氷花炎月、泡沫夢幻
戦ノ白夜
第1話 汚れ仕事
ぽたり、ぽたり、と、水が滴り、ゆるやかに石を穿つ音。
それは陰鬱な空気を僅かに震わせながら、虚ろに響いた。
じっとりと湿った静寂──重苦しい黒の淀みの中に走る、赤い光。
誰も知らぬ地の底で、今日も一人、身の程知らずの哀れな男が闇に葬られようとしている。
「さて、いよいよお楽しみの時間だが」
殺し屋は薄く笑いながら、鎖で縛った今日の標的を濡れた石の床に蹴倒した。猿轡を噛まされた虜囚の口から、途切れ途切れの唸り声が漏れる。
「どうやって遊んで欲しい? 水責めか、火炙りか? 槍で壁に磔にして、臓物を引きずり出しながら喰らってやろうか」
足元でのたうち回る男を余所に独語し、数歩、足音を響かせる。
不意にゆらりと炎が点った。蠟の燻る臭いが流れてくる。
笑う男が松明を掲げれば、辺りが朧気に照らし出された。
「見ろ。選び放題だ」
黒ずんだ石壁に、所狭しと恐ろしげな道具が備え付けられていた。鋲付きの鞭、巨大な
到底座りようのない針の椅子、縛り台、炉、締め具、その他用途を想像するのもおぞましい、得体の知れぬ物の数々が、揺らめく炎の光を映して凶悪にぎらついた。
ここが何のために用いられる場所であるかは一目瞭然であろう。
壁伝いに松明を点し終えたこの部屋の主──
獲物を見下ろす瞳は血の紅、愉悦を滲ませる歪んだ口許とは裏腹にこれでもかというほど凍てつき、その眼差しは霜剣の如く研がれ、虜囚を刺し貫いて圧する。
魔王ザッハータの嫡子、幼き頃より神童と謳われた兄弟の片割れ。剣聖の名を認められた戦士にして、裏の世にも悪名高き謀略家。
その名を、ラサンテという。
連れてこられた男は、猿轡を外されるや否や喚き散らし始めた。
「大人しくせんか。鎖が解けん」
そんな男の横っ面を殴り飛ばし、がんじがらめに巻き付けた鎖を外し、ラサンテは彼を解放した。途端に男は入り口に走る――その背中に、冷えた声が掛かる。
「阿呆か貴様は。出られる訳なかろうが」
固く閉ざされた扉に、半狂乱になって爪を立てる男。ラサンテは悠然と歩み寄り、襟首を掴んで引き剥がした。
「止めろ、止めろォッ……!!」
「さっさと寝ろ、愚か者」
暴れる男を拘束台へと引きずりつつ、容赦なく腹を蹴り上げる。
骨というものは、拍子抜けするほど簡単に折れるものである。ラサンテの脚力にかかれば尚更であった。
台に寝かされ、四肢を固定されるまでに、哀れな男は肋を六本折られることとなった。
「何をする気だッ」
「分からんか? 貴様が吐くべきことを吐くまで、俺はこれを締め続ける。指を潰し捩じ切ったら次は、そうだな、肉でも削いで焼くか。その前に爪は剥がしておいてやろう」
拘束台に取り付けられた親指締めの
「俺が何をした!! 頼む、止めてく……」
「とぼけるな。ガーダの奴と密約を結んで、俺の兄を殺ろうと画策していたろう。他に加担しているのは誰だ? 首謀者はガーダか、それとも奴の父親か? 貴様の一族は皆ぐるか? 無駄に口を閉ざしても、苦痛が長引くだけだぞ」
「俺は何も知らん……ッ」
ラサンテが手を止めようと、止むことはない苦痛の波。爪を剥がされ露出した指先を、空気の微かな揺らぎまでもが滅多刺しにし、締め上げられた指は絶えず悲鳴を上げる。脂汗を浮かべながら掠れる声で抗言しようとも、ラサンテは微塵も取り合わぬ。覗き込んでくる彼の、血も涙もない、ただひたすらに寒々しく男を断罪する無表情と言ったら!
「型通りの問答をする気はない。早く答えろ」
「だから俺は……っぁあああ!!」
「何を渋る? 一族の復讐が怖いか? 安心しろ、何れにせよ貴様に明日はない。例え貴様が口を割らずに死のうとも、他の奴に吐かせるだけだ。無駄な自制など早く捨てろ。貴様らに俺の兄は殺せぬ。俺が全て潰す」
――結局、ラサンテが満足のゆく男の自白を得たのは、爪を剥ぎ、指を潰し、脛の皮を削いで焼き出した時だった。これでも常に比べれば早い方である。
「ご苦労だったな。貴様が堪え性のない奴で助かった。ちなみに教えておくが、実を言えば、貴様の心など読もうと思えばこじ開けて読めるのだ」
拷問が終わる頃には、ラサンテの声から獲物を甚振る甘やかさは一切消え、その代わりに静かなる怒りを孕んだ。強者の余裕に満ちていた気は今や痛いほどに張り詰め、息すらも妨げる。
「ならば何故拷問などしたのか、とな。兄に手を出そうとした奴は、それなりの苦痛を味わってから死んでもらわねばならぬ。身の程を知れ、屑が」
昏い目と昏い声とが、過ちを、死を告げる。
「死ね。貴様のような下衆如きが、我々に手を出したことを悔いるがいい」
そう言い捨て、ラサンテは両手で掲げた大剣を振り下ろした。新たな血が、石に染み込んでいった。
◇
「やれやれ、すっかり眠り損ねたな、今日は」
死体を焼いて処分し、一仕事を終えた彼は、何食わぬ顔で地上へ向かった。昼の住人に戻るのだ。兄と共に、今日も表の一日を過ごすのである。
男の血の未だ乾き切らぬ部屋には再び、死者の湿った沈黙が戻った。
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