第3話 黄金丸
そのヒグマは、推定で体長2.5メートル、体重380キログラムの巨体を持つ雄で、他の個体に比べ眩いばかりの金毛が特徴だった。
平成18年、羅臼町の住宅地で白昼男子児童が咬み殺された。遺体はほとんど原形をとどめておらず状況からヒグマによる獣害事案と断定された。警察、猟友会、地元消防団による大掛かりな山狩りが組織されたが1週間の内にハンター3人、警察官1人、消防団の若者1人が返り討ちにあう大惨事に発展した。
このことから地元では三毛別事件の再来などと騒がれた。
山狩りはひと月に及ぶ。多くの目撃例からヒグマは超大型の雄で、黄金のような美しい体毛だったことから
当時は大騒ぎになり学校は長期の臨時休校、町ではヒグマよけスプレーが飛ぶように売れた。大型犬をヒグマと勘違いして110番をする者まで現れる始末だった。
平成22年、中学2年の
羅臼町の事件から早4年過ぎ去ったが現地に暮らす人々は今なお恐れおののいていた。二人は斜里岳登山道を無言で進む。冬子に課せられた目標は独力でヒグマを仕留めることだ。この季節のヒグマは冬眠に向けて荒食いの時期で、斜里岳のヒグマは羅臼岳など他の山のヒグマより気性が荒い。
入山して三日目、二人は俵型の糞と足跡を見つけた。
糞の表面の光沢に陰りがあったことから2~3日前のものと思われる。足跡のサイズは横幅15センチ超、縦幅25センチ超。トドマツにはマーキングの爪痕があった。その高さから推定で2メートルは優に超えた大型であることは確定した。
竜造は丹念に付近のトドマツを調べる。
普段の無表情とは打って変わり、目がらんらんと輝き頬が上気して赤みを増した。冬子が初めて見る父親の無邪気な顔であった。
ヒグマは己がテリトリーを主張せんがため木の幹に爪痕を残し、臭い付けの背こすりをする。竜造が探していたものは見つかった。背こすりの際に付着する獣毛である。
まるで西陣織に使われる錦のようにキラキラと輝いていた。
知床のラスボス黄金丸で間違いない。
二日の追跡行の末その姿を捕捉できた。父から手渡されたレンジファインダー内蔵の軍用双眼鏡を覗くと谷を挟んだ反対側に黄金丸はいた。距離は約500メートル。
「美しい」
冬子は掛け値なしに感嘆する。雄大な知床連峰の中で日の光を浴びてキラキラと輝く獣はこの世のものではなかった。
小金丸もこちらを振り返った。冬子の心を見透かすように窺っている。その黒曜石みたいな瞳は、「さぁ来な。楽しもうぜ。」と嘲笑っているように見えた。
「俺の獲物だ。お前は離れて見てろ。」
竜造は短く言った。冬子の安全を気遣っての言葉ではない。当初のところヒグマ狩りは冬子が行うはずであったが、突如出現の強敵に竜造の闘争本能が煽られ血が騒いだ結果である。
冬子をその場に残し竜造は単独では風下から沢伝いにアプローチする。地面を注意深く観察し痕跡を捜した。全神経を研ぎ澄まし音や臭いにも気を配る。
ボルトアクションライフルのウィンチェスターM70を背負い、腰にはバックアップ用の大型リボルバーのスーパーレッドホークを吊っていた。
みつけた。真新しい足跡である。横幅15センチは優に超え縦幅も25センチは超えている。黄金丸に間違いない。尾根を上るように続いている。
ヒグマは視力こそ脅威ではないが、嗅覚、聴覚は極めて優れている。知能は犬と霊長類の間で哺乳類の中では上位にあり中々に狡猾だ。
竜造は記憶を呼び戻した。資料によると黄金丸は捕食と戦闘を別物と考えている傾向がある。銃を持つハンターに対しては頭部を狙った即死攻撃を仕掛けている。
剛腕と鋭い爪で頭を刈り取るのだ。殺されたハンターは例外なく頭部が消失していた。
足跡を観察しながらたどるうちにある違和感を覚えた。微妙に足跡の深さが変わったのだ。
「…しかけてきやがった。」
竜造は追跡が終り戦いのフェーズに入ったことを確信した。
ヒグマは時として「止め足」と言う戦術を展開する。英語では「バックトラック」と呼ぶ。
止め足とは足跡の偽装工作のことである。ヒグマは己の後方にできた足跡を踏むように一定距離をそっと後退し偽の経路を作って敵を欺く、そしてある程度後退したら自分は足跡の付きにくい地点などに跳躍し、ブッシュなどで潜伏して逃走または攻撃の機会をうかがう。途中で足跡を消失させることにより追跡者を混乱させる手法だ。
黄金丸がこのまま立ち去る事はありえないと踏んだ竜造は全神経を集中させ五感をはたらかせた。慎重に足跡を見極め、わずかな音、微かな臭いにも気を配る。
敵は何処かで潜みじっと竜造を観察しているに違いなかった。必ず側面後方から攻撃を仕掛けてくるはずと考え即応態勢で臨む。
ひりつく神経を押さえながら足跡をたどると同時に両斜め後方に集中した。特に気配は感じない。やがて足跡は途絶え消失した。これまでの間、異変は感じなかった。戦いを避け逃げたとも考えたが、そんな甘い相手ではない事は竜造が一番知っていた。
「何を考えている?」めずらしく困惑した。
「コッフ、コッフ、コッフ」
微かだが左方の風上から息音が聞こえる。ヒグマ特有の警戒音である。誘っているのだ。
正面切ってのタイマンを要求しているように感じられた。
「ナメられたもんだ。」竜造は苛立ちを覚えた。
クマザサをかき分け慎重に音源に接近する。音量は徐々に上がり、それに伴い腐ったような獣臭が濃くなる。ウィンチェスターの薬室には初弾が装填済みであることを確認して目を凝らした。
いた。おおよそ150メートル先、イタヤカエデに寄り添い直立でこちらを向いた影を発見した。
即座に竜造は撃つ、バイタルゾーンを確実に抜いた。しかし倒れない。立ったままだ。さらに一度急所にくらわせた。尚も倒れることがなくこちらを向いている。ありえない話だ。
ダメ押しの3発目をたたき込む。まだ倒れないがよく見ると両腕と頭は垂れていて力が抜けている様子だ。立ったまま絶命している可能性が高い。強力な30―06スプリングフィールド弾を急所に3発喰らっている。死ねないはずはない。
だが死んだふりをするヒグマは珍しくない。油断したハンターが返り討ちにあったケースは多くある。
竜造は生死を確認する意味で最後の4発目を垂れた頭の頭頂中心の脳が存在する箇所を慎重に狙った。頭頂の一部ははじけて四散したが体は微動だにしない。
反撃は無いと確信して竜造は慎重に黄金丸に近づいた。間違いなく絶命している。
しかし、何かがおかしかった。
「ちがう、黄金丸ではない。」
大型だが黄金丸に比べ若干体格に劣る。2メートル級の若い雄だ。赤みがかっていて毛色が違っていた。
バイタルゾーンには3発命中していた。おそらく初弾で致命傷を与えたはずだった。だが倒れなかった理由は?
竜造は驚愕した。若い雄の背には折られたイタヤカエデの枝が深く刺さっていた。幹に背中を縫い付けられていたのだ。まるで百舌鳥の速贄である。
さらに両脚の腱がずたずたに引き裂かれ移動不能にされている。喉笛の声帯も裂かれて吠えられなくされていた。ならさっきの息音はどこから?
間違いなくこのヒグマは竜造を誘い出す「おとり」としてカエデの木に縫い付けられたのだ。
あり得ない話である。いくらヒグマが奸知に長けていたとしても、同族を傷つけて生贄にしてまで人間を狩るなど聞いたことがなかった。最早ヒグマの知性とは言えない。
風下から魔神のような咆哮が聞こえる。迂闊と気付いた時には手遅れであった。まるで凱歌のような雄叫びだ。巨大な黄金獣は時速60キロの猛スピードで突進してきた。距離約100メートルもない、絶望的なシチュエーションである。
ウィンチェスターの装弾数は4発、すでに撃ち尽くしていた。過信して保弾を怠っていたのが悔やまれた。今さら装弾しても間に合わない。自分が黄金丸の術中に嵌っていたことを悟った。
ライフルを捨て腰のレッドホークを抜き素早く両手把持で構えて撃鉄を起こした。やれることは限られている。突進中の黄金丸に全弾撃ったところで致命傷は与えられない。この銃に込められた454カスールはトップクラスの威力を誇る。が、それはハンドガンの世界での序列に過ぎず、マグナムライフルの殺傷力には遠く及ばない。ヒグマ相手ではダメージは期待できない。たとえ頭部を狙ったとしも硬い頭骨ではじかれるのが関の山だ。
やるならギリギリまで接近を許すしかない。黄金丸が四足歩行から立位に変わり竜造の頸を刈るべく爪を振り上げた瞬間しかチャンスはない。その時に晒される喉元下のバイタルゾーンを射抜く。これに賭ける。
はたして454カスールでヒグマの分厚い脂肪と筋肉と胸骨を貫き心臓を砕けるかどうか、希望は限りなく薄かった。
黄金丸は咆哮を上げながら突進する。たちまちショートレンジまで詰められた。
その丸まった禍々しき黄金の塊は目前で瞬時に金色の邪神像と化し竜造の頭蓋を砕くべく鋭いかぎ爪を大きく振り上げた。純黒の瞳はまるで黒曜石のように輝いている。
陽光に煌めくその姿は神々しく美しかった。引き金に力を加えようとしながらもほんの一瞬、竜造は魅入ってしまった。
その刹那、背後から衝撃波が竜造の頭上を駆け抜け、同時に黄金丸の喉元の下に鶏卵大の黒点を穿った。
一拍遅れで太い銃声が竜造の背後の尾根中腹あたりから聞こえてきた。
ゴールデン・ベアの308win弾、グリズリーバスターの発射音が魔獣の遠吠えのようにこだました。
黄金丸は脱力しながらも最後の力を振り絞って爪を振り下ろしたがすでに必殺の力は失われている。竜造は苦も無くスェーバックでかわすことができた。
金色の巨体は地響きと共に崩れ落ち黒曜石の瞳から急速に光が失われていくのが見て取れる。
「お前の勝ちだ。」
光を失いながらもその瞳は潔く敗北を認めていた。
‥が、それは竜造に向けられたものではないことは理解できた。
気高き黒曜石の瞳は竜造ではなく、そのはるか後方の尾根の中腹を見据えていた。
結局はこの強敵に1発も撃てないまま勝負は決した。
竜造にとっては2度目の敗北である。初の敗北は15年前のミュンヘン、あの日から自分と冬子の運命は決まっていた
「冬子、お前も俺から奪うのか…」
竜造はつぶやいた。
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