第2話 金魚

 今日も帰宅したら既に幽霊さんが浮いていた。私の足音を聞き付けたのか、わざわざ玄関口で漂っている。


「おかえり」


 自分の家でもないのに、この馴染みぶりだ。他人の家にお邪魔しているという、お客様意識はないのだろうか。

 幽霊さんをすり抜けて、私は帰り道にスーパーで買った食材を冷蔵庫に詰め込む。これから暑くなるので、アイスを買いだめしておいた。ドライアイスにも時間制限があるし、形が崩れないうちに冷やしておかないと。

──などと考えられるようになったのも、つい最近のことだ。それまでは、玄関で浮いていたり、たまに扉から上半身だけぬるりと飛び出ていたりする幽霊さんにビビる日々が続いていた。

 単純に、感覚として慣れたのだろうと思う。しかし、何となくだけど、幽霊さんという非科学的な存在が日常の中に溶け込みつつあるのは気に食わない。私は平和で一般的な日々が好きなのだ。


「どうして話しかけないんだ。俺は寂しいと死んでしまうぞ」


……もう死んでるでしょうが。

 一定時間構ってあげないと、幽霊さんはこうして拗ねる。面倒臭いことこの上ないけれど、百年以上もの間因縁の相手以外には認識されず漂ってきたのだから致し方のないことなのかもしれない。今のところ、幽霊さんのことが見えるのは私しかいないのだし。

 顔を上げれば、幽霊さんが逆さまになって私を見ていた。ふんわり漂う髪の毛や、着物の裾が金魚の尾ひれみたいだ。


「幽霊さんって、割と話好きですよね。私が学校に行ってる間、どうしてるんですか?」


 冷凍パスタを電子レンジに突っ込んでから、頭上をふわふわ浮遊している幽霊さんに尋ねてみる。

 彼は結構な長身なのに、私に影が落ちることはない。手元が暗くならないのはありがたいけれど、なんだか変な感じだ。

 黒髪をゆるゆる翻した幽霊さんは、横向きに浮きながら相変わらずのポーカーフェイスで答えた。


「付近の散策だ。お前以外にも見える人間がいないか探している」

「でも、今のところ見付かってないんですよね」

「うん、だからこうしてお前のところに来るしかない。それなのに、お前は夜になったら出ていけと言う。人の心がない」

「当たり前でしょ、自分の部屋に誰かがいる状態でなんか寝られませんよ。幽霊さんのことだから、絶対話しかけてくるでしょうし」

「それもそうだな。死んでから、黙っているのが辛くなった。欲を言えば、もっと話相手が欲しい」


 そう言って、幽霊さんは電子レンジの中に右手を突っ込む。当たり前のようにすり抜けたけれど、温度は感じないのだろうか、つまらなそうな顔をしてすぐに引っ込めた。逆に感じたとして、故人である幽霊さんが火傷をするのは些か疑問に思うのだけれども。


「どうしたらお前以外の話相手ができると思う?」


 私を飛び越え、後ろに回った幽霊さんが問いかけてくる。そのままとぐろを巻くように、ぐるりと私の周りを回った。絶対に無視させないという心意気を感じる。

 話相手……話相手か。なかなか難しい質問だ。

 私はもともと人付き合いに長けている訳ではない。友達はそれなりにいるけれど、親友というレベルまでいく相手は見付けられないし、そもそも一人でいることにリラックスする性分だから、誰かがパーソナルスペースに入ってくるともやもやしてしまう。多分、一人の時間が人よりも必要なんだと思う。

 そういう性質たちだから、自分から他人に話しかけることはあまりない。まず、初対面で気さくに話せない。幽霊さんみたいにぶっ飛んでたらふっ切れられるけど、生きている人間相手だと色々悩んでしまう。こう、社会的な立ち位置とか、変に気にしてしまうのだ。

 だから、私にこの手の相談を持ちかけるのは悪手だ。もっとコミュニケーション能力が高くて、人当たりの良い相談相手を頼るべきなのだろうけど……幽霊さんが意志疎通できるのは、現時点で私だけ。巡り合わせが悪すぎる。


「やっぱり、他の幽霊を探すのが一番じゃないですか。もしかしたら、すり抜けずに触れ合えるかも」


 ぐるぐる回るパスタを眺めながら答える。

 幽霊さんが存在するなら、私が知覚できないだけで第二、第三の幽霊さんがいるかもしれない。もしお仲間を見付けられたのなら、わざわざ生者である私のもとに来る必要もなくなるだろうという希望も込めた回答だった。

 右側から、ぬっと幽霊さんの顔が出てくる。綺麗な方だけど、変な角度から登場されたら造形とか関係なくびっくりするのでやめて欲しい。


「幽霊は大抵どこにいる? 見かけたことがないんだが」

「そんなの人……いや、幽霊それぞれでしょ。幽霊さんみたいに自由に動けるのもいるだろうし、土地に縛られている地縛霊の話も聞いたことがあります」

「そうなのか?」

「あくまでも噂だし、私は幽霊さん以外見たことありませんけどね。あとはそうだな……やっぱり、霊場とか心霊スポットはその手の話をよく聞きます。もしかしたら幽霊じゃない、別ジャンルの化物かもしれないけど」

「化物は困るな。話が通じなさそうだ」


 幽霊だって皆が皆、話がわかるとは限らなくない? と思ったけど、屁理屈みたいに聞こえたら嫌なのでやめておいた。

 幽霊さんは感情の起伏が全然感じられないから、私が一人で大騒ぎしている感じがより一層強まって虚しくなる。端から見たら、私は一人で虚空に向かってぺらぺら話しているイタい子なんだろう。一人暮らしで本当に良かった。


「この辺りが駄目なら、少し遠出してみたらどうですか? ほら、ここらは高野山があるから、成仏しやすいのかもしれません。都会の方に行ったら、案外残ってるかも」


 山沿いののどかな場所ではあるけれど、一応急行に乗れば大阪市内まで電車一本で行ける。交通費が馬鹿にならないから私はほとんど行かないけど、大学には休日に大阪市内で遊ぶという子も多い。

 都会に幽霊がいるかはわからないけど、人口に比例するならここよりもずっと多いはずだ。霊場の規模なら、こっちの方が大きいんだろうが、幽霊さんがお仲間を見付けられないのだから仕方がない。

 幽霊さんは都会、とおうむ返しに呟いた。そのまま腕組みをして、首を捻る。横向きなので何となくシュールだ。


「電車に乗るのは疲れるし、自力で行くのも労力がかかる。できれば近場で済ませたい」

「労力って……。幽霊さん、もう死んでるんだから疲労とか関係ないでしょう」

「あるんだな、それが」


 そう言って、幽霊さんはぴたりと止まる。何かと思って見てみれば、壁に両足をくっつけていた。


「珍しい。すり抜けないんですね」

「精神を集中させているからな。だが、気を抜くと貫通する。俺は集中力が長続きする方ではないから、長時間固定するのは難しい」


 ふうっとあって良いのかわからない息を吐き出せば、幽霊さんの両足はずぶりと壁の中に沈む。勢い余ったのか、太腿まで埋まってしまった。


「こういう体質だから、常に動いている電車に乗るのは至難の業だ。都会に着くまでの間、ずっと神経を尖らせなくてはならない。でなければ、電車は俺をすり抜けてしまう。置いていかれたら、そこから自力で移動しなければならない」

「はあ。でも、それだったら飛んでいけば良いのでは? 浮遊には精神集中なんていらないでしょう?」

「たしかにいらないな。だが、なんというかこう……感覚的に疲れる。長時間飛んでいると、そのうちもう動きたくない、と思うようになるんだ。恐らく、人であった頃の名残だと思う。お前だって、四六時中立っていれば疲れるだろう? それと同じだ」

「そうかなあ……」


 いまいち納得がいかない。でも、幽霊さんがあんまり移動したくなさそうだったから、これ以上アドバイスしても徒労だな、と思ってその意見を受け入れることにした。本当に成仏したいのかな、この幽霊は。

 電子レンジが甲高く鳴る。パスタの温めが終わったのだ。幽霊さんが隣に並び、暗くなったレンジの中を覗き込んでいる。


「何味だ」

「ナポリタン」

「……?」

「……これから盛り付けるんで、気になるなら覚えていってくださいね」

「俺は食べられない。見せるだけとは、残酷な……」

「仕方ないでしょ、もう死んでるんだから」


 たしかに、とうなずいて幽霊さんは静かになった。そして、私の持つ袋の中に入ったオレンジ色を、しげしげと眺めていた。

 もし食べられるんだとしても、その白装束ふくじゃ大変なことになりそうだ。彼がナポリタンを口にする時は、着替えができる体になっていれば良いと、誰にでもなく思う。

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