第16話 錆び
直感的に、あ、まずい、と思った。鼻がつんとして、その後につーっと液体が垂れてくる感覚。
ほぼ反射で手を
エアコンはつけてたはずだし、
「鼻血か。表面上はそうでもないと周りに言ってはいるが、実は自分の生命すら
「状況が限定的すぎる……」
先程まではいなかったはずの幽霊さんが、玄関口からぬるりと現れて問いかけてくる。
今まで外にいたのか、外で何をしていたのか、そして何故私の非常事態を察知できたのか。問い質したいことは幾つかあったけど、今は鼻血を止めることが最優先だ。その辺りの質問は後回しにしよう。
何枚かのティッシュを鼻の穴に当て、指で鼻の付け根を圧迫する。ティッシュを丸めて詰めるよりも、こっちの方が早く止まるらしい。耳鼻科でそう聞いたので、何の効果もない……ということはないだろう。
──それよりも、だ。
「会津では
「こら、女子がクソとか言うものではない。はしたないぞ」
「いつからマナー講師に転身したんですか……」
幽霊さんの
まなあ、と一度反芻してから、幽霊さんは空中で頬杖をつく。そのまま私と顔を突き合わせた。いつもより近い。
「生きるか死ぬかが日常になると、情の深い人はどうしても重たくなるものだ。血の気の多い若者だと、それが体外に出てしまうこともある」
「その結果が、鼻血だと」
「そうだ。俺の知人が該当した。そういった場面に遭遇したのは、死後のことでな。誰に対してもつんけんとした男だったから、俺は少し驚いた」
「意外に仲間思いな方だったんでしょうか」
それだ、と幽霊さんはうなずいた。
「そいつはいつめんの中でも、年下の方でな。俺はよく
「生前もウザ絡みしてたんですね……」
「どうしようもないものでも見るような目はやめろ。俺は一人っ子だから、年下の者を見ると可愛くて仕方ないんだ。こねくり回したくなる」
嫌な表現だ。どんな絡み方をしていたのか、逆に気になる。今とそれほど変わっていないのかもしれないし、今より酷いかもしれない。
何にせよ、出会ったのが霊体の幽霊さんで良かった。触れることができる状態なら、好かれていようとそうでなかろうともみくちゃにされていたことは間違いなさそうだ。百五十年放置されていたのだから、寂しさが募る気持ちはわかるけれども。何事も節度をわきまえるのが肝心、ということか。
それはさておき、鼻血の話だ。話に聞くいつメンの彼は、一体どのような経緯でクソデカ感情を爆発させたのだろう。
「あいつは明治に入ってから、他の面々と同様に東京で働き始めたんだが……だいぶ仕事が落ち着いてから、また集まろうということになったらしくてな。その時は酒も入っていたから、やけに饒舌で……ふふ、面白かったな、あれは。思い出すだけで笑いが込み上げてくる」
「やめてあげましょうよ……」
「良いんだ、もう故人だし。せっかくだから、奴の仕草や口調を再現しようか」
「祟られても知りませんよ」
「大丈夫だ。どうせ俺も死んでいる」
自分は祟りを成功させたというのに、その自信はどこから来るのだろう。いつかしっぺ返しを食らっても知らないぞ。
そんな質の悪い同僚こと幽霊さんいわく、その際会津時代の話が挙がったらしい。戦後は会津に戻れず、斗南に回されたという人もいたようで、思い出話は非常に盛り上がった。そこで、唯一の死者である幽霊さんの話が持ち上がったのだという。
「あいつは真っ先に口を開いてな。初めはぼろくそに言うものだから、なんだこのクソガキは、と思いながら聞いていたんだ」
「私のこと言えないくらいクソを連呼してますよ。はしたないんじゃなかったんですか」
「俺はほら、もう人目とか気にしないから。それよりも続きだ、続き。あいつはしばらく俺の悪口を垂れていたが、ふと押し黙ってな。なんだなんだと皆が顔を寄せたら、それはもう面白いくらいのしかめっ面をしている。そして、こう言ったんだ。『死ぬのが早すぎるんだ……あの、大馬鹿は』と。そうしたら、つーっと鼻血が流れてきて、もう俺は嬉しいやらおかしいやらで、その場で大回転よ。あれは最高だった。腹がよじれるかと思った」
「待て待て待て待て」
本当に待て。これはストップをかけずにはいられない。
まとめるとこうだ。クソデカ感情の矢印の先にいたのは幽霊さんで、いつメンの彼に鼻血を流させる程、実のところは慕われていた。その死を惜しみ、悔やむ横で、霊体となった幽霊さんはテンションぶち上げで大回転していた。
ひとつ、言えることがあるとすれば。
「空気読め」
この一言に尽きる。
触れることができていたなら、私は幽霊さんをポカッと一発殴っていたかもしれない。本来ならしんみりするはずの話を、笑い話として持ち出すなんてあんまりだ。
そんな幽霊さんはそ知らぬ顔で、まあ落ち着け、と促す。お前が落ち着きすぎていて逆に怖いよ。
「仕方ないことだ。何せ俺は死んだ身で、祟りも終わらせてすっきりした身なのだぞ。そこに俺の思い出話と来たら、一周回って笑ってしまうだろう」
「気まずい思いをしたんじゃなかったんですか」
「その時は初耳だったんだ。俺以外の皆が生き残るとは思っていなかったからな。だが、事の顛末を知ってしまえば吹っ切れるしかない。俺は当面の目標を達成した後だから、何を聞いても悲しいというよりは懐かしくて仕方がなくてな。反抗期の子供の部屋から、実は尊敬している、といった手紙を偶然にも見付けてしまった親の気持ち……と言えばわかるだろうか。とにかく嬉しくて、顔がにやけるどころではなかった。悪いとは思っている」
「いっそ清々しいくらいの態度ですね。本当に、なんで成仏できないんでしょう。あの世で待ち構えている人たちも多そうなのに」
「それなんだよな。もう皆生まれ変わっている頃合いじゃないか? どのくらいの感覚で転生するかはわからないが、どうにか間に合わせたい。まだまだいじり足りないというに」
成仏してからも、幽霊さんの面倒臭さは変わらないようだ。会津戦争を生き残り、明治の世に馴染んだいつメンの皆様に、私は遠く高野山の麓から同情の念を送った。
そんなこんなで聞き役に徹していたら、いつの間にか鼻血が止まっていた。ティッシュを丸めて捨ててから、洗面所に向かう。手を洗いたいし、鉄臭い口の中もすすがなければ。いつまでも血の味を感じているのも気持ちが悪い。
水勢を最大まで上げて、じゃぶじゃぶと顔を洗う。鼻の周りにこびりついた血は、なかなか落ちてくれない。ごしごし擦れば、やっと流れてくれた。
「しかし、衣服に血が付かなくて良かったな。血抜きはなかなかに手がかかる」
いつの間にか背後に浮かんでいたらしい幽霊さんが、いつもの軽妙さで
たしかに、服に血が染みなかったのは幸いだった。ちょうど白をベースにしたシャツを着ていたから、血痕はよく目立つ。すぐに落としたとしても、痕跡を全て消すのは難しいだろう。
「食器用洗剤を使うと落ちやすいって言いますけど、この色合いじゃ痕が目立ちそうですもんね。幽霊さんの時代はどうやって血抜きしてたんですか?」
「それはもう、水洗いだ。一応さぼんなる石鹸もあったが、俺の周囲ではあまり使われていなかったからな。酷い場合は廃棄しなければならなかった」
「洗濯できる状況で、そんなに血でびしょびしょになることってあるんでしょうか」
「取っ組み合いになった時とかは、割と」
一体どんな取っ組み合いをしたのだろう。今の姿からは、泥臭く殴り合う幽霊さんは想像できない。
「なあ」
もうそろそろ大丈夫だろうというところで、幽霊さんが声をかけてくる。水を止め、タオルで顔を拭きながら、私はなんですか、と問いかけた。
「死者側としてはだな、俺を思い出してしんみりされるよりも、笑い話にしてくれた方が良い。俺の姿を想起する度悲しまれるては、こちらの気も沈む」
「……幽霊さん、それは私が死ぬより先に成仏できる可能性を見付けてから言うべきですよ」
「まったくもってその通りだ。だが、俺とていつ成仏するかわからないだろう? 大事なことは、前々に伝えておかなければ」
終活じみたことを言う。そうなることが幽霊さんの本望だとしても、何も手だてがないうちから伝えるのは性急ではなかろうか。
眼鏡をかけて向き直ると、幽霊さんは変わらず空中を漂っていた。そうして、にこりと僅かに口角を上げる。
「俺との楽しい思い出で笑ってくれたなら、俺も未練なく成仏できる。約束してくれないか」
「……もう未練はないって言ってたくせに」
「人は日々変わるものだ」
「幽霊でしょ」
それもそうだ、と訳知り顔でうなずいて、幽霊さんはすーっと壁を通り抜けて行ってしまった。どうせまだ、この部屋に居座るつもりだろう。彼が出ていくのは、きまって私に追い出される時だ。
しかし──何故、今になって成仏した後のことを話し始めたのだろう。
しんみりして欲しくない、などと言いつつ、幽霊さんもセンチメンタルになっているのだろうか。私としては結構なことだけれども、成仏した後はああしろこうしろと言われるのは何だかなあ、と思い、私は人知れず肩を竦めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます