第1話 宇佐美安吾は会社を辞めた

「母親が死んだぁ? だからどうした! 俺が若い頃は会社で家族のことなんか口にする奴はいなかった! 何故だかわかるか! みんな仕事に命賭けてたからだよ! 宇佐美ぃ、お前少し成績がいいからって調子に乗ってんだろ? だから仕事を休ませろなんて身勝手言えんだよな!」


 管理職用の席に偉そうに腰掛けた中年男が沸騰したヤカンのように顔を真っ赤にして喚き散らしている。

 ドスの効いた声に耳を塞ぎたくなる声量。

 キレたら何しでかすか分からないような情緒の不安定さが加われば対面する相手は萎縮してしまう。


「…………母の葬儀です。子供の頃に父が出て行ってからずっと一人で俺を育ててくれていたんです。就職してからはあまり会ってなくて、今回も近所の人が教えてくれて……最後くらい、ちゃんとしないと」

「お前がちゃんとすべきは仕事だ! 殴られねえと分からねえのか! テメエの母親が死のうが生きようが会社には関係ねえんだよ! 死体を火葬場に置いて来ればいいだろ! 向こうだって死体が転がってたら燃やすしかねえだろうしな!」

「……三日だけでいいですから」

「ふざけんな! 他の奴が許しても俺は許さん! 最近の若い奴は甘やかすとつけあがるからな! 母子家庭!? 知らねえよ!! どうせお前の母親がだらしねえから旦那に逃げられたんだろ!!」


 ……泣き落とし失敗。もういいや。


「ん? なんだその手は? 面白いな、殴ってみろよ! そんなことしたら謹慎じゃ済まねえぞ! 世間じゃコンプラだとかなんとか騒いでるが我が社で上司に逆らうような奴に居場所はない」

「ああ、だったら話が早いや」


 グシャッ!


 社会人になって初めて人の顔を殴った。


「ブッハァアアアア!!」


 母さんの葬儀のため、忌引きを取ろうとした俺に侮辱と暴言の限りを尽くしていた上司は鼻血を垂らしてオフィスのOAフロアに大の字に倒れた。

 さらに馬乗りになって殴りつける。


「課長、わかってくださいよ〜分かっていただけるまで何度でも殴りますよ〜!」

「や、やめ! 警察呼ぶグフっ!!」

「ちょっと殴られたくらいで泣き言ですかぁ? 警察呼ばれたら困るんですよ。これから母さんの葬儀やなんやらやることいっぱいなんで」


 親指を課長の眼球にピッタリとくっつけてさらに脅す。


「葬儀が終わった後ならどうぞご勝手に。取調室でアンタが会社の金着服した話とか愛人の部屋を社宅扱いで借りてやってることとか諸々、全部自白ついでにしゃべってやるけどな。原稿用意しとこ」


 するとヤツは顔面蒼白になりブルブルと震え出した。

 くだらない……

 鬼の営業課長だなんて異名を付けられており恐怖政治で部下を馬車ウマの如く働かせてそれなりの実績を積んでいるが、時代遅れ甚だしいコンプラ意識の低さと素行の悪さから出世しきれない男だ。

 いくら恫喝と威圧が得意でも、上場企業に入ってくる時点でヤクザなわけでも犯罪者なわけでもない。

 せいぜい体育会系育ちで下の連中を支配するのが得意というだけだ。

 こんな奴にビビって有休も取らず毎日会社に来ていた自分がバカバカしい。


 パソコンに保存していた退職届をプリントアウトして叩きつけ、ついでに退職日までの有給届を奴のデスクに置いて退勤した。



 で、それから実家に帰り葬儀を済ませ、落ち着くと「これで完全にひとりだな」とため息をついた。


 元々、人の縁に薄い人生を歩んできた。

 父親は俺が小学校に上がる直前に女を作って出て行ってそれから母子家庭だ。

 今以上にシングルマザーに対する風当たりの強い時代、身を粉にして働いてもたいした給料は稼げず、俺は中学生の頃から新聞配達のバイトをしたりしていた。

 同級生達は同情の目を向けてはくれていたが人付き合いも悪く、遊び方も知らないヤツと親しくはなりたいと思わなかったらしく孤独な青春を送っていた。

 それでも苦学しながら大学を卒業して給料の高い会社に就職した。


「これから母さんに楽をさせてあげられる。今まで苦労した分、二人とも幸せになろう」


 と思ったのに、社会人生活はそれまでとは比べ物にならない過酷な日々だった。

 仕事の内容をざっくり説明するなら、金と土地を持っている老人を丸めこんで儲かりもしないアパートやマンションを建てさせる仕事だ。

 ノルマはキツく人の心を失くした上司に毎日怒鳴られ人格を否定される毎日。

 同期が次々と辞めていく中でも俺は岩に齧り付く思いで粘り続け、それなり以上の成績を修めていた。

 おかげで金は貯まったが、恋人はおろか友人もなくソシャゲと動画視聴くらいしかやることのない毎日を送っていた。

 そんな暮らしを心配してくれていた母親ももういない。

 夢も希望もなく、ただ金を稼ぐために人生を消費していた俺は完全に生きる目的を見失っていた。


 そんなこんなでぼんやりと暮らしていた俺が突然、散財しよう! と思い立ったのは貯金を減らし、労働意欲を復活させるためだ。


 クソみたいな企業だったが金払いだけは良かった。残業代はキチンとついたし、賞与も年三回あった。

 実家に仕送りをする以外はろくに金を使わなかったので俺は27にして小金持ちになっていた。

 その上、母さんは仕送りに手をつけず、丸ごと貯金してくれていたため、そのまま遺産に流れて俺の貯金は2000万近くになっていた。

 数年は何もせずに暮らせる余力があったけど、長い間社会に復帰しなければ確実に腐ってしまう。

 そうなることは母さんも望んでいないだろう。

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