第2話 魔界の兄弟

 荒野に聳え立つ、堅牢な石城。陰謀渦巻く魔界の王宮。

 そこに集いしは、実力が物を言う世界で成り上がった者達。弱者を踏み台にし、他者を蹴落として這い上がった魔物達、そして更なる高みを望む者達によって血に塗り固められた魔窟である。

 その城の、一室の扉が荒々しく開いた。

「元気か、引き籠もり」

 魔王ザッハータの嫡子にして長男――部屋の主、レセーンが無作法な入室者を振り返れば、そこには腰に長剣を帯びた一人の異形。彼の弟、ラサンテがずかずかと入り込んできた。

「引き籠もりと言うな」

 仏頂面で、レセーンは机に広げた書物をぱたりと閉じて立ち上がった。

 すらりと引き締まった長身には、魔術師のローブがよく似合った。蜥蜴のような黒い皮膚は鈍く艶めき、頭部はさながら竜のよう。すっと後ろに伸びる二本の角は、優美に緩く上へ反る。そして何よりも見る者の目を惹き付けるのは、蒼海の如き瞳であった。

 深い智慧ちけいを湛え、穏やかに凪ぐ群青の水面。弟の、凍てつく炎を閉じ込めた紅と対をなす、美しき青玉であった。

「あまり根を詰めすぎると頭がいかれるぞ。気晴らしに付き合え」

「お前こそ休んだほうがいいと思うがな……」

 このまま部屋に籠もっていたいという怠惰な気持ちと、弟の相手をしてやりたいという真摯な気持ちが暫し葛藤した。確かに気晴らしも必要ではある。が、弟の言う気晴らしは全く気晴らしでない。苦行である。頭ではなく身体がいかれる苦行である。

「悪いが今日は腰が」

「それは座りっ放しだからだろう。行くぞ、ほら早くしろ」

 言い訳はあっさりと切り捨てられた。反論の余地がないのが何とも悔しいところである。

「……仕方ないな」

 結局こうなるということは知っていた。幾ら粘ったところで、最終的には部屋から引きずり出されるのだから、読書の続きは潔く諦めた方がよい。

 レセーンは手早く着替え、長剣を手に取ってラサンテに続き、私室を後にした。


 底冷えする薄暗い廊下に、軍靴の硬い音が響く。兄弟が向かうのは剣の間――魔物達が鍛錬や私闘を行う広間の一つである。

 大股に隣をゆくラサンテからは、既に殺気じみたものが滲み出していた。

「お前は本当に好きだな、剣術が」

「魔術馬鹿に言われる筋合いはない。一日中本なんぞ読んでいたら足腰が萎えるぞ」

 レセーンがふと呟けば、痛烈な台詞が飛んでくるのも常のこと。ラサンテは遠慮という言葉を知らぬらしい。

 言うほどのめりこんでいる気はないのだがな、とレセーンは苦笑した。何も彼とて、昼夜を問わず魔術の研究や読書に耽っている訳ではない。薬の調合もすれば、散歩もするし、身体を鍛えもする。それを言うならラサンテの、剣術への傾倒具合の方が余程酷いだろう。暇さえあれば剣を振るい、好んで己の肉体を痛めつける弟の方が遥かに酔狂だ、とレセーンは思っていた。

 しかし、ラサンテの皮肉もある意味正鵠を射ていると言えよう。近頃は特に動くのが億劫で、あまり部屋から出ていないのは事実であった。そのおかげか、あちこち調子が悪いのもまた事実である。休みなく身体を鍛え上げる弟に比べれば、レセーンの体力はかなり貧弱なものだった。

 そもそも体格からして違う。身長こそほぼ変わらぬが、がっちりと筋肉を鎧うラサンテに対し、レセーンの身体は些か平坦すぎた。尤も全く弛んではおらず、理想的な体型と言えたが――。

「お前こそ、よく身体を壊さないものだ。それに、飽きないのか」

「そのまま返してやろう。何故剣のよさが分からんのだ」

 レセーンが進んで剣を握らぬ理由は、運動嫌いとは別の所にある。

 上流階級の嗜みとされている剣術。魔力に頼らず、正々堂々と勝負を行う。どんな汚い手でも許される魔界においては、最も神聖で美しい勝負事かもしれぬ。

 しかし所詮、剣は相手を殺すためのものであった。魔術はその限りではない。無論刃にもなり得るが、薬にもなる。剣の場合は、そうはいかぬ。

 また、剣戟ともなれば、肉を斬り裂き骨を断つ感触が直接伝わってくる。それがどうも好かぬ。魔術ならば離れた場所から手を下すことも可能なのであるが。

 いつのことだったか、かくかくしかじかとラサンテに打ち明けてみれば、馬鹿馬鹿しいと一笑に付されたのであった。どうやら彼の抱える嫌悪感は万人に共通のものではないらしい。誰に聞かずとも、魔戦士達が目をぎらつかせ、猛々しい笑みを浮かべながら剣を振るう様を見れば明白なことではあったが。

 剣よりも魔術を好み、殺しではなく治癒魔術の開発などに躍起になっている俺は、もしかして腑抜けなのだろうか。時々、そう思わずにはいられぬレセーンであった。


 厚い鉄扉を押し開くと、わっと剣戟の喧騒が溢れ出た。得物を打ち合わせる音、土の床を踏み鳴らす音、荒々しい罵声と雄叫び――それらが高い天井に反響し、幾重にもなって谺する。

「随分とやかましいな、今日は。暇人共め」

 平穏な昼下がり、この日は戦士達の大半が、午睡より剣を取って血を流し合うことを選んだらしい。

「多いな。何人死傷者が出ることやら」

 レセーンは一人呟いた。ここは無法地帯である。どれだけ相手を葬り去ってしまおうが、ここでは事故ということになる。その代わり広間を出た後はどうなるか知らぬが、少なくとも敵を潰すには格好の場所であろう。面子というものを利用すれば、私闘に持ち込むのは比較的容易である。

 勿論、全員が権力絡みのどす黒い陰謀を抱えてやってくる訳ではない。しかし、単純に血に飢えた狂戦士はそれこそ腐るほどいる。憂さ晴らしに相手を殺す輩も少なくない。仮に命までは失わずとも、無傷で剣の間から出られる者は殆どおらぬ。

 彼らはひたすらに戦いを愛する蛮族であった。死傷者が出るのは常であったが、何故か今日は殊更に異様な熱気が満ちており、普段よりもむくろの数は増えると思われた。

 だが、この世界でそんなことを気にするような者はいない。レセーンの物憂げな嘆息を他所に、血飛沫と断末魔はあちらこちらで上がる。

 弱者必滅。それが魔界の理であった。

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