第26話 匂い

 恐怖で足がすくみながらも伸郎は考えた。

 こういう場で自分が戦力にはならないのは百も承知だ。

 できることと言えば「考える」ことしかない。

 ほんのわずかな可能性でもいいから多恵が勝てる手を見つけることが自分の役目である。


「落ち着け、考えろ」

 何度も言い聞かす。

 物事を俯瞰的に考えられるのは自分だけなのだ。

 大森冬子と三島多恵の戦力差については大森に軍配が上がるが圧倒的な差ではない。

 大森の強みは戦闘センスと経験である。

 物心がついた頃から殺しをたたき込まれ多くの場数を踏んでいる。

 悔しいが経験値が違う。


 対して多恵のアドバンテージは体格と力で優っている点だ。

 それが証拠に先ほどの突きの一撃で大森は吹っ飛びしばらく動けなくなった。

 一発の威力なら負けない。攻撃さえ決まれば一発で勝負はひっくり返る。

 ただの一度ナイフを防ぐことが出来れば一撃を加えるチャンスが生まれる。

 ナイフを防ぐ盾として使える物がないか探したがそんな都合のいいものは屋上には見当たらない。


 そんな時ふと閃いた。

「…ある、僕だ。」


 伸郎自身、このひ弱な肉体は戦力にはならなくても盾としてなら使える。

 ありがたいことに大森冬子は伸郎を戦力として認識しておらず無視している。

 意を決して伸郎は走った。



 多恵は全身血だらけである。

 冬子の猛攻に押され致命傷を避けるのが精いっぱいの状態だ。

 攻撃速度は先ほどと大差ないが、今や目や首、内臓の部位などの急所も攻撃対象となっているため守備範囲が格段に広がった。

 守るのが精いっぱいで攻撃にシフトできない。


 桁違いのスピードとスタミナで一切休む隙も与えてもらえなかった。

 防戦一方で心が折れるのも時間の問題である。

 一瞬冬子の攻撃がとまった。


「さしものバケモノもここで息切れを起こしたか」

 多恵はそう判断した。

 右首元のガードが下がっているのが見えたのでチャンスとばかりそこめがけて警棒を打ち下ろす。



 勝った…はずが、頭が大きく揺さぶられ目の前の像が大きく歪む、ふわふわと体が浮いた感覚になり、足に力が入らず膝が嗤いだした。

 多恵は左側頭部にハイキックを喰らっていた。

 攻撃を止めガードを下げたのは撒き餌である。

 ここにきてまさかの蹴り技に多恵はなす術もなかった。


 多恵は後方によろめく。

 釣りに簡単に引っかかったことを多恵は後悔した。考えてみればガードを下げるなんて単純なミスは大森にはあり得ないのに苦戦中の多恵は脊椎反射的に飛びついてしまった。

 大森冬子が体制を低く取り、力をためているのが良く見える。

 腰にためた右拳にはナイフが握られているが、逆手ではなく順手なのは仕留めにかかる準備であろう。

 狙いはわかっていた。心臓である。


「腕一本くれてやらぁ」

 多恵は腕を上げて胸のガードを試みたが意に反して腕が上がらない。

 ハイキックで脳が揺れた影響で手足への指令が断絶していた。


「動け動け、早くツナガレッ!」

 意識は手足に命じるのだが指一本動かない。


 そのような時に限って意識だけは明確で残酷にも相手の動きがスロー再生のようによく見える。

 ‥完全に詰みであった。



 いきなり多恵の目の前に影が割って入る。

 何が起こったかすぐには理解できなかったがそれが伸郎だとわかるのにさして時間はかからなかった。

 その非力な男はこれでもかというほど目を見開き、への字口で鼻水がはみ出たマヌケ面であったが、その悲しいほどの覚悟は多恵に伝わった。


 空気を震わす鈍くて重い音とともに伸郎の体は一旦体が宙に浮く、その後地面にうつ伏せに叩きつけられ動かなくなった。

 一瞬、大森冬子は固まる。

 呆然とした表情を見せ心なしか真っ黒だった瞳の色が薄まったような気がした。

 腹の底から怒りがわいてくる、と同時に脳と手足がつながった。

「のヤロォォォ」

 多恵は警棒を冬子のこめかみに振り下ろした。

 


 ハイキックを放った時、冬子は匂いが漂ってきたのを感じた。以前フィリピンにいた頃、何処かで嗅いだことのある香りだ。

 優しくて暖かくて意志の力を感じる香りであるが思い出せない。

 正確に言えば思い出したくない匂いだ。

 そういえば、「女を助けたい」と言っていた時の須藤も似たような匂いを発していた。

 あの時はなんだかよくわからぬまま彼を殺せなかった。



 冬子は雑念を振り払いジョルトブローのフォームを固める、カランビットは逆手から順手に切り替えられていた。

 切り裂くのではなく抉るために、冬子は全身の体重と力を切っ先に込めて低い体勢から突き上げるようにジョルトブローを放つ、目標は鳩尾の向こうにある心臓だ。

 今まであまた命を奪ってきた冬子だが自分の意思に反する殺人は今回が初めてである。

 この女の不幸は強すぎたことに他ならない、弱ければ殺さずとも済んだ。

 だが迷いはない。



 目の前に影が現れ、それと同時に強烈な香りに包まれた。

「…ママ?」

 冬子はようやくわかった。

 最後の日、冬子を抱きしめた時にジャスミンが発していた匂いと同じである。

 目の前に現れたのは先ほどまで屋上の隅でへたり込んでいた若い男であった。

 冬子にとっては全く眼中にない人物であるが、ここにきてなけなしの勇気を振り絞り己が命を懸けたことは理解できた。

 自分の命を捨てて他者を守ろうとする者は共通の匂いを発するものなのか?


 冬子は躊躇することなくカランビットを握った右手に空いている左手をかぶせる、ブレードは左手のひらを刺し貫いたが構わなかった。

 そのまま身をよじり拳を引き付ける背筋が悲鳴を上げて筋断裂を起こした。

 ブレードの直撃は避けられたが右肘が男の左脇にめり込み肋骨が砕ける感触が伝わった。


 この威力で男の体は宙に浮きあがりそのまま地面に倒れ動かなくなった、

 冬子は敗北を悟った。


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