第11話 緑陰
この辺りは緑豊かだ。周囲を山麓に囲まれているから、それは私の生活範囲に限った話ではないのだけれど、海沿いの街で生まれ育った身にとっては新鮮である。もう三年目になるから、夏場の青々とした匂いや新緑の瑞々しい色彩にはある程度慣れてしまったけれど、やはり改めて見ると爽やかな気分になる。
一昔前なら、こんな緑一色の中で涼しさを見出だすこともできただろう。しかし、今となっては緑陰くらいで猛暑は凌げない。日陰で休んでいるくらいなら、急いで帰宅してエアコンの恩恵に
ならば何故、私は木陰でかれこれ十五分は立ち止まっているのか。その問いに対する答えはたったひとつだ。
「……止まないな」
私の側に浮かんでいる幽霊さん──今日は大学に顔を出さず、最寄り駅に迎えに来た──が目線を上げる。
天気予報は晴れのはずだった。現に今も晴れていて、太陽がこれでもかと照り付けている。
同時に降り注ぐ雨。いわゆる天気雨が、私の帰宅と重なったのだ。
不幸なことに、私は傘を持っていなかった。大学の方ならコンビニもあるけど、今私がいるのは自宅側の最寄り駅。……から、少し歩いたところ。屋根のある駅に留まっていればまだましだったけど、今雨宿りのために頼れるのはたまたま近くにあった大きめの木のみ。令和には似つかわしくない光景である。
どうしてこういう日に限って忘れ物をしてしまうのだろう。数少ないコンビニは家と反対方向だし、自宅に向かうとしても歩いて十分以上はかかる。手立てはあるけれど、どう動いたら良いかわからない。実質、詰み。待つか走るか、究極の二択を迫られている。
「幽霊さん、天気とか思うように操れたりしません?」
ダメ元で聞いてみた。せっかく横にいるのだから、彼にできることがあれば頼りたい。普段は幽霊さんの望む通り、話相手になっているのだし。
「無理だな」
そして、返ってきたのは無慈悲な一言だった。もともとそこまで期待してはいなかったので、ショックは受けない。やっぱりか、という落胆があるだけだ。
仕方のないことだ、と割り切るしかない。祟りを成功させたからといって、生前の幽霊さんは恐らくオカルトとは縁のない普通の人間だった。シャーマンみたいなことができる確率は極めて低い、と考えるのが妥当だろう。
「……今、何か失礼なことを考えていないか」
「まさか」
勘は良いらしい。なんなんだ一体。
拍子抜けした気分のまま、空を見上げる。降り注ぐ
別に、早く帰らなければならない用事がある訳ではない。単に、個人的な気持ちから帰宅したいのだ。いつまでも自宅の外にいると、精神的に疲れる。
「どうするんだ。ずっと黙られているとつまらん。早く決めてくれ」
決めてくれ、というのは、濡れて帰る覚悟を決めろ、ということだろう。選択肢ですらない。
幽霊さんもまた、私の帰宅を望んでいる。彼の場合は家にいるのが好きなのではなくて、私が一人になれる自宅でないとあまり話してもらえないことが気に入らないのだ。
この前、浅倉君に花火を押し付けた時、幽霊さんに驚かされて恥をかいた。もう二度とああいうことはするな、という意味を込めて、外では極力彼に構わないことにしている。しれっとした顔をしてはいるが、幽霊さんなりに堪えているのだろう。彼にダメージを与えるには、無視するのが一番効く。
ええい、ままよ。こうなったら覚悟を決めよう。家に帰ればシャワーを浴びられる。どうせ夏だし、少し濡れて帰るくらいがちょうどいい。
私は木陰から飛び出す。無我夢中で両足を動かす。すぐに頭が冷たくなったけれど、それと同時に汗も吹き出す。暑いのか冷たいのかよくわからないけど、そんなことは気にしていられない。私はただ、家路を急ぐだけだ。
「…………お前…………」
しばらく走っているとさすがに疲れてきた。でも止まってなんかいられない。立ち止まったら、私はただの濡れ鼠になってしまう。
何か言いたげに並走する幽霊さんなど気にも留めず、私は足を止めることなく進み続ける。息は上がっているし、走り始めた時のスピードとは程遠いけど、それでも走りの姿勢を歩きに変えるつもりはない。一度決めたことなんだ、なにがなんでも最後まで貫き通してやる。
ぜえぜえ言いながら橋を渡り、水溜まりを踏みつけて住宅街に入る。雨はだいぶ小降りになった。アパートまであと少し、もう喉がからからだ。
足を引きずり、雨か汗かわからない水滴を拭いながら進む。時折咳き込みながらも、どうにか自室にたどり着き、内側から施錠してドアチェーンもかけた後、私はフルマラソンを完走した選手のようにその場へ倒れ込んだ。
「疲れた…………」
「お疲れ」
本当に疲れた。明日は絶対筋肉痛だ。まだ休日には程遠いのに、どうしてこんな無茶をしたんだろう。数刻前の決断を、今更ながら私は恨む。
ここで幽霊さんが飲み物やタオルを持ってきてくれたのなら、幾分か見直せたかもしれない。しかし彼はものに触れることができないので、頭上から私を余裕の表情で見下ろしてくるだけだった。悪気はないのだろうけど、妙にイラッとする。
「ところで、だ。落ち着いたところでひとつ、言いたいことがある」
息切れして上手く話せない私を他所に、幽霊さんはいつもの調子で覗き込んでくる。当たるはずのない髪の毛が、私の頭上から降りかかった。
「お前はその……足が遅いな」
「う…………うるさい…………」
息も絶え絶えだったが、これは文句を言ってやらねば気が済まなかった。
指摘された通り、私はあまり足が速い方ではない。というか、運動全般が苦手だ。これは私が諸々を怠ってきたからという単純な理由だけではなく、恐らく遺伝と思われる。父の方はそうでもないが、母方の家系は皆体を動かすのが得意ではない。そのため、多少運動ができなくても仕方ない、と両親や親類からはいらぬ慰めをもらうことが多い。
どうせ幽霊さんは私よりも運動神経が良かったのだろう。剣の腕だってそこそこ立つようだし、まず生まれ育ってきた環境が違う。幕末の武士と現代の女子大生を同じ物差しで見る方がどうかしていると思う。
「まあまあ、そう恨めしげな目で見るな。お前が訓練を積んでいないことは俺にもわかる。それをとやかく言うつもりはないよ」
私の視線をするりとかわして、幽霊さんは我が家のように部屋の奥へと飛んで行く。出会ってからそれなりに経つけど、こんなに馴染まれるとは思わなかった。
いつまでも倒れてはいられない。まずはエアコンをつけて、その後にシャワーでも浴びよう。
よっこいしょ、と呟きながら立ち上がる。体の節々が痛かったが、不思議と気分はすっきりしていた。
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