第2話 逆光的樹影
検体交換に勝手に応じた事で、妻の椿に一週間泣かれた。勝手に検体交換を進めて決めた事は勿論に、そん精密脳外科手術聞いた事無いからどんな実験台よ、最後は容姿が全く別の誰かになってしまうのがただ悲しいらしい。とは言え、俺になる素粒子物理学の権威黄大樹博士は、47歳も至ってハンサムで、ここは擬似再婚再出発と言う線で…と言い終える前にボクササイズの右フックを土手っ腹に食らい胃液が口中に込み上げた、吐く寸前だった。
その一週間に、妻椿が俺の何処に惚れたのか、ずっと考えていた。見た目ファンシー、才能をひけらかさない、お金はいや当時はかつかつだった。俺は妻椿のご機嫌を取りながら、俺の何をと率直に尋ねた。椿は「Taylor Swift - Everything Has Changed ft. Ed Sheeran」を口ずさみ深呼吸しては、好きを好きと言える純朴な所と、背中から抱きしめられては泣かれ、背中が大きく濡れた。俺達には、もうそれだけで十分だった。
そして2028年1月下旬、旧正月で賑わう中華人民共和国香港特別行政区に渡り、そこから自称名コーディネーター児玉応海にプランニングされた通りに導かれ、香港の新界の国家厳重区域のブラストラン合同療養所に一次入院した。
そして主治医の日本人自由医師美樹本公一教授から、手術日は近い内に行うも、大脳のシナプスを徐々に半減して行く為の投薬は続けるのでどうかご安静にだった。
やがて日々思考能力は落ちて行き、最後は会話もままならず、いつもの中庭の樹影に隠れるベンチで、妻椿の何気無い話に、やっと頷くかだった。
主治医の美樹本先生は確かに腕は立ちそう、経歴はニューヨークで途切れているが、何人もの脳腫瘍の子供達を救っている。担当の看護師小暮咲夜さんも自由看護師ながら、病棟のケアは若い割には気が利くかだ。そしてブラストラン合同療養所の劉再縁総帥も、国家党員ながらも温厚で何かと美味しい飴菓子をくれるらしい。
2028年2月15日。椿からバレンタインで形式的なチョコレートの目録を貰った次の日の朝に、検体交換の離脳手術が急遽決まった。別に動揺も何もなく、ぼんやり始まるかだった。そして医療モルヒネが身体を下って行く程に意識は途切れた。
恐らく、ここは深層意識の底なのだろう。波が大きく揺れる中、意識は確かにあるが思考がついて来ない。その波がまた揺れ戻ると、明晰夢みたいなものが訪れる。そしてそれに購えず、いつかの深緑にいた。
その深緑は、新婚旅行で行った西表島のマングローブの中をカヌーで進むその海面だ。空からの照射と水面の逆光で、俺は漕ぐのが必死だ。その逆光が強くなるのに、俺は何故かその方向に漕いでいる。意識の片隅で、この先は天国だろうとは分かっているが、より流れる潮流に乗りもう止められない。そして不意に逆光が激しいと思った瞬間に、雷の閃光が正面のマングローブに叩き落ち、ほぼ同時に雷鳴が響いた。ゆっくり視界が戻って行く中、ここが深層意識の筈なのに、何故か意思が戻り漕ぐ手が止まった。その時、天使はそこにいた。
カヌーの舳先に器用に立っていたのは、小学校に上がったかの少女で、背中の翼を半ば折り畳んでいた。ただ俺はその天使を知っていた。椿の昔の家族写真に写っている、小学校低学年の椿そのものだからだ。そして見透かされては、天使は囁く。
「ふーん、ここの門迄来て、私、大天使ガブリエルがくっきり見えるものなのね」
「もう、天国なのか、」
「そう、流れて行くなら、やや天国。ただ審査はあるのよね。まあ憲次郎さんは15億名の名簿に載ってるから、大丈夫かな」
「いや、死にたくは無い。いや死んでるから、これなのか、椿」
「そこは、まあ椿さんの姿を借りてるのは、現実世界の思念が明快に入っているからでもあって。何ていうかしら、ここ話すと長いけど、天使は形而上的存在、背中の翼は合ってるけど、多次元実像を実眼に起こす事は困難なのよ。そのままだと、大凡は失神してしまうわね。いや、ついいつもの講釈癖が、コホン。そう大事な事を聞くけど、このまま天国行きたいの行きたく無いの、憲次郎さんは」
「椿に怒られそうだから、帰る」
「でしょうね。愛し合ってるから、そうでしょうとも。まあ私もたまには振られるものよね。でも、戻ってもしんどいわよ」
「でも、椿を愛してる」
「何度も言うと照れ臭いわよ。まあ帰りましょうね。振り落とされないでね」
大天使ガブリエルが、カヌーの舳先で大きく翼を羽ばたかせる、大きな空気振動が起き、マングローブが波打ち、複雑に逆光が突き刺しては、包まれて行く、そして白い集中点の中に俺達一行は集約して行く。
意識では無いどこか。肉体の両耳の位置が察しったのは、さっき聞いた雷鳴では無く、心電図の脈動音だった。そして椿らしき嗚咽が響き、あなた、憲次郎、憲ちゃんと、無菌室らしきビニールに吸収された。
生きてると、思った瞬間に身体中に疼痛が響き、同じタイミングで医療モルヒネらしき冷たい世界に再び落ちて行く。何かが終わって、生きている。それだけで何よりだった。
閉じて行く意識の中で、ガラス細工の大脳が過った。これは俺なのか。そうだった、日本語のやたら達者な劉再縁総帥がレクチャーしていた。検体交換で稀に肉体と意識が離れるが、そこで無関心だったらそのまま天国だよとも。さっき入りかけたのに、また態々行けるかで、必死に体の何処かで食いしばりながら、今は昏睡に沈むしか術はなかった。
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