第18話 群青
この季節になると、旅番組はおのずと避暑をテーマにする。避暑地と言えば軽井沢のような山間部を思い浮かべる人も多いだろうが、それと同時に臨海部のリゾート地なんかも人気だ。特に海から遠い地域だと、その景色はやたらと特別に映るものである。
「ここに行きたい」
会津生まれ会津育ち、そして会津で死んだ幽霊さんも例外ではないようだ。テレビの画面を指差して、好奇心とは真逆の平坦な声で言う。
なんだなんだと視線を移せば、そこには深い群青色。どうやら青の洞窟について特集しているらしい。
青の洞窟、と言われるとイタリアのが有名だが、日本にもいくつかある。というか、そんな大盤振る舞いして良いの? と聞きたくなるくらいの数だ。何なら私の実家近くにもある。姉が片思いしていた同級生の男の子とデートで行って、なかなか良かったと言っていた。ちなみに高校の卒業式でフラれ、後に恋愛相談をしていた姉の友人と付き合っていることが発覚して姉は荒れに荒れた。私は行ったことがない。
「
何はともあれ、幽霊さんにとっては魅力的な場所らしい。すいっと私の前に飛んで来て、突拍子もないことを言い出す。
そして、私の名前がわかった直後からこういう呼び方になった。いきなり下の名前で呼ぶのってどうなんだろう、と思わなくもないけど、幽霊さんの性格を鑑みれば仕方ないことなのかもしれない。この人、不思議系にしては珍しくやたら距離感近いし。
「あのですね、幽霊さん。仮に生まれ変われたとして、その時に私とやりたいことリストが残っているとは限らないし、そもそも私のこと自体忘れてる可能性が高いと思うんですが」
「やってみなければわからない。それに、これほど関わっているんだ。良い感じに引き合うだろう」
「じゃあ幽霊さん、聞きますけど、看取ったお友達の生まれ変わりと今の世で会えたことありますか?」
「あまり正論ばかりぶつけると嫌われるぞ」
「話をすげ替えないでください」
つまり、再会が叶ったことは一度もないのだろう。叶ったところで、幽霊さんは見えない。……もしかしたらあるかもだけど、そうしたら私にあるかないかわからない前世が旧幕府軍の戦闘員になってしまいかねないので考えないでおく。今以上に変な絡まれ方をされるのは御免だ。
頭でっかちめ、と唇を尖らせながら、幽霊さんは私の周りをくるくる回る。バターになっても知らないよ。
「つくづくお前が羨ましい。生きている身であれば、乗り物に乗れる。旅行に行き放題ということだ。どこであっても自力で飛んで行く必要のある俺とは大違い。それなのに、お前の休日ときたら家にいるばかりだ。ああ、なんと妬ましい」
「乗り物に乗るのもそうですけど、遠出するってなったら旅費がかかるんです。努力すればどこへでも行ける幽霊さんがとやかく言えることではないと思います」
「世の中にはな、できる努力とできない努力がある。それならお前は
「さすがに全部は無理ですよ」
「ほら見たことか。それと同じだ」
「
心の憂え
蜉蝣の翼 采采たる衣服
心の憂え 於にか我歸り
蜉蝣掘閲して 麻衣雪の如し
心の憂え 於にか我歸り
「いきなり詩経を
伝わったようで何より。現代人だから学がないと侮ってもらっては困る。
はあ、と幽霊さんはとっくに止まっているはずの息を吐き出す。つまらなそうに私のそばを離れ、またテレビの方を向いた。
「こんな思いをするくらいなら、一度くらい会津の外に出てみるべきだったな。尤も、当時と
「幽霊さんの家って、藩士の家系だったんですか? 藩の外に出るのって、そんなに厳しいものなんでしょうか」
「そりゃお前、黙って脱藩はまずいだろう」
「いえ、そういうのではなくて……。認められた上でに決まってるじゃないですか」
私でも会津藩が厳格な精神の上に立っていたことはわかる。会津でなくとも、許可のない脱藩は重罪とされていた。長州では割と甘かったので脱藩常習犯がいたと言われているけど、会津ではそうもいくまい。厳しいところだと、死刑が命じられたとの記録もあると聞く。
幽霊さんは動いていないであろう心臓の辺りを撫で下ろして、あるにはある、と答えた。
「日新館で優秀な成績を修めた者は、遊学や
「幽霊さんは、進学志望じゃなかったんですか?」
「俺は不真面目だったからな。よく寝ていたし、たまに講義をすっぽかすこともあった。つまみ出されなかっただけ幸運だったよ」
「ええ……」
「そう引くな。ぎりぎりのところで持ちこたえていたさ。今となっては反省している」
いつの時代にも、不真面目な生徒はいるものだ。
私はまともに授業を受けなくても好成績を修められるような天才問題児ではないので、平常点を欠かすことのないよう努力している。一限の入っている日は、低血圧を押してでも登校した。一年生の時は必修科目が一限に入っていることも多かったから、なかなかハードなスケジュールを組んでいた……と思う。遠方から登校している人は、もっと早起きしているだろうから、あまり大きな声で言えたことではないけれども。
でも、いくらサボり癖があったとしても、幽霊さんは頭が悪い訳ではない……はずだ。さっきだって、すぐに詩経の蜉蝣と見抜いたし、それなりに学はあるのだろう。単純に、おとなしく座って勉強するのが苦手なのかもしれない。
「こういった観光地や、外国の面白い場所について学ぶなら、苦ではないのだがな。あの頃の講義はひたすら眠くて敵わん」
話していたら
「私以外には見えないんですし、大学の講義を聞いてみたらどうですか。意外と面白いかもしれませんよ」
「実は既に幾つか聞いている。憲法の話は退屈だった」
「興味のある分野を聞きましょうよ、そこは」
「時間割があるだろう? お前に合わせて行っているから、制限があるんだ」
「私のせいみたいに言わないでください」
「言ってない」
「顔が言ってるんです」
返す言葉が見付からなかったのだろうか。幽霊さんは大人げなく頬を膨らませて、空中で体育座りをした。わかりやすくむくれている。この人はいつになっても、変なところで子供っぽい。
気付けば、青の洞窟特集は既に終わっていた。正午のニュースが流れ、幽霊さんの視線がたちどころに外れる。
「青の洞窟、か」
呟き、彼は膝頭に頬を寄せた。
「極楽なる仏土は金銀珠玉と七宝がちりばめられているという。瑠璃のみを寄せ集めて彩られた場所があるならば、こういった色合いをしているのだろうか」
それは問いではなく、個人的な疑問をこぼしただけだろう。私が何も言わずとも、幽霊さんは文句を言わなかった。
この人は、本当に不真面目なのだろうか。やっぱり、勉強を怠っていたとは思えない。
大学の図書館に、世界の美しい景色、みたいな本があったら借りてこよう。そこに青の洞窟が載っているかはわからないが、幽霊さんの気晴らしにはなるはずだ。次の登校日まで借りられていないことを、私は密かに祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます