昔日

「フリーダ様、同行をお許し頂きまして、誠にありがとうございます」


「もちろんよ。私はあなたのことを妹だと思っているから、私のこともお姉さんだと思って甘えてね」


「はい。ありがとうございます」


 セシルが馬車の前で、フリーダに丁寧に頭を下げた。セシルが指先でクエルの下着を回した事から始まった一連の騒動の結果、クエルはフリーダがギガンティスを工房に運ぶのに、同行する約束をさせられている。


 セシルもそれに同行したいと願いでたところ、フリーダはそれを快く承知した。


 クエルは自分たちが乗る馬車を見上げる。それは普通の馬車より遥かに大きい輓馬二頭引きの馬車で、人形を運ぶ専用の大きな荷台がある馬車だ。


 その荷台には胸の辺りに大きな穴が空いた人形、フリーダのギガンティスが乗っていた。


「ふふふ、お姉さんをやるのは昔からの夢だったのよね。クエル、何をボーっとしているの。セシルちゃんは小さいから、乗るのが大変なのが分からないの? セシルちゃんに手を貸してあげなさい」


「えっ、手を貸すの?」


 クエルは思わず自分の腕をじっと見た。今この腕に体重などかけられたら、悲鳴をあげるどころの騒ぎではない。


「フリーダ様、大丈夫です。こう見えても身は軽い方です」


 セシルはそう言うと、軽やかに荷台の上へと飛び乗った。セシルが荷台に乗ると、馬車は車軸を軋ませて進みはじめる。


 ギガンティスが普通の人形よりは一回り以上、セレンから比べたら二回りは大きいせいか、その行足はゆっくりだ。


 クエルは馬車に揺られながら、昨日の騒動についてぼんやりと考えた。


 目隠しをしたフリーダに着替えを手伝ってもらって、食事を食べさせてもらうという、人によってはとても羨ましく思えるだろうが、クエルにとっては一生の負い目になるような事態も発生した。


 その後はどういう訳か、フリーダはとてもご機嫌になった。セシルに小さい時は自分がこうしてクエルの面倒を見ていたとか、余計な事を吹き込んだぐらいだ。


 侍従の仕事を奪われたと考えているらしいセシルは、フリーダの話しを丁寧に聞く振りをしながら、その目が届かぬところで、表情をより不機嫌なものへと変えていく。


 最後はあんたのせいで壊れたのだから、修理に持って行くのを付き合えと要求してきた。クエルが素直に同行する約束をすると、フリーダはご機嫌なまま鼻歌を歌って家へ帰って行った。


 これ以上フリーダに張り倒される心配がなくなったクエルは、そっと胸を撫で下ろしたが、後には超不機嫌になった侍従人形が残っている。


 しかしフリーダから張り倒されて痛む頬を冷やすのを手伝って欲しいと頼むと、セシルの機嫌も直った。


 結局のところ、頬を打たれて恥を掻いたクエルが、貧乏くじを引いただけだ。


「何だかな」


 思わずクエルの口から言葉が漏れた。


「何か言った?」


「いえ、何でもありません!」


 クエルはすかさずフリーダに答えた。フリーダは幼なじみだけあって、自分に関しては色々なことで鋭い。フリーダが横にいる時は、ともかく余計な事を考えないに限る。


「クエルと工房に行くなんて、一体いつぶりかしら? 昔はお父さんやエンリケおじさんにくっついて、よく遊びに行ったのにね」


「そうだったね」


 クエルもフリーダに同意した。元々父のエンリケは人形技師で、人形師ではない。それに人形師になっても自分で人形を作っていたので、その部品やら素材の購入に、工房や問屋をよく訪れていた。


 その時はなぜかフリーダも一緒にくっついて来て、子供の頃からイベール家の赤毛のお嬢さんと呼ばれ、工房では大人気だった。


 その後、父は自分の工房からあまり出てこなくなったし、母が死んでからはそれが顕著だった。それでもフリーダの父親のギュスターブ同様に、父の数少ない友人の一人だった、アルツ師の工房にはまれに顔を出していた。


 頻度が少なくなっても、クエルはいつもそれを楽しみにしていた。昔からなるなら人形師より、人形技師になりたいと思っていたからだ。


 そして人形師になったフリーダに、自分の作った人形を繰って欲しい。子供の頃はそんな事を考えていたのをクエルは思い出した。


 そうなれたらどんなに良かった事か。一体自分はどこで何を踏み間違えたのだろう。もっともクエルはそれが何なのかはよく分かっていた。母の死であり父の失踪だ。


「ハイホー!」


 二頭立ての、それも輓馬が引く馬車を駆る御者の口からかけ声が響いた。元々ゆっくりと進んではいたが、坂へ差しかかったらしく、御者の手綱をしごく音に時折鞭が入る音もする。


 馬を降りて歩こうかと思ったところで、隣りにいるフリーダがクエルの顔を覗き込んだ。


「クエル、久しぶりに手を繋いで歩こうよ!」


「えっ!?」


「だって天気もいいし、座りっぱなしでお尻も痛くなってきたわ」


「何か御用ですか?」


 フリーダの声に気がついた御者が、背後を振り返った。


「はい。久しぶりに街の方へ出て来たので、その辺りを見ながら行きます。いいですか?」


 フリーダは朗らかな笑みを浮かべつつ、初老の御者に答えた。そしてクエルのギプスをした腕に、自分の腕を絡ませて見せる。


 それを見た御者は、フリーダの依頼を若者らしい行動と捉えたのか、苦笑いを浮かべながら馬車を止めた。


「はい、大丈夫です。行き先は分かっておりますし、本日は1日貸切で、既にお題も頂いております」


 フリーダは御者の答えに頷くと、クエルに向かって片手を上げた。


「ほら、さっさと降りなさい!」


 クエルはフリーダに促されて馬車を降りた。続いてフリーダはまるで燕が舞うように馬車から街路へと降りてくる。セシルもひらりと馬車から降りてきた。


「セシル、お前は乗っていても……」


「クエル様、侍従は主人に従うものです。ご安心ください。クエル様のお手を煩わしたりは致しません」


 セシルはそう屈託なさそうに答えたが、フリーダの死角からクエルを見る目は冷たい。


「うん。天気もいいし、みんなで散歩をしながら行きましょう」


 そう告げると、フリーダは馬の横へと向かう。そして自分の体より背が遥かに高い輓馬の鼻先をそっと撫でた。


 ヒヒーン!


 その見かけと違って、輓馬はとてもかわいい鳴き声を上げると、フリーダの方へ鼻を寄せる。


「申し訳ないけど頑張ってね。後でクエルのお小遣いで人参、いやりんごを買ってあげる!」


「ええっ!」


「半分は私が出すわよ」


 そう言うと、フリーダはクエルの手を握ろうとした。だが少し困った顔をすると、クエルのギプスに自分の腕を回して歩き出す。


 肩に身を寄せるフリーダの体から、ふんわりと花の香りが漂ってきた。その匂いと、ギプスを通しても感じるフリーダの体の柔らかさに、自分の心臓が高鳴るのを感じる。


 クエルはそれを振り払うように、慌てて周囲へ視線を向けた。


 この辺りは王都の中でも工房が集まっている地域で、そこで働く職人が住む長屋や、そこに材料を下ろす小さな問屋などもある下町だ。


 建物の路地の間にはロープが張られ、そこには工房で使う敷布だったり、各家の洗濯物などが沢山ぶら下がっている。


 その下を小さな子供達の一団が、棒切れを手に持つ少女に率いられて、走り抜けていくのが見えた。まるで昔のフリーダだな。その洗いざらしの上着とスカートを見ながら、クエルは笑みを漏らした。


「ふふふ、懐かしいわね。ここをクエルと一緒に歩くなんて、一体いつぶりかしら?」


 フリーダはそうつぶやくと、クエルの顔を覗き込んだ。その笑顔にクエルはやはり胸の高鳴りを感じてしまう。自分たちがもっと小さかった頃、フリーダと手をつないで、この道を何度となく歩いた。


 その時はそれが特別な事だとは全く思わなかったが、時が過ぎ、こうして久しぶりに二人で歩くと、それがどれだけ幸せな時間だったのかが分かる。どうして自分はもっと早くそれに気づけなかったのだろう。


「そ、そっ、そうだね」


 思わず口籠るクエルを、フリーダが怪訝そうな顔をして見つめた。


「何よ。私の顔に何かついている?」


「いえ、何もついていません」


 そう、何もついてなんかいない。だけどクエルの視線の先では、道行く人々、特に工房で働く若い弟子達が、フリーダの方を呆気に取られて見ているのが分かる。


 そしてクエルの方を見て不思議そうな顔をするのも見えた。


 それはそうだろう。両腕にギプスをした、どう考えても釣り合わない男が、赤毛の美少女に腕を組まれて歩いているのだ。不思議に思わない方がおかしい。


「あっ! クエル、ちょっと待っていて」


 フリーダは何かを見つけたらしく、急にクエルの腕から手を離すと、小走りに通りの先へと駆けていく。


「クエル様」


 背後からセシルの不気味な声が響く。


「な、なんだい?」


「だいぶいい気になっていらっしゃいますね?」


「はあ?」


「クエル、こっち、こっちよ!」


 クエルはあどけない笑みを浮かべているが、間違いなく内心は超不機嫌なセシルから慌てて視線を外すと、市場で手を振るフリーダの方へ向かった。そこではフリーダが八百屋の店先で人参と林檎を買い求めている。


「なるべく甘そうなのをお願いします」


「はいよ」


 八百屋の親父がフリーダに愛想よく答えた。


「お嬢さん、今日は後ろの彼氏とデートかい?」


「えっ、分かります?」


 フリーダが嬉しそうに答える。


「でもその腕はどうしたんだい?」


 そう言うと、親父は背後に立つクエルの腕を指差した。


「これですか? ふふふ、ちょっと強く抱きしめ過ぎてしまいまして……」


 フリーダが店の親父に、「てへ」っと笑ってみせる。


「おや、それは相当にお熱いね。羨ましい限りだ」


 親父はまるで自分の事の様に照れて頭を掻いて見せた。その姿にクエルは「ちょっと待て!」と叫びたくなる。もしかして、あんたはその話を本気にしていないか?


「こっちはおまけだ」


 そう言うと、親父はとても大きなりんごを一つ、袋の中へ追加した。


「おじさん、ありがとう!」


 フリーダは八百屋の親父に告げると、代金を払ってクエルの元へと駆けてくる。


「これはおまけだから、私たちで食べてもいいよね」


 フリーダはおまけでもらったりんごを、上着の裾で拭いてクエルに差し出した。


「ほら、口を開けて。あーーん」


「ちょっと…」


 クエルは辺りに視線を走らせる。


 道を行く人達が、下手をすると足を止めてこちらを見ている。通行人の目は痛いが、食べないと間違いなくまた張り倒される。


 クエルは諦めて口を開いた。シャキッと言う弾けるような音に続いて、口の中に甘みが、そして芳醇な香りと共に酸味が広がる。


「美味しい?」


 そう聞いてきたフリーダにクエルは頷いた。背後から殺気のようなものを感じるが、それは無視する。フリーダはそれを自分の口元へと持っていった。


「フリーダ!」


 だがクエルが何かを言う前に、フリーダは大きく口を開けると林檎を頬張った。シャリシャリという音がフリーダの口から響く。


「クエル、違うよ」


 小さく喉を鳴らしたフリーダがクエルに告げた。


「な、何が?」


「これは美味しいんじゃなくて、とっても美味しいのよ!」


 そう告げると、フリーダは口の周りをペロリと舌で舐めて微笑んだ。思わずクエルの顔にも笑みが漏れる。フリーダとのこうした時間は、一体いつまで続けられるのだろう。


 クエルの頭の中に、誕生日会で会った華美な礼服に身を包んだ男達、とりわけ黒髪の背が高い男性の姿が浮かんだ。だがそれは今考えるべき事ではない。


 今はこうしてフリーダと一緒に過ごせる時間の一瞬、一瞬を大事にすべきだ。


「いけない! 馬車はもうとっくに着いていたみたい」


 フリーダがクエルの手を引っ張った。クエルはまるで出来の悪い操り人形のような姿勢でそれを追う。


 その視線の先では、工房の前に横付けされた馬車に弟子達がついて、そこからギガンティスをおろす準備をしているのが見えた。


「なんだこりゃ!」


 不意に工房の奥から怒声が響いた。その声に、馬車からギガンティスを降ろそうとしていた弟子達が固まる。


「俺の最高傑作を、いきなりぶっ壊しやがったのか?」


 髪を短く揃え、がっしりとした体つきの男性が、工房の奥から額に青筋を立てて、表に飛び出してくるのが見えた。

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