逆光の樹影、ガラスのリノウ

判家悠久

第1話 契約

 2027年7月1日、内閣府は閣議でヒートアイランド回避環境措置案として、首都を函館に遷都する事を決めた。誰がそんな法案通るかだったが、曰くのある原子力発電所停止の集団訴訟が度重なり、首都圏は各地方からの電力融通の限界をとうに越えた。計画停電は時間単位から曜日単位に変わって、昼も夜も自主規制の監視の目が光り、その有様は何もかも廃都だった。

 そして、市場は急カーブで乱高下し、北海道東北株は急上昇、首都圏は下落した。この複雑怪奇な値幅。誰もが金融庁の証券取引等監視委員会が動いて、大摘発が行われると思っていたが、内閣府はそれどころでは無いと、ノーコメントが3ヶ月が続いて、メディアも流石に諦めて追求もぱたりと止まった。

 そうヒートアイランド回避環境措置案は、発表その半年を経て、函館遷都の真の目的が見えてきた。津軽海峡を我が物顏で通過していた、中国艦隊とロシア艦隊がぱたりと止まった。ここで敢えて野放しにされたメディアの討論番組では、最前線に函館遷都など罷りならん。いや防衛の再配置の最適化で歳費が浮く。そもそも函館に首都圏1350万人を受け入れられか。そう、その函館遷都に俺達来栖夫妻は漏れて、棄民と成り下がった。


 俺来栖憲次郎は、霞ヶ関の大手ボーグナインデザインに勤める画像デザイナーで、政府系の画像関連を担当しては、そこそこの地位を築いた。国民皆制度のシチズントータルカードの人物画像処理、政府広報動画の解像度を上げる処理等々。そう見事な右団扇筈だったが、函館遷都に伴い、入植者を1/10に絞られた事から、俺は真っ先にリストラクチャリングされた。AIでも出来る職種は真っ先にリストに上がり、これも時代だからと給料半年分を掴まされ放出された。

 いや、より少子化社会だから、仕事は選ばなければあるだろうも。俺の失敗は、不動産屋の営業マンに、インフレーションが続いても目黒の5LDKの格安マンションを8000万円で購入した事だ。将来更に値上がりするどころか、東京は廃都まっしぐらで、電気がろくに来ない住居を誰が買うか、それが正しい現状だ。

 いや、それでも羽振りは良かっただろうも。5本の投資信託をしていたが、何れも都市型財形で原本はほぼ原型が無い。こうしてメインバンクの返済猶予措置はあるも、首都圏九割失業時代では転職に有り付けず、辛うじての貯蓄を切り崩す日々だった。ただそれも、悪魔の誘惑はどうしてもある事に気付けないのは、20代後半の若さ故だろう。


 その悪魔は、函館への引っ越しで慌ただしい霞ヶ関のサロン、そう平和なあの日であれば、何かと気軽に仕事をオファーされた会員制ラウンジカフェで出会った。

 俺は初対面だが、名刺を差し出した顎鬚をたくわえたカナウオフィスの児玉応海は、ただ馴れ馴れしく接する。日本で十指に入る画像デザイナーの来栖憲次郎のお噂は予々。これもご縁なのですが、ただこの首都圏総失業で人付き合いも順序が有るので、USAのオフィスの紹介は2年掛かりそうと。いきなり渋い話になったが、あと2年で挽回のチャンスあるならと、俺は笑顔で繋いだ。

 俺の乗り気を察した児玉応海は、鞄から恭しく3枚の封筒をテーブルに並べた。俺は一枚一枚抜き出した。大西洋漁業加工員、根室防衛大隊基地作業員、検体交換の3つの職種だった。何れも重労働作業で、その2年間で代えがたい手指の感覚を削がれるのは分かった。そして最後の検体交換のあらましと各項目は空白も、支度金1000万円に各種厚生有りが気になった。児玉応海はこれ見よがしに前のめりになる。


「流石は来栖さん、それを選ぶとはお目が高い。お仕事とはオファー金額が多ければ、実にやりがいがあると言うものです。ただ少々手順が有りましてね。ここはお受けする前提でなければ、残念ながら新設の防衛防波堤に埋まる事になりますが、如何されますか」

「検体交換、臓器移植ならば、多少は割り切れます。ただデザイナーの砦である、手指の感覚を保証してくれるかどうかです」

「いや、ごもっともです、流石ですよ来栖さん。ここは12所見のうち、9所見は事務作業に何ら問題なく復帰されているようです。確率としては7割5分と、よくある手術では大成功の部類ですよ。来栖さん、このままお話を進めて宜しいですか。ここが運命の分かれ道ですよ」

「この落ちぶれた身に、支度金1000万円は有難いです。万が一の失敗でも、妻椿に保険金は降りるのでしょうか」

「そうですね、そのまま保険金の品目になりませんが、目黒のご邸宅のほぼ補填は可能でしょう。椿さんの今後の身の振り方も当然慮りますので、どうかこの名コーディネーター児玉応海にお任せ下さい。来栖憲次郎さん」

「防衛防波堤の埋まる埋まらないは、腹を括ります。お話を続けて貰えますか」

「流石は、霞ヶ関にこの人材有りと呼ばれた来栖憲次郎さんです。お話はインパクトがどうしても強いので、端的に申し柔らかくしょう。検体交換とは、リノウ、離れる脳と描いて、離脳手術です。そう、脳だけを交換して、何事もなく日常復帰する、大先鋭手術です」


 その後の事は、ただ痛々しく全く頭に入らなかったが、要所は叩き込まれた。脳を交換するのは未だ人道上の壁で、とある国での手術になる。勿論成功の確率は7割5分だから、何の問題はあるか。見た目そのまま別人も、リモートワーク主流になった時代で何の不都合があるかと。いや、そもそもその検体交換する相手は誰になったが、それは契約書に署名してからだった。

 表紙を含めた8面の双方向契約書は、日本語と中国語が書かれていた。ここでただ深く察した。俺は妻椿からのお祝いとして貰った万年筆で署名し、果たして署名されていない相手の乙契約者の名を聞き出した。

 その人物は、まさかだった。素粒子物理学の権威黄大樹博士。理論上の時間旅行は可能で、大規模非破壊エントロピー施設があればも、いつになりますかねが常々のオチだった。何故の検体交換かは、より若い肉体を得て学術を長らく極めたいらしい。ただ名コーディネーター児玉応海は、進退窮まると目力が強くなり三白眼になりがちらしい。裏はあるだろうが、受領金額はしっかり確認した。あとはどうにかなるかで、肝は座った。

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