企て

 カポ――ン!


 お湯を流して空になった桶が、まるで楽器のような音を立てる。フリーダは桶に残った下着へ手を伸ばした。洗い物は宿舎がやってくれるけど、流石に知らない人に、下着を洗ってもらう気にはならない。


「フローラさん、大丈夫?」


 フリーダは湯気の向こうにいる、フローラへ声をかけた。終了前のかなり遅い時間で、浴室にはフリーダたちしかいない。


「はい。大丈夫です」


 フローラの下半身の怪我は両ひざから下で、動くことはできなくても、一人で湯舟に浸かれている。なので、さほど苦労せず、セシルと二人で風呂場へ運ぶことが出来た。


「お家ではどうしているの?」


「兄が面倒を見てくれています」


「えっ、お兄さん!」


 そう声を上げたフリーダに、フローラが少し恥ずかしげな表情をして見せる。


「色々と恥ずかしくはありますが、他に身よりもいないので」


「そうなんだ」


 クエルと同じなんだと、フリーダは心の中で思う。でもフローラには兄弟がいる。


「それにお屋敷に行ったときには、侍従の方々に、面倒を見ていただいています」


 それで先ほど、セシルに体を洗ってもらう時に、慣れていたのかとフリーダは気付いた。フリーダの考えを読んだらしいフローラが、フリーダへ頷く。


「ですので、皆さんがおっしゃっていることは、ほぼ事実です」


「余計なことを聞いてごめんなさい」


 フリーダはそう答えると、下着を絞る手に力を込めた。この世界の色々な事に、腹が立ってくる。


「いいえ、私みたいなものが、こうして生きていられるだけで、十分に幸せです。それよりも、お母さんって、どんな感じなんですか?」


「お母さん?」


「はい。私の母は、私が小さい時に亡くなったので、あまりよく覚えていないんです。それに兄も、両親の事はほとんど口にしてくれなくって……」


「お母さんか……。そうね、とっても愛してくれているのは、よく分かるかな。でもその裏返しで、とっても口うるさいのも確かよ」


 フリーダはフローラへ、小さく舌を出して見せる。


「ちゃんと片付けをしなさいとか、女の子らしくお行儀よくしなさいとか、良く怒られるもの」


 その答えに、フローラは驚いた顔をした。


「フリーダさんでも、怒られたりすることがあるんですか?」


「えっ、もちろんよ。どちらかと言えば、いつも怒られっぱなし。前にクエルを助けに行ったときには、それはもう――」


 そこでフリーダは慌てて言葉を飲み込んだ。東領の流民たちに襲われた件については、軍からかん口令が引かれている。それをフリーダののろけととらえたのか、フローラが苦笑いを浮かべて見せた。


「クエルさんとフリーダさんのご家庭って、とってもにぎやかなお家になりそうですね」


「家庭って?」


「クエルさんとフリーダさんって、ご婚約されているんですよね?」


「わ、私がクエルの婚約者?」


 フリーダの驚いた声が浴室に響き渡る。


「た、単なる幼馴染よ。家が隣同士で、歳も同じだから」


 そう言い淀むフリーダに、フローラが慌てた顔をした。


「すいません。てっきり――」


「別にフローラさんが謝る必要はないと思うけど……」


 そう口にしつつ、フリーダは自分がクエルと家庭を持つ姿を頭に思い浮かべた。確かにフローラの言う通り、にぎやかな家になるのだけは間違いない。そこへ銀色の髪を持つ少女が姿を現す。フリーダが思わず下着を洗う手を止めた時だ。


「失礼いたします」


 背後から声が聞こえた。振り返ると、泡立てた石鹸付きのタオルを手に、セシルが立っている。


「セシルちゃん、どうしたの?」


「フリーダ様のお体を洗うのも、私の方でお手伝いさせて頂きます」


「えっ、私は自分で洗えるから大丈夫よ」


「いえ、皆様のお手伝いをするのは、侍従たる私の務めでございます」


「だ、大丈夫だから。ちょ、ちょっと待って、一体どこを洗おうとしているの」


「はい。一番汚れがたまりそうなところから、洗わせて頂きます」


「セシルちゃん、やっぱり何かおかしいわよ。お、お願い、やめて――!」




 クエルは壁際に置かれた、とても広いとは言えない寝台の上で寝返りを打った。目をつぶってはいるのだが、中々寝付けない。


 誰もいない部屋はシーンと静まり返っている。その中で心臓の鼓動だけが耳に響いていた。それはフリーダと別れてから、ずっと高鳴り続けている。


「国家人形師になれるのだろうか?」


 クエルは自分に問いかけた。いや、なれるかどうかではない。なるのだ。自分の為だけでなく、応援してくれるフリーダの為にも、ならなければならない。


 そう決意しつつ、再び何度目になるか分からない寝返りを打った時だった。窓際で何かの影が揺れている。


『風が強くなって、枝でも揺れているのだろうか?』


 一瞬そう思ったが、風の音は聞こえない。不振に思ったクエルが、寝台から起き上がると、目の前に侍従服姿の少女が立っている。


「せ、セシル?」


 クエルの呼びかけに、窓から差し込む月明かりを浴びた少女が、口元に笑みを浮かべた。


「マスタ―、他に誰がいる?」


「で、でも、こんな夜中に何を――」


「もちろん同期に決まっている。ここでは距離が遠い故、どうしても消耗が大きい。それに昼間いきなり襲われたのを、もう忘れたのか?」


 そう告げると、寝台の上のクエルの頬に、そっと手を添える。


「我にはお前の力が必要なのだ」


「だけど、こんな夜中に? それにフリーダは?」


「気にするな。ここ同様に、ちゃんと手は打ってある」


「はあ?」


「ここについては簡単だ。マスターの相部屋の相手に、一服盛っておいた」


「一服って!?」


「何を驚く。全ての人形は己のマスターについて、利己的に振る舞うものだ。それにこちらは、大したことはしていない。少し腹を下すぐらいだろう。だがこれを続ければ、マスターの相部屋になるものはいなくなる。我がここへ来るのに好都合だ」


「こちら? まさか、フリーダにも!」


「心配するな、あの娘にこの手は使っていない。しかし、しばらく我に近づかない様にはしておいた」


 そう言って、クククと笑って見せるセシルを、クエルは茫然と眺めた。どう考えても、あの黒髪の少女などより、目の前にいるセシルの方が、間違いなくやばい。


「マスターにはまだ刺激が強いから、何をしたかについての説明は省くとしよう。そんなことより、我に集中せよ。同期にはそれこそが大事だ」


「こんな話を聞いて、集中など出来るか!」


 それを聞いたセシルが、ゆっくりと首を振る。


「マスター、お前は飢えたことがあるか? 餓えの苦しさをしっているのか?」


「餓え?」


「己の体から力が失われ、動くことはもちろん、考えることも出来なくなる。食べ物が与えられるのであれば、なんでもできる。そんな気持ちになったことはあるか?」


「ないけど……」


「マスター、それがどれだけ幸せな事か、まだ分かっていないな。我にとって精神的な力を失うのは、人の飢えと同じだ。その渇きをいやせるのは、マスター、お前だけなのだ」


「そうだったな」


 クエルは素直に、セシルに頷いた。


「分かったのなら、他の事はすべて忘れて、我に集中せよ」


 侍従服の少女が、窓から差し込む月明かりを浴びつつ、妖艶としか言えない笑みを浮かべて見せた。頬に添えられた手も、いつもとは違う熱を帯びている。


「セ、セシル!?」


「我の全てはマスター、お前のものだ」


 次の瞬間、セシルは己の唇をクエルの唇へ重ねた。それだけではない。寝台の上に座るクエルへ、体を押し付けてくる。


 クエルは焦った。自分だって男だ。こんなことをされたら、平静などとても保てない。ともかくセシルの体を離そうと、腕をのばす。だが突き出した手は、何に触れることもなく、セシルの胸を貫通する。


「えっ!」


 クエルの慌てた声に、セシルはゆっくりと唇を離すと、うるんだ瞳でクエルを見つめた。


「切ないであろう?」


「どう言うことなんだ!?」


「本来、化身とはまぼろしだ。姿は見えても、触れることはできない。我とて、あの器があってこそ、実態として存在できている」


 そう告げると、セシルはクエルの手で胸を貫かれたまま、そっと身を寄せる。クエルはその体の柔らかさを、はっきりと感じることが出来た。


「我が触れているのは、マスターの肉体ではない。マスターの心だ。だからマスターにとっては、我は実態があるのと同様に感じられる。だがマスターの精神力では、まだ我は抱けぬな……」


 セシルの指が首筋をなで、さらにクエルの胸へと触れていく。


「精進せよ。そうすれば、マスターも意識の繋がりだけで、我に触れられるぞ……」


 セシルはクエルの体を押し倒すと、添い寝するように、寝台の上へ横たわった。その感触に、クエルの全身の血が沸騰しそうになる。


「ど、同期は終わっただろう。し、宿舎へ戻ってくれ」


「戻らぬ」


「なんで!」


 セシルがクエルを上目遣いに眺める。


「今宵はマスターとここで休むとしよう。心配するな。ちゃんと代理は立ててある」


「ちょっと待て、こちらが休まらない!」


 クエルはそう叫びつつ、セシルの体を寝台から押し出そうとしたが、その手はセシルの体をすり抜けるだけだ。それでいて、セシルがクエルへ押し付けてくる、小さな胸のふくらみは、まさにそこにあるかのように感じられる。


「お願いだ、やめてくれ――!」


 セシルはクエルの叫びを無視すると、小さく寝息を立てて見せた。

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