第2話金魚

 ドアに寄りかかって、息を吐く。暑いのもあるが、変な汗がどっとでてくる。

 なんだったんだ、あれは。

 疲れている。そうだ、おとといから親父の件でバタバタと。そりゃあ心の準備はしてたけど、危篤のときにかけつけたり葬儀の休みのために仕事もやっつけたりと忙しかった。疲れてるんだ。そうに違いないし実際そうだ。疲れている。だから、あれはおじさんの言うように猫で、それを見まちがえただけだ。気を確かに持て、僕。家の中だし、もう安全だ。

 そういえば清めの塩をかけるのを忘れていた。玄関に用意してたのに。家に入っちゃったじゃないか。のぞき窓からうかがうと、猫も――女の子もいない。

「よし」

 腕だけ出して、盛り塩を中に引き入れる。まったく、なんだって自分の家なのにこんなびくびくしなくちゃならないんだ。塩をつまんだとたん、頭の上から声があった。

「ひどいなぁ勇治くん」

「わぁ!」

 つかんでいた塩を玄関にぶちまけてしまった。女の子はさかさになって天井からくるりと一回転しながら着地した。

「もぅ……。せっかく普通の女の子としてあらわれたかったのに」

「ひとりで玄関にいる時点で普通じゃないからな?」

 女の子はぶつくさ文句を言いながら、すたこらと奥に入っていく。

 宙に浮いていた。人間ではない。塩も効かない。どうしたらいいんだ。オカルトは苦手なんだ。ワン太郎はとても利口な犬で、そのワン太郎が吠えかからなかったんだからそれほど邪悪じゃないはず。だけどオカルトなことには間違いはない。どうしたらどうしたらどうしたら。パニックになった頭の中で、なにかエロいことを考えると退散するというのを思い出した。

「エロいこと! エロエロエロエロ……」

「うわぁ、勇治くんそういう趣味なの? ふーん、そっかぁ」

「あたまのなかのぞくなよ!」

 いつのまにかすぐそばにいた。玄関でしりもちをつく。

 無垢な幼女の憐れみの視線ほど傷つくものはないと知った。そんなの知りたくなかった。

 なんなんだ、いったい。あたまのなかが、ついにふつっと切れた。

「なんなんだよお前!」

 叫ぶと、女の子はちょっと悩むしぐさをしてみせた。

「えーっと……。そうだ、勇治くん、昔に金魚飼ってたでしょ?」

「……あぁ」

 幼稚園のころに、縁日で買ってもらった。あのころはおふくろもいた。さみしさも連れてくる苦い記憶と一緒に、声をしぼりだす。

「それがなんだよ」

「私はその金魚です」

「はぁ?」

「――って言ったら、安心してくれるかなぁ?」

 女の子はよろしくお願いします、というようにぺこん、とおじぎをした。

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