一章 腕を抱く双子
1・月の花粉
夢を見ていた。意識の無い間、ずっと。
長い、永い夢。このまま終わることは無いのだろうかと思えてしまう程の、終わりの無い夢。
薄暗い部屋。石が敷き詰められたその部屋に窓は無く、あるのは古ぼけた木の扉に小さな小さな蝋燭の灯り。
濃厚な血の臭いと肉の腐った臭いが入り混じり、鼻が曲がる程の激臭となっている。それはゆっくりと這うように鼻腔を荒らし、その度に脳内が緊急警報を鳴らす。
今すぐに逃げ出そうとも、手を、脚を動かす事は叶わない。何故なら、まるで磔にされた聖人のように、その四肢には金属の枷が――――。
「ほう、この状況で余所見かね? 流石は三番目の成功体。随分余裕があるようだ」
落ち着いた、女性の声。感情という概念が存在しない世界線から投げられたかのように、その声色は酷く冷たい。
朦朧とする意識を働かせ、自身の四肢を拘束する枷から目を離し、目線を前に向ける。
注射器を片手に、こちらにゆっくりと歩み寄る背の高い女がいる。
正確な容姿は、暗さが手伝って判然としない。だが分かるのは、彼女が手入れのされていなさそうな、枝毛だらけの黒い髪を腰まで伸ばし、その身を汚れた白衣が包んでいるという事だけ。
そしてもう一つ、彼女対して自分が抱いている明確な、憎悪。
自身の前に立った彼女は、枷に繋がれた腕を押さえ脈を取る。脈を取り終えると、今度は瞼を無理矢理押し広げ瞳孔を覗き込んだ。
「正常」
それだけ呟き注射器を少し押し液体を針に伝わせると、針先を腕の肉に食い込ませる。静電気のような、一瞬の痛みが腕を迸る。もう、慣れたものだった。
「これでお前は生まれ変わる。今までの自分を忘れ、新たな使命を帯びてな。そして今、その使命を告げよう。これだけを、お前は抱くことになる」
注射器の針が抜ける。医者のように、血が腕を伝う感覚を取り除いてくれることは無かった。女が注射器を放り投げ、耳元に口を寄せる。
「なに、簡単なお使いだ。今から言う物を、この私の下に持って来い」
その言葉は土に水が染み渡るように脳に馴染み、ずっと消えることは無かった。
「アネモネの娘、グレシア・ユーフォルビアの脳を」
◆~~~~~◆
「ん、起こしちゃったかな?」
少年の朧げな視界の中に映る麗人は、彼の顔を覗き込みながら申し訳無さそうに零した。少年の鼻に留まっていた蝶が驚き、窓から飛び出していく。
仄かに香る紅茶の匂いが少年の鼻腔を擽り、意識の明確な覚醒を促す。不完全な思考の中では、その香りが紅茶のような彼女の、飴色の髪から発せられていると錯覚してしまうだろう。
遥か遠くに聞こえる街の雑踏、線路を踏み荒らす鉄の蛇の騒音に、壁を隔てた向こうでティーカップを置く音。そして、眼前には目が覚めるような美少女。
段々と、視界が晴れてきた。
今まで飴色だと思っていた彼女の頭髪は、どうやら完全でないらしい。
彼から見て左の側頭部の一部のみ、天井から牛乳を垂らしたような白髪が流れている。
眼窩に収まるのは、静かな光を湛えたサファイア。その瞳の中に映る彼の姿は、口を半開きにして眠そうな目で呆けていた。
濡れてふやけた新聞の一面で、見たことがある顔。
「おはよう」
眠気も吹き飛ぶような、絶世の美少女は微笑む。
ヴァイオリンのような凛とした、品のある声。熟れた唇が弧を描き結ぶ様から、彼は視線を逸らすことはできなかった。
ベッド横の椅子に座る、天使。
ふと、目線を下げる。
黒いレースキャミソール。小さくも可愛らしい鎖骨が顔を覗かせている。
使い古されたようでその紐は緩く、故に後少し彼が身動ぎをすれば、その慎ましやかな胸の膨らみ、その山頂さえも……――――。
「おや? 悲しいな、随分と警戒されているらしい」
気付けば少年は、少女から最も距離を取れる位置までベッドの上で身体を滑らせていた。
鋭い目線は少女を俯瞰する。いつどこから武器を取り出しても対応できるように。呼吸は浅く、出来る限り空いた窓の近くの外気を吸うように口端を顔の中心からずらす。
そんな少年の態度に、少女は口先だけの悲しみを零す。ただ実際はどうにも思っていないようであり、言葉の抑揚も眼の色も何も変わらない。
「警戒するには値しないよ。私はグレシア。只の探偵さ。君は?」
「……グレ……? ……答える義理は無ェ」
「ははっ、うん確かに。今のは私が勝手に名乗っただけだからね」
グレシアと名乗る少女は、大人びた微笑みを見せた。
つぶさに観察する。
全身の筋肉、全身の皮膚や粘膜、重心や視線の動き方、息の感覚、言葉の端々。その全てを。
筋肉は無い。少年の命を脅かすには、なんらかの得物や異能を有するだろう。ただ、呼吸は規則正しく、時折動きにキレが見える。どうやら武術の心得はあるようである。
ただ、特筆すべきは言葉だ。
柔らかく、落ち着く音色はまるで大自然が奏でる音のように、違和感のフィルターをすり抜けて脳に染み込んでいく。無条件で、彼女の声を聞くだけで、男だろうが女だろうが彼女の声と、理知的な喋り方に魅了される気がする。
「……っ」
「?」
ふと少年に襲い掛かる頭痛。同時に、意識が無かった時の夢の記憶が海馬を巡る。
グレシア・ユーフォルビアの、脳を。
「グレシア……」
「ん? なんだ……――――」
思考と肉体がまるで一つの神経で繋がっているかのように、思考を即座に汲み取った身体が動く。眼前のか弱い少女の脳を、少年は捧げなければならない。その為に、命を刈り取る動きを。
金色の影が、ひらりと踊った。
「グレシアさん、下がって」
連射可能な写真機があれば、どのようにしてこの状況になったか、容易に説明できるというのに。
グレシアの喉に向かって突き出された右手を、切っ先の無い剣が掬い上げる。
少年が表情を歪める。金髪の闖入者の表情はまるで無機質な仮面だ。
左手を軸に、身体を横に回転させ脚を薙ぎ払う。ただ、少女はそれを予期していたかのように壁を蹴り大きく跳んでいた。
剣を持つ右腕を大きく振りかぶり、金糸雀のような美しい金の髪が宙を舞う。
少年の脳のエンジンが、急速に稼働を速める。
彼女の持つ剣の形状は切っ先が無い。故に、突くとしての機能には欠けるが、磨き上げられた刃を見れば斬るという事には事欠かないことがよく分かる。そして彼女自身も、それをよく知っているようだ。
このまま呑気に一秒を過ごせば、次の瞬間頸は飛んでいる。ただ、状況は不利そのもの。負ける可能性の方が高いだろう。
この体勢では回避も難しい。なればこそ、最後の最期までせめて、相手が嫌がる選択肢を――――。
薙いだエネルギーを止めず、軸手を今度は右に変え脚を背後に。そして、ベッド隣の壁を蹴り破り、そのまま海老の尾のように足を曲げ壁の破片を飛ばす。
金髪の少女の思考のリソースが、自身に飛来する瓦礫の処理に割かれた一瞬の好機を狙う。
反った脚をそのまま頭上へ、そして前へ。およそ人間とは思えない柔軟性を発揮し、鍵縄のようにベッドの端に脚を引っ掛けその力で上体を思い切り引き寄せ、平手でグレシアの喉を貫く。
事は叶わない。
「残念」
あと一センチでも、少年がその手を前に差し出せば、グレシアの喉を突いていた。だがそれをしないのは、彼の首筋に冷たい刃が当たっているから。深紅の糸が刃を伝う、少年が視線だけ動かしていた。
「ほらね、私個人は警戒には値しないと言った筈だよ」
余裕のある態度で両手を上げ、グレシアが一歩下がる。
あと一秒、金髪の少女の介入が遅ければ彼女は喉を突かれていた。その意味が分からない程、彼女も愚かではない。だというのに、彼女は微塵も恐怖の感情を見せなかった。
「服汚しやがって。手収めろカス、刎ねるぞ」
「……」
脅し立てる金髪の少女の声に、少年が彼女の金色の瞳から目を離さないまま手を引く。その様子を見届け、少女も殺意の籠った視線を動かさず刃を鞘に納めた。
溜息を吐き、服に付いた瓦礫を払い落す。
「ありがとうアリア。さぁ、これで分かってくれたかな?」
胸の前で腕を組み、右手で髪の白い部分を弄るグレシアがゆっくりとベッドに歩み寄る。
「私は警戒に値しない雑魚そのもの、ひ弱な一般人さ。君に対して一切の害意も無いし、どうしようとも思っていない。ただこれは、私自身の話ではあるがね」
グレシアの眼が、左後ろに侍るアリアと呼ぶ金髪の少女に向けられた。向けられた視線に、彼女は後ろめたさそうに目を背ける。
「……なんですか」
「いや何も。さて少年、気は済んだかな?」
少年がアリアを一瞥する。抵抗は無駄。どころか、殺される可能性すらある。
アリアの腕は恐ろしく練度が高い。
グレシアに襲い掛かろうとした時、少年の視界に確かに彼女の姿は無かった。だというのに、そのまま手を差し出していたならば命に達していたのはアリアの剣だったろう。
人の死角に立つ正確な知識、気配を消す技量。それでいて、剣の腕も恐ろしい。
空気を斬る音すらも聞こえない、瞬きよりも速き剣速。齢二十にも達してないだろうと分かる少女の風貌。その歳で、どれ程の研鑽を積み上げ、どれ程の死線を潜り抜け、どれ程敵の頸を刎ねればその領域に至ることが出来るのか。まだ幼い少年には分からない。
今戦っても、確実に勝てない。相手の要求を呑むしかないだろう。
「……あぁ」
素っ気ない返事を返し、敵意の放棄を示す為に少年は寝転んだ。
場所はどこか。少年の見知った場所ではない。だとすると、捕らえられているのか。ただこの綺麗な服とベッドに寝かされていることを考えるに、捕らえている訳でもなさそうである。
「それはよかった。調子はどうかな」
グレシアの大人びた声を反芻する。
それは、自分の体調を確かめろということだろうか。状態を知って戦闘を優位に運ぶためか。否、そんなことをせずともアリアは少年の首を刎ねられる。
思惑は不明だが、逆らったら後が怖そうだ。少年は自身を睨み続ける金色の瞳を警戒しつつ、言われるまま身体を確かめる。
爪の根元がささくれた手の甲を広げ、次に手の平を広げる。いくつかの切り傷がありはしたが、どれもこれも塞がっているようで握る、開くを繰り返してもそこに痛みが生じることは無かった。
自分の腕を覆うのは真っ白なワイシャツだ。少し大きいこと、そしてアイロンを掛けたようにぱりっとしたこのシャツは、恐らく少年とは別に本来の持ち主がいるのだろうと連想させる。
ふと、鐘を連打するように、ズキズキと激しい頭痛が少年に迸り、咄嗟に頭を手で押さえた。
「頭痛ね、他は?」
グレシアはその所作だけで異常を見抜くと、何処からかメモ帳と薄灰色の羽ペンを取り出し、文字を綴っていた。
少年はその後十秒ほど自身の身体を確かめるが、他にどこも異常は無いようで首を横に振る。
「……そう、なら良し。どうやら君は運がいいようだね」
瞬間、彼女の視線が鋭いものと変わり、小さく何かを呟いた。しかし、それも一瞬。すぐ彼女は元通りに。
仕立てのいいキャミ、触り心地のよさそうなきめ細やかな肌、芳しく香る紅茶の糸、曇りの無いサファイア。そして、見透かしたような微笑み。
彼女は右の人差し指を立て、笑みをそのままに再び口を開く。
「君を診た医者曰く、君の身体にはフレレルミンが流れていた。毒性の高い吸入麻酔薬だよ。血中の濃度はかなりのものだったそうだから、頭痛で済んだのは幸運だね」
彼女はそう告げると、再びメモ帳を胸の前まで持ち上げる。上体は前のめりになり、不意に彫刻のような美形が近付き、少年の身体が仰け反った。紐の緩んだキャミが、重力に従い鎖骨を露わにさせる。
毒物のように苦くも、癖になるような芳香が鼻腔を擽る。
「さて、もう少し聞きたいことがある。少しいいかい?」
睨みつける金髪の少女の目線を感じ、少年は首を縦に振った。
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