第4話 滴る
今年の梅雨はあっという間に過ぎ去り、まだ六月も終わらないうちから凄まじい猛暑がやって来た。汗かきで日焼けすると肌が真っ赤になる私にとっては、試練のような季節である。
山の近くだし涼しいんじゃないか、と来たばかりの頃は侮っていたけれど、むしろ盆地は酷暑の土地だ。今となっては、海に近かった地元の方が涼しかったと断言できる。まあ、暑いことに変わりはなかったから、帰省しても避暑は叶わないだろう。日本の夏は最早一種の災害と言える。
日が暮れかかっていても、その暑さは健在。私は今日も汗だくになって帰宅した。部屋のエアコンはタイマーをセットしてあるので、扉を開けた瞬間に爽やかな冷気が吹き付けてくる。
「寒すぎる」
そして、壁の隅で膝を抱えている幽霊さんが一人。
体育座りのまま横たわった、といった姿勢の彼は、滴る汗を拭う私を恨めしげに睨む。この表情で恨めしや、と言われたらすごく様になるんだろうなあ、と呑気なことを考えてしまう辺り、私は疲れている。
「なんだこの寒さは。初めは涼しいと思ったが、長時間居座るには辛すぎる。人の身では風邪を引くぞ」
「幽霊さん、寒さとか感じるんですね」
「当然だ。この世の空気中を漂っているのだから」
「それじゃあ、暑さもわかるんですか?」
「無論。しかし、俺は既に死んでいるからな。体温がないからかは知らんが、寒さの方がよくわかる。俺としては、暑い方が楽だ。汗とか出ないし、日焼けもしない」
「ああ、だからこの前電子レンジに手を……」
「うん。どのくらい熱いかと思ってな。生きている身でやるべきではないことだとはわかった」
「駄目じゃん……」
幽霊さんの無謀な挑戦はともかく、暑さが軽減される点に関してはちょっと羨ましい。だからといって死にたくはないけれど。
だが、幽霊さんの意見はともかく、私には今の温度が心地よい。荷物を放り出すと、すぐに冷凍室を開ける。こういう時のために、アイスを買っておいたのだ。
「なんだ、そのけったいな色の食い物は」
メロンソーダ味のアイスクリームになんてことを言うのだろう。たしかに、着色料の権化ではあるけれども。
コンビニでもらえる小さい木製のスプーンを舐めてから、私はわかってないな、と肩を竦める。
「氷菓って言えばわかりますか? 冷やして食べるお菓子です。変なものは入ってないので安心して見ていれば良いですよ」
「美味いのか」
「それはもう」
暑い日にはこれですよ、と言いつつ、私は手と口を動かす。早めに食べないと、溶けて残念なことになってしまう。
そんな私の横で、幽霊さんはアイスをじっと凝視していた。食べたい、という欲望が丸見えだ。故人には似つかわしくない表情である。故人らしい顔というのがいまいちわからないけど、その辺りは指摘しないで欲しい。私が視認できる幽霊は、今のところ側にいる彼だけなのだ。
「現代人、許すまじ」
そして幽霊さんは、アイスひとつで現代人全てに嫉妬していた。大人げなさすぎるでしょ。
「じゃあ逆に、幽霊さんの時代はどうやって暑さを
いくら昔の人とはいえ、何も対策していなかった訳ではあるまい。せっかくなので、先人の知恵を聞いてみることにした。まあ、今の私には電化製品という心強い味方がいるので、実践の機会はそうそう来ない……と思う。頼むから来ないで欲しい。
幽霊さんはふむ、と顎に手を添えてから、どことなく清々しい顔できっぱりと言った。
「滝行、だな」
それはさすがにワイルド過ぎる。
私の視線を感じ取ったらしい幽霊さんは、仕方のないことだ、とかぶりを振った。
「男所帯だったからな」
「そこまで仕方ないことではなくないですか?」
「何回否定の言葉を入れる気だ?」
「そこは言葉の綾として流してくださいよ」
「なるほど、滝行だけに」
「わかったぞ、みたいな顔でうなずかないでください。違うから」
違うのか、と幽霊さんは眉尻を下げる。なんでちょっと悲しそうなんだ。
「なんというか、幽霊さんが滝行って意外でした。もっとこう、儚げな印象があったので」
「儚げ」
「繰り返さないでください、私が変なこと言ったみたいじゃないですか。私は幽霊になった幽霊さんしか知らないので、多分死者フィルターかかってるんじゃないかなって思います」
「ふぃるたあ」
「偏見というか、先入観というか……」
いちいち説明するのって難しいな。幕末の人みたいだし、横文字にも少しは慣れてるかと思ったけど、そうでもないみたいだ。
食べ終わったアイスの入れ物を水洗いしてからごみ箱に捨てる。虫が寄ってきたら大変だ。大抵の動物は好きだけど、連中とだけは和解できる気がしない。滅べとは言わないけど、私の目の届かないところにいて欲しい。テリトリーに無断で入ってくるというだけで
考えたくもない天敵のことを考えていた矢先、あ、と幽霊さんが声を上げた。なにやら考え込んでいたらしい。良い答えでも見つかったのだろうか、ポーカーフェイスではあるけれど、少し雰囲気が嬉しそうだ。
「お前の、そこの小部屋、あるだろう」
「小部屋……って、ああ、洗面所のこと?」
「それだ。その奥に手動の滝があることを、俺は知っているぞ」
「シャワーね」
滝って程の量は出ない。私は髪の毛もそこまで長くないし、無駄遣いもしたくないから、最大まで水圧を上げずにお風呂を済ませている。節水、大事だもんね。
「お前がその、さわあとやらで水浴びをするのと同じだ。ついでに煩悩が消えたり消えなかったりする」
「完全には消えないんですね。あとシャワーです」
「言いにくいんだ、大目に見てくれ」
「はいはい。でも、シャワーは滝より便利ですよ。煩悩は消えるかわかんないけど、温度調節ができます。寒いのなら幽霊さん、お湯浴びてみます?」
温度を感じられるなら、ワンチャン水浴びもできるのでは? 幽霊さんを取り巻く物理法則がどうなっているのかはわからないけど、ちょっと面白そうなので試してみたい気持ちはある。私は文系なので、経験を学問に活かすつもりはないし活かせる気もしないけれど。
うん、と幽霊さんはうなずく。そして、すいっと私の目の前までやって来た。
「願ってもない申し出だ──が、遠慮させてもらおう」
「え、なんで」
「水浴びできるかわからないし、できたとしても湯冷めする。夏風邪は長引くから、できるだけ避けておきたい」
「夏風邪て」
幽霊さん、もう死んでるじゃん。
矛盾まみれのご回答に唖然とする私を他所に、幽霊さんは窓から足だけを出してこれがちょうど良い、と言っている。足湯ならぬ足日光浴である。なんともシュールな光景だったが、幽霊さんが満足そうなので私からは何も言うまい。
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