第15話 なみなみ


「あっぶな……」


 少しぼんやりしていたのが良くなかった。学食の麦茶タンク、そこからコップに注いでいたのだが、気が付けば縁のぎりぎりまで到達していた。

 すぐに止めたから溢れなかったものの、なみなみと注がれた麦茶は戻らない。しかも、後ろに人が並んでいる。このまま運ぶしか道はない。


「やってしまったな。ドジっ子め」


 当たり前のように大学にいる幽霊さんが何か言っているが、無視してそろりそろりと空いている席を探す。

 お昼時の食堂は、一体どこから湧いてくるんだと言いたいくらいにごった返している。これは後ろの方の席も危ないかもしれない。そこまで無事にお盆を運ぶことができるのか──私の胸に、一抹とは言い難い不安がよぎる。


「須恵さーん、こっち、空いてるよー」


 ふと呼ばれた気がして顔を上げてみれば、日光を浴びてきらきら光る金髪が見えた。おーい、とこちらに向かって手を振っている。

 私にこうも友好的な態度を取ってくれる男の子は、くらいしかいない。いつもは軽く受け流すところだが、今は緊急事態だ。そう遠くないところにいる彼のもとへ、慎重に、そして確実に歩みを進める。


「浅倉君」

「いやあ、すごい混み具合だな? グループで陣取っちゃってる奴ら、もう少し詰めてくれれば良いんだけどさ」


 呼び掛ければ、相変わらず浅倉君はにこやかに応じてくれる。今日は低い位置でのポニーテール。尻尾みたいでちょっと可愛い。

 無事にお盆を下ろしてから、コップの縁に唇をつけてずずっと麦茶をすする。せっかく運べたのに、何かの拍子でこぼれたら元も子もない。お行儀が悪いとは思うけれど、ここにはいちいちマナーを注意してくるような人はいないし、良いってことにしておこう。


「須恵さんってさあ」


 あ、そうだ。浅倉君がいたんだった。

 彼はたまたま通りかかって空いた席を教えてくれたのではなく、もともと私の隣の席を使おうとしていたらしい。いつもは一人でご飯を食べる私だが、今日は彼と同席することになりそうだ。

……というか、さっき言ってたグループにこそ浅倉君はいそうなものだけど。他の友達はどこに行ったのだろう。

 そんな浅倉君は、私に何か言いたいことがあるようだ。まあ、そんなに大したことではないだろう。私は腰かけてから、何、と端的に尋ねる。


「いつもはそんなでもないけど、目を細めるとつり目っぽくなるよな」

「…………だから何?」

「その返答は冷たすぎないか?」


 忘れかけた頃に余計な茶々を入れてくる幽霊さんは、浅倉君の後ろから私を覗き込んでくる。二人と会話してるみたいで、居心地が悪い。

 幽霊さんからは冷たいと批判されたが、浅倉君に気にした様子はない。あはは、と朗らかに笑って、スプーンでご飯をすくう。彼のお昼ご飯はカレーライスだ。


「さっすが須恵さん、今日もドライだね。だから何、かあ」

「浅倉君が知って、何の得になる情報なの。それは」

「損得の関係ではないだろう。事実を伝えただけじゃないのか」

「得……得ねえ。俺の人生を揺るがす程の利益はないけど、強いて言うなら須恵さんについて新しいことを知れたから嬉しい、ってところかな」

「何様なんだお前は。女子に対して馴れ馴れし過ぎないか」


 幽霊さんこそ、どっちの味方なんだ。突っ込みたいけど、行動に移したら私は虚空に話しかける奇特な人間になってしまう。唐揚げを口に詰め込んで我慢するしかない。

 でも、言われてみればたしかに浅倉君は馴れ馴れしい。私は基本的に素っ気ない態度しか取らないのに、気にした様子もなく話しかけてくる上に友好的だ。一般的な価値観だとどうかは知らないが、私からしてみればいっしょにご飯を食べるなんて相当仲が良いと認識している相手でないとできない。してや、他人の顔を観察するなんてそれ以上だ。

 ちら、と浅倉君を一瞥すれば、彼はすぐに気付いて、ん、と首をかしげる。今実行しなければ忘れてしまいそうだし、思いきって聞いてみよう。


「浅倉君って、度々私に絡んでくるよね。なんで?」


 何か、口走ろうとしていたのだろうか。浅倉君は唇を僅かに開けてから、きまり悪そうにまた閉じた。


「お前には心がないのか。もう少し聞き方というものがあるだろうに……」

「ご、ごめん……」


 そして幽霊さんからはダメ出しをされる。本当に、この人はどのポジションにいるのだろう。あまりにもぬるっと割り込んでくるから、反射で謝ってしまった。

 しかし、タイミングが悪くなかったことが幸いしてか、怪訝そうな顔を向けられることはなかった。浅倉君は良いって、と眉をハの字にしながら笑う。


「そういえば、考えたことなかったかも……って思ってさ。何となく、直感で気になるっていうのかな。俺と須恵さん、気が合いそうな感じがあるんだよね。似た者同士、とまではいかないかもだけど、なんだろう……ずっといっしょにいても、疲れなさそうなイメージなんだよね」

「そうかな……」


 私は疲れるよ、とは言わなかった。それはさすがに空気を読まないなんてレベルじゃない。

 浅倉君は前述のように言ったけど、私としては首をかしげたくなる。

 浅倉君と私──自分のことだからよく見えてないだけなのかもしれないけど、そこまで似通った部分はあるだろうか。むしろ正反対だと私は思う。派手で気さくでグループの中心にいるのが当たり前、みたいな見た目の浅倉と、そんなに目立たず口数も少ない、基本単独行動な私。改めて振り返ってみれば、面白いくらい対照的だ。

……もしや、私の感覚がおかしいのだろうか。端から見たら、私と浅倉君って結構共通点あったりする?


「いや、そんなに似ていないと思うぞ」


 第三者の幽霊さんから見たら、そうでもないようだ。少し安心した。

 むしろ、幽霊さんの方が私と似た部分が多そうなものだけど……この場で私しか見えていない存在の話をするのはやめておこう。陽キャの情報伝達網は凄まじいと、昔から決まっている。明日になって私が電波だという話題がゼミを駆け巡っていたら、私はどんな顔をして登校すれば良いのだろう。とんだ悪夢だ。


「とにかく、俺はもっと須恵さんと仲良くなりたいんだよね。せっかく同じゼミなんだし、気が向いた時にでも話しかけてよ。俺、めちゃめちゃ忙しいって訳でもないし」


 浅倉君はこう言う。どこまでが本心なのかわからないし、私が彼と仲良くすることで得られるメリットはあるのだろうか。以前、彼は私のことを謎だと言ったが、私としては浅倉君の思惑の方が謎に思える。この人は何を思って、私に絡んでくるのだろう。いくら考えても、その真意が掴めない。


「なんで私と仲良くしたいの? 浅倉君、他にも友達いっぱいいるでしょ」

「お前は疑問ばかりだな。なんで、どうしてと。そこまで理由を明らかにしないと気が済まないのか」


 幽霊さんから文句を言われつつ、私は問いかける。そりゃそうだ、何もわからないままなあなあで話を進めるなんてできない。相手が仮に邪な気持ちを抱いていたら、洒落にならないし。

 千切りキャベツを頬張りながら待っていると、浅倉君はそーだなー、と少し上を向いた。何かあるかと思ったのだろうか、幽霊さんの顔も同じ角度になる。二人して正岡子規の写真みたいだ。


「いるにはいるけど、俺、ずーっと賑やかなのって疲れるんだよな。なんだろう、テンションが長続きしないっていうの? 皆仲良くしてくれるし、縁もゆかりもない俺をグループに入れてくれるのは嬉しいけど、そのノリに付いていき続けるのは無理がある。こればっかりは、俺の個人的な感覚が問題なんだと思うけど」

「意外。いつもは集団で、呼吸レベルってくらいわいわいしてるのに」

「呼吸は言い過ぎ。俺だってさ、カラオケとか飲み会とか好きだけど、頻繁に行くとさすがにげんなりする。その辺り、俺は皆と合わないのかもしれない。でも、それを正直に言うと、変なのとか、不思議ちゃんみたいに言われるんだ。ちょっとからかわれるだけだから良いんだけど、そんなに変かな、って思わずにはいられないんだよな」


 その点、須恵さんは妥協とかしないでしょ、と浅倉君は再度こちらに視線を戻した。


「周りに合わせて無理するとか、全然しないじゃん。だからこう、ああ、俺だけじゃないんだなーって思って。同時に、ちょっと憧れる」

「憧れる程のものじゃないよ」

「憧れる程のものじゃないぞ」


 変なタイミングで幽霊さんと被ってしまった。私以外に聞こえないのを良いことに、割とはっきりうわ、と言われた。うわってなんだ、うわって。

 何故私が渋い顔をしたのか、本当の理由を知らないであろう浅倉君は、それでもだよ、と茶目っ気たっぷりにウィンクした。こういうの、日常的にやる時点で私とは真逆だと思う。


「俺にとっては、すごいことだから。一同級生として、リスペクトさせてよ。そんな大それたものじゃないけどさ」

「リスペクト……」

「そーんな真剣な顔しないでよ。須恵さんはさ、普段通りの顔が一番似合う。てな訳で、じゃね」


 普段通りの顔って何?


「そこは笑顔とかじゃないのか。一体どういう顔をすれば良いんだ」


 去り行く浅倉君の背中に、私と幽霊さんは疑問を投げ掛ける。視線と霊体の声が彼を振り返らせることはなく、しばらく微妙な空気がその場に漂うだけだった。

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