り書きされていた。
「現時点では三人。現在のガールフレンドのアイシア・ルベラン。最近は冷め気味だったようですね。大学時代の友人のカート・ガルバートもシーカーから約
「動機は十分だね」
「そんな小さな理由で人殺すか? 普通、恋人とかよォ」
「おやおや、起き抜けに私を殺そうとした人が何を言うか」
「おま……マジ喋る程腹立つな」
探偵は俺をからかってか満足そうな表情で、ルーペを仕舞い手招いてヘデラを呼ぶ。
「あらかた視たよ」
「どうですか?」
「何も。君たちが今得てる情報と大差無いよ。ただ……――――」
そう告げる彼女は、まずキッチンを指差した。
掃除が楽になるように石を用いて作られているようだ。山積みにされた種類ごとのいくつかの皿と、三本の包丁が包丁置きに丁重に仕舞われていた。
「キッチンに頻繁に出入りしている人間がいる。足跡の骨格、歩幅的に女が二人と男が一人。男はシーカーだとして一般的な身長、
「まるで私が女しては目立つ、みたいな言い方ですね」
「世間から見たら実際そうだろ。……高身長の方は頻繁にあるけど、普通の身長の方は最近に一度だけだね。察するに、恋人と妹って感じじゃないかな。シーカーの足跡は少ないし、キッチンに物が少ない。調理器具もだし、調味料も最低限だ。自炊はしないタイプだろうね」
赤髪の警察官がポケットから取り出したメモ帳につらつらとペンを走らせる。
「助かります」
「あと、細かい点がいくつかって感じ。ただね、遺体付近は悪いが正確に判別できない」
眉を顰め、彼女は遺体を表したチョークの粉を睨み付ける。
「もっと早く呼ぶべきだったねぇ、それも初日に。捜査員の足跡が多過ぎる。重なりが多過ぎて正確に判別できない。
「申し訳無いです。私とディギタス先輩、後この場にいる大多数はグレシアの捜査協力には好意的です。ですがやはり……」
「分かってる。グリーンヒルだろ? あの堅物はいつも私に厳しい。誉れ高き警察隊が取り仕切る崇高な犯行現場を、齢十四の美少女が踏み荒らすのが余程気に入らないらしい。結果は出しているんだけどね」
嫌味っぽく告げると、彼女の瞳は元の碧眼に戻っていた。そこでようやく、今まで彼女の瞳が虹色に染まっていたことに気付く。
髪が抜け現場に場違いな毛髪が残ってしまうからか、髪を弄ることはしない。その為、彼女の右手は空中で寂しそうにしていた。
「他の部屋を見ても?」
「構いません」
「俺は?」
「ついておいで」
呼ばれるがままに部屋を移動し、隣の寝室へ。
部屋に入って正面には、高い位置の窓と白いシーツに青い羽毛布団が掛かったベッド。カーテンは遮光性が高い、厚さのあるベージュのもの。
部屋に物と言えるようなものは少なく。ベッド脇に唯一ある小さな栗色のキャビネット上には、男女が映った写真と、数えるのも億劫な程の大量の新聞記事が束ねられている。
「あまり物を持たない主義だったようだね」
「被害者は記者をしていたそうです」
「どおりで」
キャビネットの上の写真を覗き込む。
「彼女は?」
「例の、アイシア・ルベランですよ」
「へぇ、彼女が」
次にベッドに乗り上げ、窓を確認する。
グレシアと、俺が映っている。今俺は元々着ていた服ではなく、彼女に用意された服を着ている。
グレシアのものと同じようなワイシャツに、紺色のパンツ。これは邪魔だったので、膝まで捲り上げている。そしてそれを持ち上げるのが、キャラメル色のサスペンダーだ。慣れない感覚で、どこか動きにくいながらも楽しさもある。
グレシアの手招きを受け、俺も彼女の隣に並ぶような形で窓を、正確には窓の錠を覗き込んだ。
「随分と縮こまった錠だね。これじゃあ紙一枚噛ませただけでも閉まらなくなってしまうんじゃないか?」
何度も黒い錠を開け閉めしながらグレシアが零す。
一枚目の窓に取り付けられた取っ手を上に上げることによって、その先端がもう一枚の窓の端にある金具に降り、外側からは開けることが不可能になるという鍵だ。
グレシアが言うにはクレセント錠。正式名称を知っているかは別として、クインテッドではごくごく一般的な形状の鍵である。
確かに、半円状になっているその金具は窓と触れあっているようにも見える。しかしながら実際のところ窓に傷がついていないところを見るに、触れてはいないのだろう。
探偵は後ろの控えていたヘデラから束ねられた書類を受け取り、一枚ずつ噛ませていく。
一枚、一枚と、窓と錠の隙間に挟んでは開け閉めを繰り返していく。五枚目に差し掛かった時、すんなりと錠を下ろしていた彼女の手の動きが鈍くなる。
「五枚か。
「よく知ってんな」
「雑学では負けない自信があるんだ。君にも今度教えてあげるよ」
書類を抜き取り、今度は窓を開こうとした時。錠の真下に位置のベッドの掛け布団に触れたグレシアが、触れた場所に視線を落とした。
掛け布団に、直径が親指の第一関節程度の染みがある。グレシアはこれに違和感を感じたのだろう。
「水……かな?」
顔を近付け、彼女は眉を顰める。
「いや、紅茶だな。何故?」
その場で熟考することは無く、彼女は窓を開ける。
爽やかな風が髪を揺らす。外はやや雲が目立つが、晴れといっても差し支えない天候だろう。
身を乗り出し地上を見下ろす彼女の真似をするように、隣で地上に目線を落とす。
「かなり高いね。でも死ぬ高さじゃないな。理論的には可能といったところか」
「……いや、これくらいなら降りれるぞ」
「ほう?」
興味深そうな声と共に、彼女の視線がこちらへ向く。
一緒に暮らしていた少しは分かった。話せという意味だろう。溜息と同時に、腕を伸ばす。
捜査で結果を残せば、ある程度の信頼は得られるだろう。少なくとも、初対面の印象をかき消せる程度には。
「そこに雨樋があるのは分かるか?」
「あれだね? 紺色の」
俺が指し示しているのは、窓のすぐ左隣。つまりこの部屋のリビングの窓と寝室の窓の間にある雨樋だ。
「あれ金属製だろ? 頑丈そうだ。この部屋なら丁度飛び移って滑り降りられる」
「……何を言い出すと思ったら。言うのは簡単だよローラス。その方法を思いついたところで、実際に行動に移す人間がどれほどいるか」
「お前が言ったんだぞ。人を殺すような奴は何でもするって」
「身に覚えがない言葉だね……。私が言ったのは、人を殺すような人間は国外逃亡なんて簡単にするって……――――」
長々と否定を示す彼女に段々と苛立ちを覚える。と同時に、俺は閃いた。
彼女が否定するのなら、実際に体験させてあげればいい。そうすれば、俺の論が正しいことが簡単に証明できる。
「……――――ん?」
窓の桟に足を掛け、同時に彼女の腕を無理やりに引っ張る。
「なら実際に見せてやる」
「え? え? うそ、噓でしょ? ちょちょちょ早まるなってローラス……」
「グレシア!? ちょっとローラス!!」
グレシアの制止も、ヘデラの制止も既に間に合わない。俺たちの身体はもう、重力に身を委ねることによる独特な浮遊感に包まれているのだから。
右腕を強く引き寄せ、彼女の身体を俺の背に叩きつけるようにして背負う形に。まだ窓枠を掴んだままの左腕を起点として回転し、付けた勢いを殺さぬように左腕を離し、身体は完全な空中へ。
もう、自由落下を防ぐものは何もない。同時に、グレシアの手が俺の腰を掴む。
「ひゅっ」
間抜けな呼吸音が背後で聞こえた。
落下しながらの移動で雨樋を掴み、片腕で握ったり離したりを繰り返しながら階を降りていく。
着地はより、慎重に。この高さからの勢いを膝だけで受けようとすれば、常人なら骨折は免れない。
素早く地上を見渡し、丁度いいゴミ捨て場を発見。壁を大きく蹴り、道路を飛び越え半ば不時着のような形で、俺たちは八階から一分も掛けず、地上へと舞い戻った。
「な、出来たろ?」
反応が無い。それどころか、腰を掴む手に先程から力を感じない。
「……? おい、グレシア?」
するりと、彼女の手が俺の腰を離れた。
不思議に思い彼女をゆっくり地面に下ろすと、グレシアは今まさに静かな寝息を立てている最中だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます