第9話 団扇

 高校時代の友人が、ずっと行きたいと思っていたミュージカルのチケットを獲得できたらしい。グループLINEには壮絶な歓喜のメッセージが届けられ、推しからのファンサを引き出すため、鋭意団扇作成に励んでいるとのことだった。彼女が観に行くのはいわゆる2.5次元ミュージカルなのだ。

 観劇は好きだけど、その辺りは守備範囲外だ。そのため、どんなデザインがいいかな、と制作過程をアップする彼女に、私はこれといったアドバイスができない。しない方が良いと思っている。いくら友人とはいえ、素人にあれこれ口出しされるのは良い気分じゃないはずだ。

 ファイト、とスタンプを送る。私はもともと返信が早い方ではないし、長々と文を連ねる性質たちでもないから、文句を言われることはないだろう。……私だけ省いたグループが別にある、とかでなければ。


「なんだ、それは」


 そして、私がスマホをいじっていても幽霊さんはやって来る。休日はほぼ一日私の部屋に入り浸っているので、頃合いを見計らって追い出さなければならないのが少し面倒だ。一定時間一人でいないと、ストレスが溜まる性分だからね。

 さて、幽霊さんはファンサ団扇の写真に興味を示したらしい。私の後ろから顔を突き出して、小さなスマホの画面を凝視する。


「なになに……『ハート作って』……ああ、あの尻を上に向けた記号のことか」

「……言い方、もう少しどうにかならないんですか」

「……逆さまの尻?」


 どう足掻いてもお尻からは逃れられないようだ。もっとこう、桃とか思い付かないんだろうか。

 はあ、とため息を吐き、私は両手でハートを作る。多少不恰好だけど、きっと幽霊さんはファンサを知らないだろうから気にしないでおこう。


「このハートマークは、心臓や心を表すこともあって、可愛い記号として知られているんです。こうやって両手で作って欲しいって、あの団扇は訴えているんですよ」

「ほほう……だが、何故心臓の形にして欲しいと望むんだ? お前の心臓を寄越せ、ということか?」


 憶測が物騒すぎる。私の友人は蛮族じゃない。


「ええと……この子はこれから、舞台を観に行くんですよ。そこに、好きな俳優さん……役者が出ているみたいで。その方に何かしらの反応をしてもらいたくて、こういう団扇を作っているんです。あとハートマークにそんな野蛮な意味はありません。手で示せて、可愛いから希望してるだけだと思います」

「なるほど。歌舞伎役者に騒ぐ女と似たようなものか。──しかし、そこまでこの形は可愛らしいか? 俺はこの、目潰しの形の方が好きなんだが……」

「ピースサインですね。目潰しではないです」


 なんだか今日の幽霊さんは発言が物騒だ。機嫌が悪い訳ではなさそうだし、単に巡り合わせが悪いだけだろうか。それにしたって発言の治安がよろしくない。

 せめて蟹のハサミって言いましょうよ、と指摘しておく。横ではなく、縦に指を立てて欲しい。

 そんな私の発言を受けてのことだろうか。ちょきちょきと両手でピースしながら、幽霊さんは再度ファンサ団扇に目を落とす。


「この団扇、手作りなんだな。相当な労力がかかるだろうに」

「それだけの熱量があるってことなんですよ。推し──すなわち好きな人と会える、またとない機会なんですから。入れられるだけの力は入れておきたい、ってことじゃないですか」

「お前には、その推しとやらはいないのか」


 未だ両手ダブルピースを下ろすことなく、幽霊さんが質問を飛ばしてくる。ポーズのせいで、なんとなく楽しそうだ。

 推し……推しかあ。私は少し考えて、ふるふると首を横に振る。


「芸能人とか、役者とか、その辺りに熱中することはないので……今のところは、いないかな。何か作品を見聞きするにしても、一人に熱を上げることってなかなかありませんし」

「そうなのか? 変わっているな。物語を読むにしたって、好きな人物ができるものではないのか?」

「うーん、どうでしょう。私、物語そのものをひっくるめて好き、って感じなので。特定の誰かを推すってことは、経験したことがないかもしれません」


 これは友人からも変なの、と言われる私の性分のようなものだ。ひとつのキャラクターや人物ではなく、彼ら全てを含めた作品が好き。だから、端から見ればいわゆる『箱推し』に見えるのだそうだ。それはそれで間違っていないと思うけれど、私は登場人物のみを注視しているのではない。言葉で表現するのはなんとも難しいところである。

──ああ、でも、特定の何かが好きっていうのなら、なくもない。


「推しっていうのとは、少し違うかもしれないけど……この人だからこそいい、っていうのは、私にもあります」


 スマホでプレイリストを開く。ストアで買えるものではなく、録音した音声をダウンロードしたものだ。

 幽霊さんが耳を澄ませる。音量は最大にしているから、きっと問題なく聞こえているはずだ。


「これは……音楽か? 日本の楽器ではないな。俺の知っている楽器の音ではなさそうだ」

「ピアノです。洋琴って呼び方もあるけど、前者の方が有名だと思います」

「こういう系統の音楽が好きなのか?」

「はい。クラシックは日常的に聴いてます。これはお気に入りの奏者のプレイリスト……曲をまとめたものです。弾く人によって、やっぱり雰囲気とか違うんですよね」


 ふうん、と幽霊さんは声とも吐息ともつかぬ相槌を打った。ふわっと浮いて私に近付くと、顔をこちらに向ける。


「これは、何という曲なんだ。題名はあるのか」

「気になります?」

「少し。あとはお前の一番好きなものが知りたい」


 好きなものについて話を聞いてもらえるのは、存外に嬉しい。身内ならともかく、学友の中にクラシック好きな人はほとんどいなくて、いざ好きだと明かすと高尚な趣味、としか受け取られなくて悲しい思いをすることが多かったのだ。

 落ち着け、焦ったらいけない。矢継ぎ早に話して、ドン引きされたらおしまいだ。これは初心者への説明。自分勝手に話して良い場所じゃない。


「今流してるのが、リストの超絶技巧練習曲ちょうぜつぎこうれんしゅうきょくの変ロ長調こと鬼火。で、私の一番好きなのがドビュッシーの月の光。すぐ流します?」

「ああ、そうしてくれ。……しかし、これが練習曲なのか? 相当雄大な音程に感じられるが」

「そうらしいですね。私、楽器はからきしなので実際に弾いてみないと細かいことはわからないと思いますけど……超絶、と付くからにはかなり難しいみたいです。一種の登竜門、って感じじゃないでしょうか。完璧に弾けるのは一握りの人だけなんですよ」


 言いつつ、プレイリストをスクロールして月の光を再生。先程とは違う、落ち着いて静かな旋律が流れ始める。やっぱり私は、こっちの方が好きだ。

 幽霊さんは空中で頬杖をつくような姿勢をとって、なるほど、とうなずく。


「欧州のものだからと何でももてはやす風潮は好きではないが、自主的に触れてみるのは悪くない。お前が好きなものも知れたことだし」

「私が好きだから幽霊さんも好きになれ、ってことじゃありませんよ」

「わかっている。そういうことではなくて、普段あまり自分のことを明かさないお前が、趣味嗜好をひとつ教えてくれたんだ。嬉しく思うのは当然だ」

「そんなに大袈裟なことでもないと思うけど……」


 そうは言うが、たしかに私は他人に自分の情報を開示することが少ない。あれこれと難癖を付けられるのが面倒なのだ。

 知らず知らずのうちに、幽霊さんとは打ち解けてきたということだろうか。悪い気はしないけど、大学に入学してから一番親しいのは幽霊だ、と認めるのはなんだかなあという気がした。そんなこと、周りには口が裂けても言えない。言うつもりも、機会もないだろう。

 でも、幽霊さんが私の趣味をある程度把握してくれたのならそれに越したことはない。私も多少は遠慮していたのかもしれない、と今更ながら思う。


「暇な時、DVDでも流します? 私、オーケストラとかオペラとかも結構好きなんで」

「それは……一体、どのようなものなんだ?」

「大人数で色々な楽器を演奏したり、そこに演劇が入ったりするんです。耳だけで聴くよりも楽しいと思います。そこのテレビで流すので、音質とかはそれなりですけど」

「構わない。は好きだ」


 人と関われない幽霊さんにとって、一方的に視聴するテレビは相性が良いようだ。私がつけていると、隣でじっと視聴していることが多い。どういったジャンルが好きなのかはわからないが、娯楽になるならなんだって楽しめるのかもしれない。コマーシャルも真剣に見ているし。

 よし、こうなったら初心者向けから紹介してみるか。まずは喜劇と悲劇、どっちが好きそうなのか見極めよう。あと、落語の死神は知っているみたいだったから、類話であるクリスピーノと死神を見せてみるのも良さそうだ。その場合、DVDを新しく仕入れなくちゃだけど、そのくらいなら別に支障はない。

 考えているだけでわくわくしてきた。やっぱり、好きなことを考えている時が一番楽しい。


「ああ、そういえば」


 ん、と顔を上げれば、幽霊さんと目が合った。彼はにこ、といつになく笑顔で言う。


「お前が一人でいる時、割と大きな声で口ずさんでいるのも、このクラシックとやらか」

「…………えっ」


 あれ、なんだろう。上手く息ができない。

 硬直する私を他所に、幽霊さんは朗らかな口調で続ける。


「気付いていなかったのか? お前はよく鼻歌を歌っているぞ。聞き慣れない音程だったので詳しいことはわからんが……なるほど、合点がいった。今度から注意深く聞いてみよう。これから知る曲かもしれないからな」


 ちょうど、曲が切り替わる。私の気持ちと連動するように、特徴的な動機が入る。本来ならオーケストラで構成されるものだけど、今回はピアノソロ。それでも、私の内心を表現するには十分過ぎた。

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。交響曲第5番、いわゆる、『運命』。

 私はしばらくの間、羞恥のあまり床を転げ回った。独り暮らしだからと油断し、それゆえに定められた結末であった。

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