幼なじみ
ドン、ドン!
低く鈍い音が響いてくる。なんだろう。クエルはそのあまりに鬱陶しい音に目を覚ました。視線の先には寝室ではなく、居間の天井が見えている。
クエルは慌てて椅子から上体を起こすと、自分の体を眺めた。そこに見えるのは、いつも着ている深緑の上着と茶色いズボンだ。
開けっ放しのカーテンの向こうでは、時計塔に明るい日差しが降り注いでいるのが見える。少なくとも夕刻の日差しではない。やはり自分はいつの間にか寝てしまっていたらしい。
「やっぱり夢……、だったのかな?」
そうだ。あのピエロの操り人形はどうしたろう? 床にはその姿はない。いつも人形を掛けている壁にも何もなかった。
「どこからが夢だったんだ?」
クエルは頭を横に振った。人形を繰ったのも夢だったのだろうか? 昨日あれに触るまで、ここしばらくは操り人形を手にしたことは無かったはずだ。
ドン、ドン、ドン!
再び鈍く低い音が響いてきた。その音は先ほどより大きく、そして苛立たしげだ。誰だろうと考えてから、クエルは思わず苦笑いをした。
この家を訪ねてくる人は片手もいない。そしてこんな叩き方をするのは一人だけだ。
「クエル、居るんでしょう!」
ドアを叩く音だけでなく、大きな声も響き渡った。その声には明らかに不機嫌の色がある。まずい。あれの機嫌が悪くなると、それを直すのは大変だ。
「いるよ!」
クエルは声を張り上げた。操り人形の件は後回しだ。クエルは椅子から立ち上がると、慌てて廊下へと飛び出した。
夢の中と違い、東を向いた明かり窓から入り込んだ日差しが、廊下を明るく照らしている。だけど昨日とは何かが違う気もした。
「クエル!」
再び声が響く。それを確かめるのも後回しだ。クエルは慌てて階段を一階へと駆け降りると、玄関へ向かった。すりガラスの向こうに、腰に手を当てた姿がうっすらと見える。
クエルは寝癖がついた髪をちょっとだけ撫でると、玄関のドアを開けた。
「お待たせ!」
クエルの予想した罵声の代わりに、明るい茶色の目が心配そうにクエルの顔を見ている。
「大丈夫なの?」
玄関の先に立つ赤毛の少女がクエルに告げた。
「大丈夫って、何が?」
「お腹が痛いとかじゃないの?」
「えっ、特に何もないけど?」
「そう、なら良かった……」
下を向いた少女が小さくため息をつく。その仕草に、彼女のポニーテールにしている長い髪が胸元へかかった。少し癖毛ではあるが、見事な赤毛が朝の日差しに紅い宝石の様に輝いている。
「あ、あんたね……」
それに見とれる暇もなく、下を向いた口から何やら不吉なつぶやきが漏れてくる。
「どんだけ心配したと思っているの!? 昨日は夕飯をうちで食べるって約束したよね? それとも何、来月の今日と間違えていたとかでも言うつもり!?」
「い、いや、約束は覚えていたんだけど、昨日はつい椅子で寝てしまって……」
「寝てた!?」
クエルの言葉に、少女があきれた顔をして見せる。
「忘れていた言い訳なら、もっとましな言い訳を思いつきなさいよ!」
「いや、本当に忘れていた訳ではないんだ」
「それって、隣のマジェ爺さん並みということ? あの人はいつ起きているかも分からないから、きっと遠いところへ行っても、三日ぐらいは誰も気が付かないよね。クエルもそれと同じということ!?」
「その例えは本当にありそうだから、あまりよくないと思うけど……」
その答えに、赤毛の少女はクエルの顔をジロリと睨んだ。腰に置いていた手を持ち上げると、クエルの顔を指差す。まずい。踏んではいけない何かを踏んでしまったらしい。
少女は指を向けたまま、クエルを追い詰めるように、遠慮なく玄関の中へと入ってくる。最も遠慮する気など、爪の先ほどもないはずだ。
「クエル、悪いのはあなたでしょう? 私はクエルが生きてようが死んでいようが、どっちでもいいけど、母さんが心配するからやめてよ。それに私の誕生日も、寝てたとか言ってすっぽかす気じゃないでしょうね?」
そう問いかける少女の瞳に、クエルは殺気すら感じる。
「ま、まさか、フリーダの誕生日を僕が忘れるわけないじゃないか!」
「ふん、本当だか?」
赤毛の少女、隣家に住むクエルの幼馴染のフリーダは、腰に手を戻すと大きくため息をついて見せた。だが少しは機嫌が直ったらしい。今度は少し期待する表情をして見せる。
「ねえ、クエル?」
「な、なに?」
「今年も私の誕生日に、ピエロの操り人形をしてもらえるかな? 毎年私の友達がとっても楽しみにしているの。今年は何か新作とか考えている?」
「えっ、新作?」
クエルは毎年フリーダの誕生日に、操り人形でちょっとした寸劇をやっている。
フリーダはとても好評だと言うが、フリーダとフリーダの母親のリンダおばさん以外には、さほど受けているとは思えない。
「そうよ。去年の失恋するピエロはとっても上手だったけど、ちょっと悲しかったからね。今年はお姫様と結婚して、ザマーする話とか?」
「ザマー?」
「ざまーみろの事よ。知らないの?」
「ちょっと女の子の会話にはそれほど……」
「女の子という訳じゃないんだけど? まあ、クエルにはそんなお話は無理ね」
フリーダはかわいそうな何かを見る目でクエルを眺めつつ、「うんうん」と頷いている。
クエルとしては、「何を勝手に納得しているんだ!」と突っ込みたくなるが、それを言うと話がややこしくなるだけなので、決して口にしたりはしない。
クエルはフリーダのいつもの仕草を見ながら、その姿に少し違和感を感じた。なんだろう? そうだ。胸がいつの間にか大きくなっている。いや、それが分かる服に変えたのか?
「少し大きくなった?」
クエルの口から思わず言葉が漏れた。
「えっ?」
フリーダが驚いた顔をしてクエルを見る。
「何でもない!」
クエルは慌てて答えた。だがクエルの視線に気が付いたフリーダが、自分の胸元を見る。まずい。とってもまずい。これは間違いなく血を見るやつだ。
クエルは飛んでくるフリーダのこぶしを避けようと身構えたが、どういう訳か何も飛んでこない。
「フフフ。クエルも少しは私が女性として魅力的だと言うことに気がついた? 今度の誕生日会では、男の子も何人か来るからね。気をつけなさいよ」
とりあえず頷いて見たものの、クエルは心の中で首を傾げた。男の子を相手に何を気をつけると言うのだろう。さっぱり意味不明だ。だが殴られずに済んだのは僥倖だった。
クエルがほっと息をなでおろしていると、フリーダが不思議そうな顔をしてクエルの方を見ている。
「クエル、それよりその頭はどうしたの? 埃だらけよ」
「えっ?」
クエルは頭に手をやった。手には白く細かい埃、いや砂みたいな良く分からない物がついている。
「ちょっと、クエル。ちゃんと掃除をしているの? 廊下も埃だらけだよ!」
クエルの背後を覗いたフリーダが声を上げた。振り返ると、廊下には自分が駆けてきた足跡が、白い砂の様な物の上にはっきりと見えている。
フリーダは玄関脇の棚のところへ手をやると、指先についた白いものを見て、「何これ?」という顔をして見せた。
『もしかして、あれは夢ではない?』
クエルの頭に悪夢の内容が蘇ってくる。まさかあれが本当にあったということはあり得るのだろうか?
「本当に大丈夫なの? 母さんも心配していて、今日のお昼は食べにきてといっているんだけど、来れる?」
フリーダが心配そうな顔をしながらクエルに問いかけた。
「だ、大丈夫だよ。確かに掃除をさぼっていたかもしれない。ほら、国家人形師の選抜が近いから、色々と考えごとがあって――」
「もしかして、人形師になる気になったの!」
クエルの台詞を聞いたフリーダが、目を輝かせた。
「いや、まだ決めた訳では無いけど……」
クエルはそう言いつくろうとしたが、フリーダの耳には全く入っていないらしい。フリーダはクエルの手を取ると、まるで自分の事の様に飛び跳ねて喜んで見せる。
「すぐにお父さんにその件を言うね。きっとお父さんも力になってくれるはずよ!」
「そ、そうだね」
クエルはそう答えながら、純粋に喜ぶフリーダを見て心が痛んだ。自分は彼女に嘘を付いている。国家人形師になろうと思ったのは本当だが、それはもう閉ざされてしまった未来だ。
「すぐに家に来て! きっと母さんも喜ぶと――」
「ガタン!」
フリーダの話の途中で、不意に何かが倒れる音がした。
「え、何?」
驚いた顔をしたフリーダが、クエルの肩越しに背後をうかがう。
「誰かいるの?」
クエルは手についている白い粉を眺めた。昨日の悪夢はただの悪夢じゃない。間違いなくこの家で何かが起こったのだ。
「リンダおばさんに、お昼には間違いなくお邪魔させて頂くと言ってくれないかな。それと昨日はすいませんでしたとも伝えておいて欲しい。物置の整理の途中だったから、それを終わらせたらすぐにいくよ!」
「物置? それでこの埃なの!?」
「バタン!」
再び背後で何かが倒れる音が響く。
「適当に積んだままだったから、崩れ落ちてきたんだと思う。じゃ、リンダおばさんによろしく!」
そう言うと、クエルはフリーダの体を玄関の外へと押した。
「クエル、ちょっと待って!」
「待たない!」
フリーダの髪が自分の顔にかかり、そこから花の香りが漂ってくる。クエルは手で押したフリーダの体の柔らかさにもびっくりした。だが今はそんなことに気を取られている場合ではない。まずは確かめるべきことがある。
「ちょ、ちょっとクエル。急に何をするのよ!」
玄関の先でフリーダは不満の声を上げたが、クエルは構わず玄関の扉を閉めた。
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