始動

務め

「マスター、素直に我に世話をさせるのだ」


 クエルはそう告げたセシルを、とてつもなく不機嫌な顔で眺めた。当のセシルはと言うと、口元に妖しい薄ら笑いを浮かべつつ、目尻を下げてクエルの方を見ている。


「これこそが侍従の務めと言うものだ」


 何が侍従の務めだ。間違いなくこいつは自分のことをからかっている。クエルは心の中で盛大にため息をつくと、己の両腕へ視線を向けた。


 背後で手を縛られたまま、地面に何度も投げ飛ばされたのは、やはり相当な痛手だったらしい。


 医者には両腕の骨にヒビが入っているかもしれないと告げられた。もっとも大したことはないので、安静にしていればすぐに痛みは取れるとも言われている。


 確かに痛みは辛い。だが耐えられる。目下の問題はそれよりも、両腕とも上腕から手首までギプスをはめられており、包帯でぐるぐる巻きにされていることだ。


 今のクエルは木の枝で作った人形みたいに、ただ腕を伸ばしていることしか出来ない。これはクエルが想像したよりも、遥かに重大な問題を引き起こしていた。


 移動する以外のありとあらゆる行為がほぼ満足に出来ない。着替えなど論外だった。


 そして目の前では自分に世話をさせろと迫ってくる侍従人形が、クエルの下着を指先でくるくると回しながら、薄ら笑いを浮かべている。


「いらない」


「なんでだ? 自分では出来ないだろう?」


 セシルがクエルに首を傾げて見せる。


「そんなことはない!」


「マスター、自分で試みるなど愚かだ。昨日の夜と同じく、ひっくり返って寝台に頭をぶつけるつもりか?」


「そんなことより、人の下着を指先で回すのはやめてくれ。そして僕にそれを渡して出て行ってくれないか?」


 セシルが傾げた首をさらに傾げて見せる。


「我はお前の人形だぞ? そもそも人ではないのだ。遠慮するな」


「我クエルは汝、セレン=セシルに命じる。僕にパンツを渡して部屋を出ていけ!」


「お前に学習能力はないのか? 我はお前の潜在意識のあるべき姿に忠実なのであって、お前の戯言に……」


「ちょっと待て! どうして下着に僕の潜在意識とやらが絡んで来るんだ!」


「それはマスターが、我にそれをしてもらいたいと望んでいるからだ」


「あり得ない。絶対にあり得ない。それをさっさとよこせ!」


 そう言うと、クエルは痛みに耐えつつ、パンツを取り戻すべく必死に手を伸ばした。


 セシルはクエルの手から指先で回していたパンツをさっと遠ざけると、ギプスに固められた腕を掻い潜って、クエルの下半身へと潜り込んだ。そしてクエルのパジャマに手をかける。


「ふふふ、遠慮するな。これは我の楽しみなのだ」


 ガタン、タン、タン、タン!


 こいつの本音が出たなと思ったところで、下の階から物音が聞こえた。続いて誰かが階段を上がって来る気配もする。


「クエル! なんで私が呼んでも出てこないのよ!」


 ちょっと待て、これは一体何の冗談だ!? クエルの顔から血の気が引く。


「大体ね、女性がわざわざ訪ねて来ているのに、失礼だと思わないの。部屋? 開けるわよ。いい?」


「だめ……」


 だがクエルが返事をする前に、寝室のドアが勢いよく開いた。そこからフリーダがいきなり顔を出す。そしてクエルの顔を、次にその下半身に跪いているセシルの姿を交互に見た。


「ク、ク…ク、クエルさん。あなたは昼間から一体何をしているのかな?」


 バン、パン、パン!


 無防備なクエルの頬から、盛大な破裂音が連続して響き渡った。




「大体の事情は分かりました」


 フリーダはそう言うと、クエルの方を冷たい目でチラリと見た。クエルはと言うと、なぜか居間の床に正座させられている。


 数度に渡って打たれた頬がじんじんと痛むが、ギプスをはめられているので、そこに手をやることすらできない。


 もう一方の当事者であるセシルは、クエルの背後であどけない少女を演じて立っている。


「両手が使えないのは分かるけど、いくら侍従だからって、セシルちゃんにやらせるなんてあり得ません!」


「ですが、フリーダ様。それは侍従たる……」


「セシルちゃんは口を閉じていて。これは私とクエルの問題よ」


 クエルは心の中で、いつからこれがフリーダと自分の問題になったのかと思ったが、もちろんそれを口に出したりはしない。


 フリーダはリンダおばさんと同様に、逆らってはいけない種類の人間だ。


「何で私に頼まないの?」


 少し顔を赤らめながら、フリーダがクエルに告げた。


「フリーダ、それって……」


 告げられたクエルの目も思わず点になる。


「あのね。私は小さい時からずっとクエルと一緒だったのよ。あなたの、その、何、それは今まで何度も見て来ました」


「それは一体いつの話だ?」


「誰が口を開いていいと言ったの! ともかくあなたの事はセレンおばさんからも頼まれているんだから、私が手伝います」


 フリーダはそう宣言すると、照れ隠しか傍らの卓をピシャリと叩いた。


「クエルが恥ずかしいのなら、私が目を瞑ってやればいいだけでしょう? ともかくセシルちゃんに頼むなんてのはあり得ません。絶対にあり得ません!」


 そう言うと、今度はセシルの方を向いた。


「セシルちゃん。今度クエルが変なことを言ってきたら、すぐに私に相談して。その時は私が十分に報いを与えてやるわ。裸で外に出して、水でその汚れた精神を洗い流してやります。いや、そんなもんでは済まないよね。いっそあれを……」


 フリーダは視線を床に落とすと、一人で何やらぶつぶつと呟いている。クエルが恨めしそうに背後へ視線を向けると、セシルはクエルに小さく舌を出して見せた。


 やはりこいつは地獄から送られてきた使者ではないのか? それが自分の妄想だと思うことに、クエルは自信がなくなってくる。ともかくこのまま放置しておくと、危険極まりない。


「分かりました。もう絶対に頼みません」


 クエルはそう言うと、曲がらぬ腕で可能な限り頭を下げた。まるで雨上がりの後のアメンボにでもなった気分になる。


「分かればいいんです」


 フリーダが腕組みをしながらクエルに答えた。クエルとしては全面降伏だが仕方がない。


「それで、何の用で来たんだ?」


 クエルの言葉に、フリーダは何かを思い出したらしく、ハッとした顔をした。


「そうよ。人形よ、人形!」


「人形?」


「だって、クエルも選抜を受けるんでしょう? それには人形を動かさないといけないじゃない」


「それはそうだけど……」


「本当はクエルに私が人形と結合するのを見せてあげて、参考にしてもらおうと思ったのに、家には戻ってきていないし、勝手に襲われて死にかけてるし、本当にどんだけ人に迷惑を掛けたか分かっている?」


「はい。それについては誠に申し訳ありませんでした」


 クエルは素直にフリーダに頭を下げた。全くその通りだ。フリーダが助けに来なかったら、間違いなく殺されていた。


「そうよ。ギガンティスは壊しちゃうし、どんだけお父さんとお母さんから説教されたか分かっている? 今でも耳がキンキンするぐらいよ」


「重ね重ね、大変申し訳ございません」


 クエルはそれについても深く頭を下げた。昨日医者に出かける前も、出かけて戻ってきた後も、隣からはリンダおばさんの怒った声がずっと響き続けていた。


「大体、クエルは私に対する感謝の念が足りなさすぎなのよね。分かっているの? 私はあなたの命の恩人なのよ。床に頭を擦り付けて感謝しなさい」


「へへー、フリーダ様」


「もしかして、もう一度張り倒されたい訳?」


「フリーダ様、助けて頂きまして、本当にありがとうございました」


 横からセシルが、フリーダに向かって丁寧に頭を下げた。


「セシルちゃんはいいのよ。助けがいがあるもの」


「ですが、フリーダ様はどうして私たちの居場所が分かったのですか?」


「そうね。白鳥の館より手前だったら、帰り道で私達が会うはずだから、その奥だとは思ったのよね。でも何となくかな。勘ね。私が幸運の女神様に愛されていると言うことかしら?」


「えっ?」


 クエルの口から思わず声が漏れた。つまり自分が助かったのは、本当に偶然も偶然と言う事だ。背後にいるセシルも当惑したような、少し考え込む様な表情をしている。


「『えっ』じゃないでしょう。そこは手を叩いて誉めるべきところよ」


 クエルは自分の両腕を見た。誰が手を叩けだって?


「流石はフリーダ様です」


 セシルが尊敬したようにフリーダを見上げる。


「やっぱりすごい? それよりもクエル、人形と結合するのなら私が手伝ってあげる。もし心配なら、お父さんにも手伝いを頼んでもいいし……」


 そう告げたフリーダに、セシルが首を横に振って見せた。


「フリーダ様、ご心配は無用です。クエル様はもう人形師でございます」


「なんですって!?」


 フリーダが呆気にとられた顔でセシルを、そしてクエルを見る。セシルはつかつかと窓際まで歩いていくと、まだ閉じられたままだったカーテンを開けた。


 その先に見えるクエルの家の小さな庭の奥で、何かが動いているのが見える。それは手に箒を持ち、庭の落ち葉を掃く侍従の姿だった。だが人にしては少し大きい。大きすぎる。


「侍従人形!」


 フリーダが驚いた顔をして、クエルの方を振り返った。


「いつの間に? それってお父さんが言っていた、クエルがエンリケおじさんから引き継いだ、世界樹の実を使ったと言うこと?」


「はい。フリーダ様。なので、クエル様は既に人形師でございます」


「ク、クエル……」


「は、はい。何でしょうか?」


 クエルは恐る恐るフリーダに問いかけた。クエルの視線の先では、フリーダの右手がプルプルと震えているのが見える。


「なんで私の知らないところで、勝手に人形師になっているのよ! この裏切り者!」


 パン、パン、パン、パン!


 クエルの頬に、連続した乾いた音が再び響き渡った。

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