05 思い出の欠片

 父が遺したものは、この小さな家と家財道具、そして幾ばくかの金。

 幸いにも借金の類はなかったようで、相続すれば少しは俺の生活にも多少の余裕が生まれるだろう。

 とはいえ、ほとんど交流がなかった相手の遺産だけをまんませしめるというのは、どうにも気が引ける。

 放棄する場合は早めの手続きがいるそうだが、店主は「彼の遺した物を確かめてから決めてもいいんじゃないでしょうか」と助言をくれた。

「君はショウのことを、ほとんど知らないのでしょう。せめて彼がどんな人で、どのように暮らしていたのかだけでも、君に知って欲しいのです。それが一番の弔いだと、私は思います」

 そう――俺にとって父は、あまりにも遠い存在だった。

 共に暮らしたのは、たったの四年。物心がつく前に両親が離婚してしまったから、父との思い出などほとんどない。

 ――いや、一つだけ。思い出とも呼べない断片的な記憶ならある。


 蒸し暑い庭、吹き抜ける夜風。そして――パチパチと弾ける火花の音。

 危なっかしい手つきで線香花火を持っている俺を支えてくれた、大きくて無骨な手。


 覚えているのは、たったそれだけ。顔も声も、何もかもがおぼろげで。

 そんなあやふやな記憶しかないのだから、墓前に花を手向けても、何の感慨も覚えなかったのは至極当然のことだろう。

「ところで、いつまでこちらにいられるんですか?」

 お仕事を休んでいらしたのでしょう、と問われて、ええまあと頬を掻く。

「有給休暇を溜め込んでいたので、ついでだから消化してしまえと言われまして。夏休みと合わせて三週間もらえました」

 どうせお前は取れと言っても取らないんだから、この機会にがっつり休めと、半ば強制的に取らされたような有休だ。

「それなら、こうしましょう。まずは一週間、あの家に遺された物で、明らかにこれは不要だと思われる物を選別して欲しいんです」

 遺産を放棄すれば屋敷は家財ごと競売に掛けられることになるだろうし、相続したあとに売却するなり人に貸すなりするとしても、不要品は分別・処分しなければならない。

「判断に困る物があったら呼んで下さい。あと、昼と夜はうちの店へいらして下されば、賄いで良ければお出ししますよ」

「助かります。……本当に、何から何までお世話になってしまって」

 恐縮する俺に、店主は「いやなに」と頭を掻く。

「ショウには色々とお世話になりましたから。数え上げたらきりがありませんが、例えばうちの店の経営が軌道に乗ったのも、彼が足繁く通って、呼び水になってくれたからなんですよ」

 Bar『金魚』は、勤め上げた会社を定年退職して故郷に戻ってきた店主が、つい五年ほど前に始めた店なのだそうだ。最初は看板のインパクトが強すぎて、金魚を売っている店だと勘違いされていたらしい。

「彼も最初は金魚目当てにいらしたようでね。いやうちはバーなんです、と言ったら、金魚も好きだが酒も大好きだと言って、それからしばらく毎日通ってくれたんですよ」

 やがて「いいバーがある」と噂を聞きつけた酒飲み達が集まるようになって、店はほどほどに繁盛するようになり、今もどうにか看板を下ろさずに済んでいるそうだ。

「後から聞いた話ですが、彼があちこちでバーの宣伝をしてくれていたそうなんです。旨い酒とつまみを出すバーを見つけたんだが、自分は医者に酒を止められていておおっぴらに飲めないから、誰か俺の分まで飲んでくれないかってね」

 懐かしそうに目を細めた店主は、ふと思い出したように「これは彼の受け売りなんですが」と続けた。

「ショウ曰く、受けた恩というのは本人には返せないもんなんだそうです。だから別の人に、別の形で返す。それがどんどん繋がって、世界は少しだけ優しくなるんだろうってね」

 だから店主は、わざわざ俺を捜し当て、優しさのバトンを繋ごうとしてくれたのか。

 母から聞かされていた「無口で気が利かなくて、何を考えているか分からない夫」は、きっと店主にとっては「寡黙で心優しい、気の置けない友人」だったのだろう。


 顔も知らない父の姿が、俺の中で少しずつ形作られていく。

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