空に文を綴る月
水原達軌
第1話黄昏
親父が死んだ。還暦の手前だった。
おふくろは四つ歳の離れた妹を宿したまま死んだ。だから親父は、僕を父の兄である伯父の家に預けて再婚もせずに働きづめで働いて、僕が成人してもまだ働いて、気づいたとき、病は手遅れだった。
七月一日、梅雨であるのにまるで真夏のような暑さだ。けれど、火葬場は冷房が強烈に効いていて、喪服の長袖を着ていても寒い。もっとも、喪服に合わせて空調を効かせるのだろう。
「勇夫さん、まだ元気で働いているような気がするわねぇ」
「えぇ」
葬式はいらないと言われている。来られる身内は伯父の連れ合いである伯母だけだった。父の唯一の兄弟である伯父は僕が高校に入学したころ、脳の血管が元で倒れてから、いまはほとんど寝たきりだ。いとこたちはそれぞれ自分たちの生活に忙しい。父からは大仰にするな、ときつく言われていたし、無口だった父になじむ子はいなかった。
伯母とふたり、待機室で色ばかりの茶をすする。大人数にも対応できるような広さの部屋で、畳のあせた色がむなしい気持ちを逆なでる。
伯母は母親代わりであったが、やはりなんとなく気兼ねしてしまう。続かない会話を、伯母がひとりでしゃべっている。
「だから早く病院にって言っていたのに……。やっぱり引きずってでも連れて行ったら」
生きることをあきらめきっていたような親父だった。だから、早く死にたかったのかもしれない。病状を知ったときに病室のベッドでみせた表情は、見たことのないくらいに晴れ晴れとしたものだった。そうは言えずに、伯母の繰り言とためいきを、茶をすする音で消す。
「うちの人もねぇ……。いつどうなることやら」
「伯父さん、どうですか」
「変わんないわよ。お義父さんも早くに亡くなって、お父さんもあぁだし勇夫さんも……。花本家の男の人は長生きしづらいのかしら」
僕もその直系の男なんだけど、とは言い返せずに黙って話を聞く。伯父さんが倒れてからは、介護と仕事と子供たちの面倒を一手に引き受けていた伯母だ。定年を過ぎた今も、医療費に金がかかるために働きづめである。僕の養育費は父が払っていたけれど、育ててくれたのはこの伯母と伯父の夫婦だ。今日一番の深いため息をついてうつむく伯母の髪は、加齢でまとまりが悪く、根元は白くなっていて、この人も歳を取ったんだなぁと今更に思った。
愚痴やらなにやら、言いたいだけをさんざんに言って伯母はひたいに浮いた汗をふき、冷めきった茶を飲む。
「まずいわねぇこのお茶。あんたよくこんなの飲んでられたわね」
この伯母を苦手とするのは、この口さがないところだ。あいまいにかわしていると、
「花本さん」
係員が呼びに来た。伯母が大仰に礼を述べながら靴を履いている。後ろに着いていきながら、親父を目にするのはこれで最後か、と思った。
説明を聞いて、骨壺を両手にする。人はこんなひとかかえになってしまうのか、と複雑な思いだ。
「骨を拾うの久しぶりだわ。勇治くんもでしょう」
「初めてです」
「うそよ、お母さんのときにいたわよ」
「そうですか」
覚えているような気もするが、思い出したくない記憶だ。むっとしていると、さすがに気づいたのか、伯母はあわてて話題を変えた。
「じゃあね、これで帰るけど。お寺までついていかなくて本当にいいの?」
「えぇ。僕ひとりのほうが住職へも話が早いかと」
「そうねぇ、お葬式しないんだものねぇ。――じゃあね、たまにはうちに来なさいよ」
「はい」
「仕事は休みとれたの? あらそぅ。大きな会社でもあてにならないし、ちっさいとこでも、ねぇ……。ほんっと、イヤよねぇ」
「はい」
駐車場に行くまでに、汗だくになった。伯母が小太りの体を揺らして車に乗るのを見送り、助手席に骨壺を乗せる。
「最後のドライブだな」
自分の運転で、ふたりでどこかに行ったことなんてあっただろうか。最初に一緒に乗ったのはいつだったか、最後はいつだったか――、そんなことを思い出しているうちに、胸の奥がつんとしたものであふれてきた。
「やめよう」
運転席に座って、助手席の親父にシートベルトをかけてやった。
住職と話して帰宅すると夕方になっていた。長いようで短い一日だ。しかしこの時期、一八時を過ぎても明るいから気の急くことがない。夏の黄昏の色はごくごくうすい橙色で、あたりいちめんがオレンジ色にはならない。気づいたら夜になっている、そのあいまいな空気が僕は好きだ。
それにしても、駐車場から自分の部屋の前を見たが、誰かがいたような……?
訪れる人もない家に誰だろう。セールスだろうか? 親の葬式もあげられないような貧乏社会人にたかれるものなんてなにもないぞ?
自虐的になりながら車を降りる。――やはり、いる。子供だ。子供が玄関前に座っている。
部屋をまちがえているんじゃないか。いや、そもそもこの棟に子供はいない。どうしたものか。しかし家主は自分だ。とっととこの暑い喪服を脱ぎたい。
子供の前に立つと、その子はひざをかかえたまま見上げてきて、にっこりと笑った。おかっぱ頭のういういしい、水色のワンピース姿の女の子だ。
「おかえりなさい、勇治くん」
「……なんで僕の名前を知ってるの」
あまりにも親しげに名を呼ばれ、思わず素でこたえてしまった。女の子はうふふ、と秘密めいた笑みをこぼし、玄関を指さした。
「きょうは暑かったね。早く家にはいろ?」
「いや、待って、きみ」
小学校に上がる前くらいの年齢だろう。そんな歳の子をひとり暮らしの男の家にいれたなんて、なにもしなくても犯罪だ。
親はどこだ。きょろきょろしても誰もいない。困った。近くの大家さんの家に行こうか。そう思うあいだにも、女の子は家に入ろうとしつこい。
押し問答していると、向かいの家のおじさんが犬の散歩から帰ってきた。
「こんにちわ、今日も暑いですね」
「あ、こんにちわ。すみません、この子、どこの家の子かご存じですか?」
助かった。日ごろから親切にしてくれているおじさんである。女の子を指さして言うと、おじさんはめがねの奥の目をきょとんとさせている。
「この子? この子ってどの子だろう?」
「え? この、この子ですよ。女の子」
「あぁ、その猫。メスなの」
猫? メス? ひざ裏にしがみついているのは、まぎれもなく女の子なのに、猫?
どういうことだ。と、女の子とおじさんを交互に見る前で、おじさんは小首をかしげている。
「さぁてね、ちょっとわからないなぁ。外に出しておいたら勝手に帰るでしょ。暑いから心配だけどね。ワン太郎にお水あげるから一緒に飲むかい?」
おじさんの手招きに、女の子はちらっと僕を見上げてからにこにことかけ寄っていく。
「さぁさぁ、暑かったねぇ。これを飲んだらおうちに帰るんだよ」
おじさんの目には、猫が水を飲んでいるように見えるのだろう。しかし僕の目からは、ワン太郎をなでくりまわす女の子の姿しか見えない。
しかし、このスキにとばかりに、おじさんに会釈をして家に入り、すばやくドアを閉めた。
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