地下室
「一体これはなんなんだ!?」
クエルの口から絶叫が漏れた。ピエロの右目はただ赤く光っているだけではない。そこから漏れた光が、赤い光の糸を伸ばすのが見えた。
いや、これは本当に見えているのだろうか? 糸は間にある椅子も卓も全てすり抜けると、クエルの方へと伸びてくる。
それはクエルの胸元へたどり着くと、まるで本物の糸のようにピンと張りつめた。ピエロはクエルが操る時と同様に、糸の先でくるりと回ると、胸に手を当てて挨拶をして見せる。
結合に失敗したショックで、自分はおかしくなってしまったのだろうか? クエルは咄嗟にそう思った。そうでなければ、熱があって幻覚を見ているとしか思えない。
だがピエロは持ち上げていたクエルの足に手を伸ばすと、それをおろせという仕草をして見せた。
クエルは繋がっている糸に引きずられる様に立ち上がる。ピエロは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねると、やおら扉に向かって歩き始めた。クエルの体もピエロに操られるように扉へと向かう。
「おい、何をするんだ!」
クエルはピエロに向かって叫んだ。ピエロはお構いなしに、クエルの体をぐんぐんと引きずると、扉を手でトントンと叩く。どうやらそれを開けろと言っているらしい。
『そうか!』
クエルはやっと納得のいく答えに気づいた。自分はいつの間にか椅子の上で眠ってしまっていて、夢を見ているのだな。クエルは自分の状況を理解すると、ピエロの願い通りに扉を開けてやった。
扉を開けるや否や、ピエロが廊下へと突進する。ピエロに引っ張られたクエルは、バランスを崩して扉の角に頭をぶつけそうになるが、ピエロの足は止まらない。
ピエロは灯りがない暗い廊下を進むと、さらに奥の階段を駆け降りていく。
「ちょ、ちょっと待って!」
暗がりに足がもつれて転びそうになったクエルは、ピエロに向かって声を上げた。だがピエロはクエルの呼びかけを完全に無視すると、一階を通り過ぎ、さらに地下へと降りていく。
真っ暗な中、ピエロの仮面の奥から漏れる赤い光だけが、足元の階段をぼんやりと照らす。それ以外は何も見えない。
「おい、待てって!」
クエルは再び声をあげた。この先にあるのは、誰も入ることが出来ない例の地下室だ。クエルの目の前に、その入り口をふさぐ真っ黒な石板が現れた。
その表面には傷一つない。国の役人たちですら、手も足も出なかった代物なのだ。
もちろんクエルはここに入ったことはなかったし、入り方も知らない。だがピエロはその石板に向かって、ただまっしぐらにかけていく。
おかしな夢だ。クエルはそう思った。だがこのままだと、ピエロが石板にぶつかって壊れてしまう。夢の中とはいえ、母さんからもらった大事な人形だ。それが壊れる姿を見るのは忍びない。
「壊れちまうぞ!」
クエルはピエロに声をかけた。だけど一向に止まる気配はない。クエルは人形と繋がっている赤い糸を引いて、その動きを止めようとした。
けれどもクエルの体の方が、ピエロに引っ張られて石板へと向かっていく。
「危ない!」
クエルは叫んだ。その叫びより早く、ピエロは工房の入り口へと突進した。だがピエロは石板にぶつかることなく、闇の向こうへ消えてしまう。
クエルはピエロがいなくなったのかと思った。でもクエルの胸元から伸びている赤い糸は、クエルの体にまだ繋がっており、石板の向こうへと伸びている。
それに引きずられるように、クエルの体も未だ石板へと向かっていた。
「えっ?」
ぶつかる、そう思ったクエルの口から当惑の声が漏れる。確かに目の前には石板があったはずだ。だが何の衝撃も感じなかった。もしかして、自分も石板をすり抜けたのだろうか?
クエルはすぐに苦笑いを浮かべた。これは夢なのだから、石板をすり抜けたとしても別におかしなことはない。地下室の秘密を解きたいと思っている自分の願望が、そうさせただけだ。
シュ!
不意に現れた眩しい光に、クエルの闇に慣れた目が染みた。手をかざしながら光の方を見ると、壁際に置かれた油灯がゆらゆらと燃えている。どうやら自動でついたらしい。
その光に周囲を見回すと、そこは石造りの小さな部屋だった。辺りには地下室らしいひんやりとした空気が漂っている。
石板の先にあるのは工房だと思っていたけど、違ったのだろうか?いや、きっと自分の想像力が追いついていないだけだ。
そう言えばピエロはどこへ行ったのだろう。部屋の中を見回したクエルは、壁際へ置かれた椅子に誰かが座っているのに気が付いた。
眠っているのだろうか? 全く動く気配はない。
「だ、大丈夫ですか!?」
クエルはその人物のところに駆け寄って声をかけた。その肩に手をやろうとして、それが何かに気がつく。
『人形だ!』
自分が動かそうとしていた侍従人形によく似ている。だがこちらの方が一回り、いや、二回り以上も大きい。
父の人形は人と同じ振る舞いが出来た。もはやそれを人形と呼んでいいのかすら分からないぐらい、画期的な人形だ。あの侍従人形も、そうだと言わなければ、誰も人形だとは分からないだろう。
だがこの人形は可動部が見える関節など、いかにも人形らしい姿をしている。もしかしたら、父は修行時代の古い人形をここにしまって置いたのだろうか?
いや、自分の夢がそう見せているだけか?
トン、トン!
何かがクエルの足に触れる。見るとあのピエロの操り人形が足元にいた。それが自分の仮面を指差している。
クエルが戸惑っていると、ピエロは苛立たしげに再び仮面を指差した。そしてクエルの足を蹴っ飛ばす。どうやら仮面を取れと言っているらしい。
「おいおい。痛いじゃないか」
文句を言いつつも、クエルはピエロの仮面に手を伸ばした。そこから漏れ出す赤い光は、今や眩しいぐらいの光を放っている。こんなものに触れて、本当に大丈夫なのだろうか?
クエルは一瞬だけ躊躇したが、これが夢であることを思い出すと、仮面へ手を伸ばした。
指で触れると、仮面はあっさりと床へ落ち、ピエロの愛らしい顔が見える。その右目には小さな穴があり、そこにさくらんぼ程の丸い珠があるのが見えた。
それが辺りを赤く染めるほどの強烈な光を放っている。ピエロが今度はその穴を指さした。
『この珠を取れと言っているのか?』
クエルは世界樹の実と結合を試みた際に感じた、炎で焼かれたような痛みを思い出した。
でもこれはどうせ夢だ。人形師になる資格のなかった自分が、せめて夢の中では人形と繋がろうとしているだけだ。
クエルは意を決すると、赤い球に指を伸ばした。ピエロの表情の無いはずの顔が満足げに微笑む。それを引き抜いた瞬間、ピエロの体は床へと崩れ落ちた。
「あ、熱くない?」
赤い球からはクエルが恐れた熱は全く感じられない。まるで誰かの胸の中に顔を埋めている様な優しい鼓動と、誰かの肌を触っているみたいなぬくもりだけを感じる。
カチリ!
不意に何かの機械音がした。顔を上げると、人形の胸の扉が開いており、中に隠れていた台座が見えている。クエルは誘われる様に、その台座へ珠を差し込んだ。
カチリ、カチリ、カチリ!
再び何かの機械音が連続して響く。台座が高速で回転し、珠の周囲に金属の保護板が次々と降りていくのが見えた。
その隙間からは、目を開けていられないほどの眩い光が放たれ、この世界の全てを赤く染めていく。光だけではない。床や天井からも低い振動音が響き始める。いや、本当に部屋全体が激しく揺れていた。
「なんて夢なんだ!?」
クエルは慌てて立ち上がると、人形から一歩後ろへと後ずさる。赤い光の中、人形の背後の壁に、何かの文字が刻まれているのが見えた。
『人は神ではない。神になってはならない』
間違いなく父の字だ。それは壁へ直接に、しかも荒々しく刻み込まれている。
「もう十分だ。そろそろ目を覚まさせてくれ!」
体を必死に支えながら、クエルは大声で叫んだ。だがその叫びすらも、鳴り響く振動音にかき消される。天井からはパラパラと石の破片も落ちてきた。
もしかして、自分はこのまま地下室に埋められてしまうのだろうか?
「これは夢だよな?!」
そう呟きつつも、クエルの体は恐怖にすくんでしまう。耐えきれなくなったクエルは、悪夢の全てを拒むべく固く目を瞑った。
「マスター、お前を待っていた」
不意に女性の声がクエルの耳元に響く。驚いて目を開けると、クエルの前にあの人形が立っていた。人形は大きく腕を広げると、震えるクエルの体をそっと抱きしめる。
部屋は今にも崩れ落ちそうだが、不思議なことにクエルの体の震えは止まった。
「ここはもう持たない」
人形が再びクエルの耳元でささやいた。どうせ夢を見させてくれるのなら、こんな悪夢なんかじゃなくて、もっと幸せな夢を……。
だがその先を考える前に、クエルの意識は悪夢を離れて、どこか遠い所へ行こうとしていた。
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