桃原に花の咲く頃(二)


 桃原とうげんの東門の一つ、境丘けいきゅう門の辺りには学者・学徒が数多く住んでいる。

 その多くは無位無官の身。官府に出仕することで俸給を得ている者ではなかったが、門道の大路の端に引かれた水路の向こうに並ぶ彼らの住居は、華美ではないが決して貧小なものではない。

 彼らの多くはかつて鷲申君しゅうしんくんが集め始め、いまではその甥の章弦君しょうげんくんが引き継いでいる〝食客しょっかく〟だった。

 食客とは、封土に縛られずに自らの才能をたのんで貴人の客となり、貴人を主として助けることで生計を立てる者のことをいう。

 章弦君は王淑公の次弟で、王淑の公子でありながら同時に逢の頃王けいおうより封地を授けられた貴人である(――故に「君」を名乗る資格を持つ)。伯父の鷲申君も同様に逢から封地を得ている。共に人士を好み、多くの食客を抱えている。

 中原はもとより〝この国〟の各地から集まってきたその数は三千人。ここ境丘けいきゅう門の界隈にはとくに学者が邸宅を与えられ、日々学問・思想の研究に明け暮れていた。

 鷲申君が集め、章弦君が引き継いで率いることとなった彼らは、〝境丘学派〟と呼ばれた。


 十六歳となったシュイ ユィンが簡家を出てこの境丘学派の街に起居するようになって、早や二カ月が過ぎようとしている。現在いまは章弦君の食客、ガオ 偉瀚ウェイハンの門下であり、同窓の若者たちと共に師の邸宅の一棟に仮住まいの身だった。

 彼には一途な想いがある。

 境丘門下で学問の研鑽を積み、章弦君の目に留まる。

 そしての貴人の食客となり、やがてはその推挙を、論客として王淑の官途に就くこと。

 途方もない目論見と言えたが、諸侯・大夫の家に生れなかった徐云が立身できるとすれば、たしかにしかなかった。

 これだけ聞けば、ひとは彼のことを野心家とみるだろうか。

 ――彼のおとなし気な面差しを見れば大方の者が〝そのような大それた野心には思い至らぬ〟と思ったであろう。だが、意志の強そうな眼差しに〝もあらん〟と思うひとも、少なからずいたかもしれない。


 春の陽射しの中、師の使いで門道に出た徐云は、〝条の大路東西方向の大路〟を、西、すなわち都の中心部に向かって急いでいる。

(今日こそは「十論」三十三篇のうちの残り七篇、しかとこの手に借用しなければ……いや、してみせる……!)

 使いの内容はしごく単純で、高老師せんせいの二十年来の友である墨家の南宮ナンゴン タンの許を訪ね所蔵する書物を借り受けてくる、というものであった。

 徐云はこの〝使い〟を果たすのに、もう彼是かれこれ二十日ばかり通い詰めている。

 三十篇余りの編綴簡へんてつかん木簡もくかんつづり合わせて〝さつ〟=巻物状にしたもの)を受け取るのに二十日をかけているのには理由わけがある。一篇毎、受け取る際には問答が交わされ、云の回答に南宮老師が満足できなければその日はそこで受領を打ち切られる、という趣向となっていたからである。

 一聞すると偏屈な墨家が若い学士を苛めているように聞こえるが、実際は高偉瀚と南宮唐がしめし合せて徐云の悟性を鍛錬しているとみるのが妥当だろう。

 が、年若い徐云に、に想像が及ぶ筈もない。その日その日の〝勝負〟に、躍起となっているだけである。

 今日こそは、と意気込む徐云が、最初の〝条〟と〝坊〟の大路の (=交差点)に差しかかったときだった。

 甲高い男の、妙に芝居がかった声が聴こえてきた。



 都大路の辻という往来で、明璇ミンシォンは、はっきりと自分へと向けられることとなった男の糾弾の声に、ともすれば勝気なその目が吊り上がりそうになるのを堪えつつ、衆目には涼やかに見えるよう苦労しながら男の前に立っている。

 男は、妓女風情のおんなが、大望ある我が身の素衣・素裳を侮り嘲笑したと言い立て、場を取り成そうと進み出た明璇のやんごとなき出自を嗅ぎ取るや、故事を引いてさらに声を振り立てた。

「われは章弦君が士を好むと聞いてこの地に参った。

 天下の士が千里を遠しとせずにやって来たのは、君が士をたっとび妾をいやしむことを知っているからである。

 然るにいま、われは浅学の妾の面当ての如き小言しょうげんに辱しめられている。かの崇侯瑛の故事に倣えば、この娘どもの首を所望したとて大過なしと思うが、如何いかん…――」

 最後には往来の人々を煽るよう、そう問い掛けてみせる始末だった。

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