第20話 入道雲

 わんわんと賑やかな蝉。下界の暑さを笑い飛ばすかのような青空。そして、威風堂々とそびえ立つ入道雲。

 上だけ見ていれば、いかにも日本の典型的な夏である。いつもであれば、暑さに辟易としながら、駅までの道のりをのろのろと歩いていた──はずだった。


「嘘でしょ……」


 大学の駐車場。そこに、明らかな異物が

 雲のひとつと錯覚してしまいそうな、真っ白い女優帽。この暑い中結ぶこともせず、微かな風に揺られてなびく、ウェーブのかかった黒髪。クソデカサングラス。たっぷりとレースがあしらわれたノースリーブのブラウスに、紺色のガウチョパンツ。

 そんな出で立ちの人物が、大学の駐車場には不釣り合いとしか言い様のない黒塗りのリムジンをバックに仁王立ちしている。下校する生徒たちは、一体何事かと言わんばかりの視線を向けながら、駐車場の横を通り過ぎていく。様になってはいるし、本人も注目を浴びることを疚しく思っていないのだろうけど、端から見たら完全に晒し者だ。見ているこちらが恥ずかしくなってくる。


「なんだ、あの車」


 当然のように付いてきている幽霊さんも、このコメントだ。それだけ、彼女──と、その背後のリムジンは異質だった。幽霊さんにとっては、この辺りじゃなかなか見かけない形状のリムジンが注目ポイントなんだろう。

 わがままを言って良いなら、私だってこんな不審者には関わらず素通りしたい。平凡な生活を望んでいる私にとって、幽霊さん以上の非日常はこりごりだ。


「ちょっとそよぎ! 何無視しようとして──」

「声が大きい!!」


──が、思うようにいかないのが人の世の定めである。

 お腹から出したのであろうよく通る声で駆け寄ろうとしてくる女性を、私は声を被せるようにして圧倒し、ぐいーっとリムジンの方に押し込む。タイミング良く扉が開いて、私たち二人──と幽霊さんは、涼しい車内に転がり込んだ。

 ぜえぜえやっている私とは対照的に、お忍びのハリウッド女優みたいな女は全然疲れなど感じさせない顔をしている。妙に芝居がかった仕草でサングラスを外し、不敵な笑みを浮かべて見せた。


「久しぶりね、梵。相変わらず気だるげな顔だこと」

「……そりゃ、姉さんに比べたら静かに決まってるよ……」


 この前電話してきた、私の姉さん。まさか大学に乗り込んでくるとは、思ってもいなかった。


「これがお前の姉君か。一つ一つの造形は似ていないでもないが、雰囲気がまるで違う」


 姉さんと鼻先がぶつかりそうな位置に浮かんだ幽霊さんは、少々不躾なレベルで観察にいそしんでいた。少しでも姉さんが前のめりになろうものなら、ラブコメよろしいハプニングが起こりそうな距離感である。

 しかし、姉さんに幽霊さんは見えていないらしい。変わらない調子で、平然と私に話しかけ続けている。姉さんなら、見知らぬ──しかも浮世離れした、端正な顔立ちの男性──が至近距離にいたら真っ赤になって飛び退くと思うから、これは絶対に視認できていない。高校卒業時の失恋以降、姉さんは男性とのお付き合いを避けがちな傾向にあるから、尚更だ。


「でね、今から高野山の方へ行こうと思うの。梵、お昼ってもう食べた?」

「うん、学食で」

「もう、なんでこうタイミングが悪いのよ。いっしょにランチでもしようかと思っていたのに」

「梵、謝った方が良いんじゃないか」


 今の幽霊さんは、姉さんの味方らしい。せっかく会えたのだから相手に合わせろ、と言いたげな顔をしてこちらを見ている。

 いや、まあ、その言い分もわからなくはないけどね。いきなり押し掛けてくる姉さんもどうかとは思わない?


「それなら、アフタヌーンティーでも良くない? 高野山だって、カフェくらいあるでしょ」

「レベルが低かったらどうするの? あたし、食べ物にはそれなりに気を遣う派なのだけれど」

「……ちなみに、お昼はどこで食べるつもりなの」

「まだ決めてないわよ。でも、ちゃんとした料亭が良いなとは思うわね。食べるなら、最高のものにしたいじゃない」

「ちょっと待て梵、お前の姉君は贅沢嗜好なのか?」


 色んなところから名前を呼ばれると、こんがらがりそうになる。間違っても、幽霊さんに向かって話しかけてはいけない。姉さんは強気なようでいてすぐパニックになるから、最悪の場合病院に担ぎ込まれる羽目になる。

 ちょっと調べるね、とスマホを取り出し、私は幽霊さんに向けて文字を打つ。彼も伊達に付き合ってきてはいないから、すぐに察して飛んで来てくれた。


『贅沢嗜好というより、生まれた時から贅沢して生きてきた人間なんです。人よりもお金をかけることが当たり前、みたいな感じ。この車だって、相当お金かかってますよ』

「……それは、姉君が個人的に築いた財か?」

『本人の収入もあるでしょうけど、家がもともとこういう感じなので』

「それなら、お前も金持ちの家系じゃないか」

『不本意ですけどそうなりますね』


 金持ち。そうダイレクトに言われると、ちょっぴり傷付く。

 たしかに、私の実家は一般的な家庭よりも裕福だ。家族は基本的にリッチな趣味嗜好をしているし、そんなのおとぎ話の中でしか存在しないでしょ、と突っ込みたくなるようなイベントが盛りだくさん。端から見たら非日常だけど、うちの人にとってはごく普通、当たり前の日常。そんな中で、生きてきた。

 私はそういった、お金持ちな一族の中ではかなり稀な人間らしい。いわゆる庶民派。リーズナブルで、誰でも手に入れられるようなものが好き。縁もゆかりもない土地に進学したのも、一般的な大学生と変わりない生活がしてみたかったから。──三年目にして、幽霊さんというイレギュラーが入り込んできた訳だけど。


「ねえ、良いところ、見付かった?」


 姉さんが焦れったそうに聞いてくる。長い脚を組んで、そんなに長い間姉を放っとくってどういう了見、と軽く睨んでくる。


「あるにはあるけど、姉さんは納得しないかも。普通のカフェとかで良いなら、それなりに候補はあるよ」

「あんたとしてはどうなのよ。納得して入れそうな場所、あるの?」

「私はどこでも大丈夫」

「出た。一番反応に困る回答」

「全くだ。端から思考を放棄している」


 かまちょ二人で私を責めないで欲しい。本当にどこでも良いんだって。

 姉さんはわかったわよ、と大袈裟にため息を吐く。舞台女優が本業なんだから、もう少しナチュラルにできないものか。


「今回はあんたに譲ったげる。あたし、この辺りはからきしだもの。外れを引いたら台無しだわ」

「私も行ったことないところだけど」

「でも、あんたの食の好みはわかるもの。庶民派ではあるけど、馬鹿舌って訳じゃないし……あんたが食べられるならあたしだっていけるわよ、多分」

「毒味か。物騒だな」


 本当にそう。姉さんは悪気なく、すぐ私を盾にしたがる。蝶よ花よと育てられた人だし、私のことを使い捨てるつもりで言ってるんじゃないってわかるから、一応許してはいるけどね。

 何にせよ、姉さんは私の大事な家族の一人だ。家族の好みとは合わないけど、それでも関係が険悪って訳じゃない。むしろ仲の良い家族だと思う。姉さんに限らず、一人暮らしってだけで心配していちいち連絡してこようとするのはうんざりしなくもないけれど。


「何はともあれ、お前たちが仲良しとわかって一安心だ。邪魔者は退散するとしよう。姉妹水入らずで出かけると良い」


 一通りの流れを見守っていた幽霊さんは、言いたいだけ言うとそのまま車内から出ていった。気を利かせたつもりなのだろうか。それにしてはまじまじと姉のことを観察していた。

 まあ、姉さんと会えて嬉しいのは事実だ。今日くらいは妹として、素直になっても良いだろう。


「そうだ、私は電車で行くから、駅までで良いからね」

「あんたねえ……」


 それはともかく酔うのは嫌だ。車で高野山上に行くのは無茶だと、無免許の私でもわかる。

 結局、公共交通機関に信用を置いていない姉さんは派手に車酔いした。グロッキーな顔で出てくる彼女を他所に、運転手さんがやりきった、とでも言いたげな、達成感に満ちた顔をしていたのが印象的だった。

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