2・月の花粉
「私たちはある事件を調査していてね。詳細は伏せさせてもらうが、君はその過程で私たちに発見されたんだよ。意識が無いようだったから取り敢えず連れて来て医者に診せ、私の家まで運んで寝かせて今に至るって感じだね。私としては、君が例の事件に全くの無関係とは思えないんだ。被害者ではあると思うけど、主犯は別にいるとして共犯の可能性もあり得る。全くの無関係なら、そもそもあの場所にいない筈だからね――――」
「成程、記憶の混濁があると。名前も? そうか。じゃあ最後に覚えている事柄でもいい。思い出せるかい? 何でもいいよ。道路に茶色い馬の馬車が走っていたとか、尻尾が切れてる野良猫を見つけたとか、お淑やかな美人が歩いていたとか、何でもいい――――」
「頭痛の種類はどうだい? いや、分かってる。知りたいのはもっと詳細な情報だよ。君の心配もそうだが、フレレルミンはまだ発見されたばかりで臨床実験の記録が少なくてね、アクレーが参考にしたいらしい。具体的に聞きたいのは頭痛の場所、痛み方、腹痛や吐き気とか不快感や鬱症状等の精神的なものの随伴症状はあるか、いつ頃始まったか、前兆はあったかとかその他諸々。詳しく訊かせてくれ。君の言葉が医学の背中を押すんだ――――」
グレシアの優しい質問。もとい、アリアの鋭い眼光の御蔭か、目覚めたすぐ程少年が質問を拒むことも無く、質問時間はゆっくりと過ぎていった。
少年により空いた壁の穴は、既にディギタスによって補修されている。そんな、少し雑に釘で打ち付けられた板材にもたれかかり、少年は彼女の次の質問を待つ。
ただグレシアの方は訊きたいことはすべて聞き終えたのか、数秒真顔でメモを眺めた後、下半身の下着の側面に指で隙間を作り、その中にメモ帳を差し込む。
横目で少年がその様子を見ていると、アリアの眼光が余計鋭くなった。慌てて目を逸らし、少年は思案する。
会話の最中で、二人の大まかな情報が露わになった。
まずこの場において、他の追随を許さぬ剣の腕を持つアリアよりも、この飴色の髪の儚げな少女、グレシア・ユーフォルビアの方が立場が高いらしい。
アリアは彼女に対し常に敬語だ。また、グレシアはベッド横に置いた簡素な丸椅子に座りながら質問をしているのに対し、アリアは彼女の横で立ったまま。
警戒の為ということも考えられるが、グレシアへの態度を見るに忠誠心が厚いように見える。グレシアの騎士なのだろう。
「大体分かった。記憶障害はかなり根深いね。名前、住所、家族構成に友人。自分に関することは何も思い出せず。唯一思い出せるのは、浮浪者としてこの街で暮らしていた記憶のみ、と」
意識覚醒直前の夢に関しては、話してはいない。当たり前だ、「貴方を殺せと言われる夢を見た」と言って、金髪の少女が剣を抜かない保証は無い。
その為、それ以外の記憶を話した。とは言え、記憶喪失は本当の事。
少年は三年以上の間。この街で浮浪者として暮らしてきた。
いつか漁った残飯の酷い悪臭も、通行人から投げかけられる疎まし気な視線も、全て昨日の事のように思い出せる。
浮浪者として生きていた記憶は、唯一少年の中に確かにあるものだった。ただどのように浮浪者になったのかは、一切のヒントも無かったのだが。
そんな事とはつゆ知らずか彼女は腕を組み、再び右手は自身の髪の不完全な部分で遊んでいる。この短時間で彼女のこの仕草を何度も目にした。どうやら、思考する時の癖でもあるらしい。
極めて珍しい髪色だ。
飴色の髪の一部だけがミルクのような白。そんな特殊な髪は生来の物か、それとも後天性の物なのか。はたまた染めているのだろうか。ふとした疑問が少年に浮かんだ。
「満足か?」
「まぁね。出せる情報は大体全部訊いたから。満足だよ」
「グレシアさん、服を。見られてますよ」
「おっと確かに。見苦しいものを見せてしまったね。ただ喜ぶといいよ、私のこんな姿を見れるのはこの街でも数少ないんだ」
冗談っぽくそう告げながら、膝上に乗せていたらしいブラウスを拾い上げ、袖を通す。
腋を晒し、肩甲骨を捻りながら袖に白い生地を這わせ、ゆっくりとボタンを留めていく動作の全てを、少年は見落とすまいと眺め続けていた。
それが意識的なのか、無意識なのかは、少年自身さえ知らない。
「取りあえず、君の素性と保護者。もしくは友人でもいい。とにかく、君と関わりがある人物が見つかるまで、私たちの側に身を置くといい。貴族のようとは行かずとも、中流層程の生活なら保証できる」
「……誰とも知れない奴の家に泊まれと? 馬鹿言うなよ」
皮肉っぽく少年が零す。夢の話とは言え、寝言でも漏らしていたら少年に課せられた目的が筒抜けだ。味方と思わせて安全に葬りたいという可能性もある。
アリアが小さく「貴様……」と漏らしながら抜剣しようとするのを片手で制し、グレシアは顔を近付ける。
ハーブのような香りだ。苦い。ただ仄かに、甘い。
「誰とも知れないのは私たちも同じだ。その上、私の命を狙おうとしたおまけ付き。それを泊めるといっているんだ。厚意には素直に甘えるべきだよ」
「誰がそんなことを頼んだ?」
「誰も頼んでいないよ。私の独断だ」
「……俺がそれに素直に従うとでも?」
少年の目線がより一層、鋭いものとなりグレシアへと浴びせられた。
先程の行動で、グレシア達が少年のことを脅威と認識し、排除を考慮に入れていてもおかしくは無い。それ故の警戒。
グレシアはブラウスのボタンを留めていた手を止め、ベッドへと乗り出した。ぎしと、ベッドが軋む音がする。
「君はどうやら私を警戒しているみたいだが、そんな心配は無い。そもそも、主導権が君にあるとは思わない方がいい。分かるかな、君は今、危機に瀕しているんだ。季節は真冬、頼れる人物もおらず、浮浪者として生活するにしても、彼らにはそれぞれの縄張りがある。温まることの出来る場所は無いに等しいだろうね。君は知ってる筈だよ」
曇り一つ無い、しかし透明感の無いという矛盾を抱えたサファイアが少年の瞳を覗き込む。
グレシアの声に帯びた僅かながらの怒気により、少年は蛇に睨まれた蛙のように、彼女の綺麗な蒼玉のみをただ見つめたまま動けない。
「出てってもいいよ。私たちと君との関係は、ただ救助した側とされた側。私たちだって君の返礼を期待して助けた訳じゃないから、本当はそうしたいさ。ただ夜、この街は極寒だよ。今の君が外で夜を過ごせば、体温は本来あるべき温度から下がり、身体は小刻みに震える。脈拍が弱まり、肌や唇が変色し、意識が朦朧とし始めるだろうね。さらに進めば呼吸困難に陥り、視界は段々と暗く。有名な童話のように幻覚が生じ、強烈な眠気が瞼にぶら下がる」
目と鼻の先にまで、彼女の顔が近付く。鼻息が掛かる。少年の心臓が今にも爆ぜんばかりに律動を刻む。
少年は理解している。浮浪者としての生き方を。厳しさを。昨日食料を分けてくれた人間に、雪が積もっている状況なんて、もう見飽きている。
グレシアは捲し立てる。まるで、読み聞かせている絵本の主人公が、危機に面した時のように。
「さらに放置すれば蘇生はもう困難だ。筋肉が
絵本を閉じるように、言葉の最後に余韻を持たせゆっくりと、彼女はようやく唇を結んだ。
世界で最も美しいモノが離れる。毒のような苦い、しかし癖になるような残り香が、少年の鼻腔を擽った。
「そんな悲劇のような顛末が予見できる君を放置して、私たちはこんな暖房を効かせた部屋で談笑をしろと? それが出来ないから拾ったまでだよ。死なない保証があるなら今すぐにでもここから出て行って貰っても構わない」
返事をしない少年の様子を見て、彼女は「分かってくれたようだね」と呟くと、ブラウスのボタン留めを再開した。
白い指先が蜘蛛の手足のように動きボタンを留める様は、まるで良くできた絡繰りのようだった。
「取りあえず、君の素性と保護者。もしくは友人でもいい。とにかく、君と関わりがある人物が見つかるまで、私たちの側に身を置くといい。貴族のようとは行かずとも、中流層程の生活なら保証できる。……あーあと、言いたいことが一つ」
ブラウスを着たグレシアが席を立ち去ろうとした最中、彼女は何かを思い出したかのように人差し指を少年の顔に向け、近付ける。
「女の子の着替えをあまりジロジロと見ない方がいいよ」
「っ……見てねェよ」
「案外身体に向けられた視線ってのは、気付きやすいものだよ? ちょっと待ってて、着替えて来るから」
去る彼女の背に怒鳴り付ける。ただ、そこに込められた感情は、怒りを主成分とはしていないようだ。
彼女が去った後の少年は頬を赤らめ、顔を背け。目覚めた後の中で最も強く記憶に刻み込まれた、グレシアの肌を思い返していた。
視線が吸い込まれるようなその光景は、まるで降り積もった新雪のようだった。
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