3・冷たい奔獣
マッチの心許ない小さな灯りが、地下室の壁を照らす。
積み上げられた石による湿った壁と天井と床。天井の隅には蜘蛛の巣が張り、足元には時折ネズミの死体が転がっている。
「何の地下室だこれ……」
「それを今から調べに行くんだろ?」
グレシアの瞳が地下へ降りて一瞬虹色に変わっただけで、通路を歩く現在は青いままだ。
当たり前である。地下室の通路は一方通行で、姿なきXの目的はその最奥なのだから。
小さな灯が木板の扉を映す。少し朽ちた木を、二カ所の赤茶けた蝶番で留めているだけの古めかしい扉。
牛の鼻輪のようなノブを引き、その奥へとグレシアが足を進める。
「これは……」
「まさに大正解だね」
腐臭にディギタスが鼻を摘まみ、グレシアが一瞬表情を歪める。
そこは、比較的新しいのか錆が無い鉄格子がある部屋だ。牢屋内の床に放られた手枷と足枷には、よく目を凝らせば小さな肉片がこびり付いていた。
部屋の隅の木の棚には、高さ異なる幾つもの瓶がある。所有者は几帳面なのか雑なのか。それらの瓶には全て斜め向きにラベルが張られており、そこに記されている筆記体の文字は湿っており少し滲んでいた。
部屋の中央には、場違いな程に磨き上げられた銀色の手術台。傍らの小さな台座には銀色のトレイの上に、汚く汚れた様々な医療器具が載せられていた。
「手術室か?」
「だね。それも衛生環境最悪の」
靴を鳴らしながら、グレシアは木の棚に歩み寄りマッチの火を近付ける。
背伸びをして、部屋を一周する。牢屋の中を覗き込み、手術用器具に顔を近付け、一番上の段に収納されているビンのラベルを覗き込む。
「なるほど」
「何だ、それ?」
「薬品だよ。麻酔とか、抗凝固薬とか。手術に用いられるものばかりだ。うん、あまり火を近付けると不味いな」
マッチの火を離し、彼女は火をディギタスに預けた。
そして自身の背後を付き添うように言うと、彼女は再び狭い部屋の中を何度も何度も観察し、そして練り歩く。
牢屋を針金で開錠しその中の様子を観察し、手術台に付着した血痕を凝視し、薬品の蓋を開け手を扇ぐことで確かめる。
「見つけた」
「は?」
暫く地下室中を歩き回った後、彼女はそう零した。続けてグレシアは木の棚の前で屈み込み、床を指差す。
「これを見てくれ」
「床がなんだ?」
「木棚の隣の床、擦り減ってる」
ディギタスも同じく、屈み込み床を凝視する。ごろっとした大きな石を敷き、間にモルタルを詰めたような床だ。
濡れていて気付きにくいが、よく見れば確かに色が違う箇所があった。
「ディグ、棚をずらせるか? すぐに気化して引火するやつもあるから薬品は絶対に割らないように、ゆっくりと」
「分かった」
火をグレシアに戻し、言われるがままに棚を持ち上げる。
相当に重いようで、手首の上に血管が浮かぶも彼は棚を持ち上げ、グレシアの指示通り横へと動かした。
黒洞々とした闇が、姿を露わにする。そうして現れたのは、さらに先へと続く隠し通路。
「おぉ、よく見付けたな……」
「二人いてこそさ。さ、行こう」
新しくマッチを擦り、進む姿に躊躇いは無い。
現れた隠し路は、先刻の地下室よりもさらに陰鬱とした雰囲気が立ち込めていた。壁には幾つもの血痕、削ったような痕跡。そして、大きな衝撃を受けた跡のようなものも。
「臭うな……」
「あぁ、腐ったような臭いがする。さっきより更にね」
グレシアが鼻を摘まむ。足音が硬い音から、水音に変化した。
限り無く黒に近い赤。それでいて、粘度の高い液体が床に広がっている。悪臭の元は、どうやらこの液体であったようだ。
「何だこれ……」
「血と、肉が溶けた液体……かな。知る勇気が私には無い」
ようやく先に見えた扉は、幾つもの赤い手形が付着した不気味なものであった。
それを眼前にグレシアは立ち止まり、ディギタスに火を預ける。赤く錆びたドアノブに手を掛け、深呼吸を挟んだ。
「開けるよ?」
「あぁ」
ドアノブに掛けた手袋越しの手は、動かない。
「……」
「レア、怖いか?」
「……少しね」
「大丈夫だ。お前は何があっても俺が護る。保護者だからな」
「ありがとう。じゃあ、行くよ」
ノブが水平になり、彼女が引く力を込めた。軋む音が通路中に響き、そして開く。
「うっ! ……臭っさ」
「んん……酷いな」
こもっていた悪臭が濁流のように襲い、二人は思わず眉を顰め唸り声を漏らした。部屋内には、その悪臭に見合うだけの惨状が広がっている。
中央には血塗れの手術椅子。特に椅子の上部は、血液と鮮やかなピンク色の肉片がこびり付いており、数え切れない程の蠅が集っていた。
その傍らには二つの屑箱。同じ形、同じ大きさの全く同じものだろうが、片方は先刻の手術室から持ってきたのか、この部屋の中では目立つほどに綺麗だ。もう片方には山となった赤黒い肉片が廃棄されている。腐っているらしく、所々変色している部分もある。
「酷いな、惨すぎる。レア、吐くなよ?」
「あぁ……。痛みに喘ぐ吐息、諦念の言葉、爪が剥がれる程強く台を握った跡……。到底、赦されるべきではないな」
虹色の瞳が決意の光で澄んだ。
彼女の足跡辿りは今、この場所で殺された者たちの残留思念を救い上げたのだから。
事務所を出て、路地裏の痕跡を辿り、そして屋敷を見つけたその時まで。ずっと彼女の顔に浮かんでいた、人を小馬鹿にしたような薄ら笑いが初めて、消えた。
彼女の手袋より、生地が伸びるような異音が鳴る。
その時だった。
「ん?」
ふと、グレシアの表情より昏さが消えた。
そのまま目を細めながら部屋を見渡し、同時に人差し指を唇に当てながら立てディギタスに見せ付ける。
「レア?」
「静かに。何か聴こえた」
「何って……んん」
ディギタスの口を手で塞ぎ、耳をそばだてるグレシア。そうされて初めて、ディギタスも気が付いたようだ。
何かが擦れるような音。いや、隙間風のような音にも近いかもしれない。それは規則的に、この部屋のどこかから鳴り響いている。
「何だ? 風、いやありえない。地下だぞここは」
自問自答しながら、ディギタスよりマッチを奪い取ったグレシアが、恐る恐る足を踏み入れ、その火を掲げ上げた。
「な……――――」
吃驚か、彼女の手から火が落ちた。それは床に広がる気味の悪い液体に触れ、煙を立てて消える。
「あ、おいレア」
「ディグッ! 悪いが火を付けて今すぐ手伝えっ!」
「は?」
不思議そうな表情で新たなマッチを擦り、グレシアの元に歩み寄るディギタス。そして、彼女が視線を向ける先に同じく視線を移し、同じように驚愕する。
それは、部屋の隅に設置された小さな牢屋。
ただ、これは入口に立っていた際も、僅かに見えていたもの。二人がそれに驚く理由は無い。
「おい! 大丈夫か少年! もう安心だ、私たちが君の無事を保証する!」
だがそこにまだ生きている少年がいるとは、二人は考えもしなかったのだ。
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